黒冠商会
白い光の廊下は、冷たかった。
紙の匂いがしない。
インクの匂いもしない。
代わりに、油。
磨かれた金属。
乾いた革。
そして、薄い香水の匂い。
王都記録院の白さとは違う。
同じ白でも、ここは売り物の白だった。
壁は滑らかで、継ぎ目がない。
床は硬い石。
踏むと、こつ、と音が返る。
その音が、妙に綺麗に響く。
廊下の左右には、白い扉が並んでいた。
すべて同じ形。
同じ大きさ。
同じ黒い取っ手。
扉の上には、小さな黒い冠の紋章。
商会の印。
ノエルは鉄箱を抱えたまま、低く言った。
「きれいすぎる」
「うん」
「嫌な感じだな」
「うん」
「汚れてる方がまだ信用できる」
ルカは頷いた。
紙の心臓の中を抜けてきたせいか、服には白い紙粉がついている。
ノエルの包帯には赤が滲んでいる。
鉄箱には黒い染み。
ルカの道具袋は煤と泥。
その全部が、この廊下では異物だった。
遠くから。
たん。
クロの拍が返る。
ここでも聞こえた。
かなり遠い。
布の庭。
寝台の子。
紙の心臓。
記録柱。
その全部を越えて、まだ届く。
鉄箱の角から、拍。
とん。
ノエルは右手を鉄箱の横に置いたまま、歩いている。
胸へ戻していない。
布は血で濡れている。
その下で、真鍮の指輪がときどき鳴る。
こん。
廊下の白い壁が、その音に反応した。
黒い冠の紋章が、ほんの少しだけ濃くなる。
ノエルが睨む。
「見るな」
「壁に言ってる?」
「壁にも、お前にも」
「見てない」
「見てた」
「少し」
「いつも少しだな」
「うん」
最初の扉の前で、鉄箱が鳴った。
こん。
ルカは足を止める。
扉の上の札。
商品目録室。
ノエルが顔をしかめた。
「商品?」
ルカは取っ手に触れない。
扉の隙間から、冷たい空気が漏れている。
その空気の中に、声が混じっていた。
小さい声。
泣き声ではない。
笑い声でもない。
値段を読み上げる声。
『初声、一瓶』
『母体呼吸、二瓶』
『未定児拍、三束』
『返却札付、要相談』
ノエルの左腕に力が入った。
「売ってんのか」
ルカは答えない。
廊下の向こうで、紙ではない鈴の音がした。
ちりん。
黒冠商会のもの。
きれいな音。
欠けていない音。
ルカの道具袋の中の欠けた鈴が、低く震えた。
ち。
すぐ押さえる。
欠けた鈴の音は、売り物の鈴の音と合わない。
合ってはいけない。
ノエルが扉に近づこうとした。
ルカは袖を掴む。
「開けない」
「見ねえと」
「見たら、値がつく」
ノエルが動きを止めた。
扉の隙間の声が、少しだけ大きくなる。
『ロイド家遺品、未精算』
ノエルの右手の指輪が鳴った。
こん。
ノエルの顔が変わる。
「今、言ったな」
「ノエル」
「言った」
扉の向こうで、紙をめくる音ではなく、帳簿をめくる音がした。
厚い紙。
商売の紙。
『槍一本』
『右手残響、未回収』
『指輪、所在不明』
ノエルが扉へ踏み出した。
ルカは鉄箱を押さえる。
「だめ」
「どけ」
「だめ」
「どけ」
ノエルの声が低い。
右手が箱の横から離れかける。
布の下の指輪が激しく鳴る。
こん。
こん。
こん。
扉の取っ手が、自分から少し動いた。
開こうとしている。
中へ誘っている。
ロイド家。
槍。
右手。
指輪。
全部を商品目録へ戻そうとしている。
ルカは鉄箱の角を叩いた。
か。
ノエルの左腕が震える。
ルカはもう一度。
か。
遠くから。
たん。
クロ。
鉄箱の角から。
とん。
ノエルの呼吸が、一つだけ乱れた。
それから、右手が止まる。
ノエルは取っ手を睨んだまま、歯を食いしばった。
「……行く」
ルカは袖を離した。
「うん」
「後で壊す」
「たぶん禁止」
「知るか」
扉の取っ手が、かちりと戻った。
中の声が止む。
廊下がまた静かになる。
二人は進んだ。
白い扉が続く。
商品目録室。
洗浄室。
鑑定室。
再封室。
買付待機室。
どれも、黒い冠の印。
どれも、きれい。
どれも、嫌な匂いがした。
鉄箱が、ときどき小さく鳴る。
こん。
そのたび、扉の向こうから何かが反応する。
瓶の光。
低い泣き声。
笑い声。
商談の声。
紙袋を結ぶ音。
ルカは耳を塞ぎたくなった。
でも、塞がない。
塞げば、ノエルの足音を聞き逃す。
クロの拍を聞き逃す。
鉄箱の中の拍を聞き逃す。
廊下の途中に、ガラスの壁があった。
白い廊下の右側。
壁一面の透明なガラス。
その向こうに、大きな部屋。
台が並んでいる。
台の上に、遺物。
割れた皿。
焼けた人形。
錆びた鍵。
欠けた櫛。
曲がった銀匙。
小さな靴。
そして、槍。
ノエルが止まった。
ルカも止まる。
ガラスの向こう。
白い台の上に、一本の槍が置かれていた。
穂先は外されている。
柄は磨かれている。
傷は残っている。
そこに、カイルが握った跡がある。
ノエルの喉が鳴った。
右手の布が震える。
指輪が鳴る。
こん。
槍も、ガラスの向こうで鳴った。
こん。
ノエルは一歩近づく。
ガラスに手をつきそうになった。
右手ではなく、左手。
鉄箱を抱えた左腕。
だが、鉄箱がある。
触れない。
ノエルはガラスの前で止まった。
槍の横に、札。
王都東区警備隊制式槍。
戦死者残響あり。
ロイド家系紐付け。
右手欠損記録、不完全。
黒冠預かり。
ノエルが低く笑った。
笑いではなかった。
「預かり」
槍の横に、もう一枚札がある。
販売不可。
観測用。
ルカの木札が熱くなった。
観測。
エルヴィン。
黒冠商会。
記録院。
ノエルがその札を見て、口の端を歪めた。
槍は鳴らない。
でも、ガラスの向こうで、柄の傷が少しだけ黒くなる。
ノエルの右手の指輪がまた鳴った。
こん。
槍が答える。
こん。
ルカは鉄箱を支えながら、ガラスを見た。
ガラスには二人が映っている。
ルカ。
ノエル。
鉄箱。
そして、背後にいるはずのないもの。
白い面。
回収係。
廊下のずっと後ろに、白い面が一つ立っていた。
振り返る。
いない。
ガラスにはいる。
白い面は、映ったままこちらを見ている。
赤い糸がガラスの中で揺れる。
ノエルが気づいた。
「映り込みか?」
「違う」
「だよな」
ガラスの中の回収係が、赤い糸を伸ばした。
現実のガラスには何もない。
だが、ガラスの中の糸は、映ったノエルの右手へ向かう。
ノエルの布が、現実でも震えた。
ルカは欠けたナイフを抜く。
ガラスへ刃を向ける。
切れば、槍の部屋が開くかもしれない。
割れば、音が出る。
商会が来る。
回収係も来る。
ナイフの欠けた刃が、ガラスの映り込みの赤い糸に合った。
ぴたり。
ルカは捻る。
ガラスは割れない。
かわりに、映り込みだけが歪んだ。
白い面の赤い糸が、ほどける。
ガラスの中の回収係が消えた。
ノエルが息を吐く。
「鏡まで敵かよ」
「うん」
「嫌な金持ちだな」
「うん」
槍が、もう一度鳴った。
こん。
ノエルの右手が、箱の横から少し離れた。
ルカは止めない。
ノエルは右手をガラスへ出さない。
胸へ戻しもしない。
槍を見る。
指輪が鳴る。
こん。
槍が返す。
こん。
それだけ。
ノエルは言った。
「持ってく」
「今?」
「無理だな」
「うん」
「でも、持ってく」
「うん」
「兄ちゃんのじゃなくても」
ルカはノエルを見る。
ノエルは槍を見ていた。
「観測用でも、商品でも、証拠でも」
右手の布が震える。
「俺が、持ってく」
ルカは答えない。
鉄箱の角から、拍。
とん。
遠くから。
たん。
クロ。
槍も、ガラスの向こうで。
こん。
白い廊下の奥から、足音がした。
こつ。
こつ。
商会の靴音。
回収係の足音ではない。
人間の足音。
軽い。
落ち着いた。
高価な靴底。
ノエルが槍から視線を外す。
ルカも廊下を見る。
白い廊下の奥。
黒い冠の紋章の下から、人影が現れた。
男。
黒い上着。
白い襟。
手袋は黒。
記録院の白とは逆。
顔は若く見える。
けれど、目が古い。
男は笑っていないのに、笑っているような口元だった。
その胸に、黒い冠の留め具。
商会の人間。
男は二人を見た。
鉄箱を見た。
ノエルの右手を見た。
ルカのナイフを見た。
それから、ガラスの向こうの槍を見た。
「ようやく来ましたか」
声は柔らかい。
店先の声。
客を迎える声。
ノエルが鉄箱を抱え直す。
「誰だ」
男は軽く頭を下げた。
「黒冠商会、記録外資産管理部」
「長い」
「では、商人で」
「もっと嫌だな」
男は口元だけで笑った。
「ノエル・ロイド様」
ノエルの右手が震えた。
ルカの木札も熱くなる。
男は続ける。
「ルカ・グレイ様」
ルカは返事をしない。
男は気にしない。
むしろ、それを見て少しだけ楽しそうにした。
「返事をしないお客様は珍しい」
ノエルが低く言う。
「客じゃねえ」
商人は一歩も近づかない。
距離を保っている。
鉄箱の黒い染みに触れない距離。
欠けたナイフが届かない距離。
ノエルが飛びかかれない距離。
ルカは男の靴を見た。
靴底に、赤い糸が一本絡んでいる。
回収係の糸ではない。
商会の糸。
黒に近い赤。
男は気づいている。
わざと見せている。
ノエルが言う。
「槍を返せ」
男はガラスの向こうを見た。
「あれは預かり品です」
「誰から」
「記録院から」
「記録院のものじゃねえ」
男は微笑んだ。
左右の扉が、音もなく開く。
黒い糸が、廊下へ溢れ出した。
ノエルが槍を見る。
ルカは鉄箱を抱え直す。
ノエルの指輪が鳴る。
こん。
ガラスの向こうで、槍が答えた。
こん。
黒い糸が床を這う。
足ではなく、影を狙って。
白い廊下に落ちたノエルの影へ。
ルカの影へ。
鉄箱の影へ。
欠けたナイフの影へ。
ノエルが踏み出した。
黒い糸が、ノエルの足首ではなく、影に絡んだ。
ノエルの体が止まった。
「っ……!」
ルカはナイフを影へ当てる。
切れない。
影に刃は刺さらない。
だが、欠けた刃の隙間が、影の縫い目に合う。
ぴたり。
捻る。
黒い糸が一つ、影からほどける。
ノエルが片膝をつく。
動ける。
だが、完全ではない。
商人の目が、初めて少し開いた。
「それは便利ですね」
「売らない」
ルカが言った。
商人はルカを見る。
その口元だけが、また笑った。
左右の扉が、さらに開く。
黒い糸が、廊下へ溢れ出した。
ルカは鉄箱の角を叩く。
か。
遠くから。
たん。
クロ。
槍。
こん。
ノエルの指輪。
こん。
か。
たん。
こん。
こん。
合わない。
商人の黒い糸が、触れる相手を探して迷う。
ガラスが、細く割れた。
ぴし。
黒い糸が一斉に伸びる。
ルカたちの影へ。
鉄箱の影へ。
欠けたナイフの影へ。
ノエルの指輪が、もう一度鳴った。
こん。
槍が台から落ちる。
ルカがナイフの柄で叩いた。
かん。
槍の柄に残っていた傷が光る。
黒い糸がほどける。
槍は、ノエルの足元へ滑った。
ノエルは左手で掴む。
右手は、鉄箱の横にある。
槍が重く鳴った。
こん。
黒い糸が、槍へ絡もうとする。
ノエルは右手を槍へ添えた。
布越しに。
指輪越しに。
直接ではない。
こん。
槍が答えた。
こん。
黒い糸が、床へ落ちる。
商人が振り返った。
その背後で、新しい扉が開く。
広い部屋。
机。
帳簿。
壁一面の契約書。
中央に、黒い箱。
鉄箱ではない。
黒い木箱。
金の縁取り。
蓋に、白い文字。
買取済。
中から、細い声がした。
『ロイド家、右手残響』
ノエルの槍が鳴る。
こん。
指輪が鳴る。
こん。
黒い箱の中から。
こん。
ノエルは槍を支えた。
ルカは鉄箱を抱えた。
鉄箱の角から、拍。
とん。
遠くから。
たん。
クロ。
黒い箱の中から。
こん。
右手が、まだ返している。




