あげないで
エナ・ロイド。
その文字は、紙の裏側に薄く浮かんでいた。
女の手形。
細い指。
掌の真ん中に、刃で削った跡。
文字を消した跡。
手形の奥から、最後の呼吸が漏れる。
すう。
『あの子に、名前を……』
空白が、通路の向こうで脈を打つ。
ノエルの右手の布が、静かに震えた。
指輪が、布の下で硬く鳴った。
こん。
エナの手形が、もう一度言った。
『……あげないで』
その言葉だけが、紙の裏側に残る。
記録柱の内部は暗い。
けれど、完全な闇ではなかった。
壁一面に流れる裏文字が、薄く光っている。
逆さの名。
裏返った番号。
半分だけ残った呼吸。
ルカは視線を落とす。
足元にも紙。
横にも紙。
頭上にも紙。
紙の層の間にできた、細い血管みたいな通路。
そこを、二人と鉄箱が進むしかない。
エナの手形の指先から、白い糸が三本伸びていた。
一本は、通路の奥へ。
一本は、鉄箱へ。
一本は、ノエルの右手へ。
ノエルは右手を胸へ押し当てる。
布の下で指輪が鳴る。
こん。
白い糸は、少しだけ震えた。
切れない。
ほどけない。
ただ、そこにある。
ルカは欠けたナイフを握った。
ノエルが低く言う。
「切るな」
「うん」
「たぶん切ったら、まずい」
「うん」
「なんでかわからねえけど」
「わかる気がする」
「禁止」
「……切らない」
「よし」
ルカはナイフをしまった。
代わりに、曲がった針を取り出す。
ノエルが眉を寄せる。
「ほどくのか」
「触るだけ」
「それも嫌だな」
「うん」
針先を、白い糸に近づける。
触れた瞬間、息が聞こえた。
すう。
南村の湿った土。
石箱の冷たさ。
赤ん坊の手。
女の喉。
呼びそうになる声。
削る刃。
震える指。
血ではなく、灰。
ルカは針を離した。
膝が少し落ちる。
ノエルが鉄箱を抱えたまま、肩でルカを支えた。
「倒れるな」
「うん」
「何があった」
「削った」
「何を」
ルカはエナの手形を見る。
答えない。
ノエルもそれ以上聞かなかった。
白い糸が、鉄箱の七つ目の結び目へ近づく。
赤い糸と黒い染みの間で、止まる。
鉄箱の角から、拍。
とん。
エナの手形から、呼吸。
すう。
遠くから、クロ。
たん。
三つが重なる。
鉄箱の奥で、呼ばれていないものが小さく震えた。
『さむい』
声は出ていない。
けれど、箱の角から伝わる。
ノエルは左腕で箱を胸へ寄せた。
右手は使わない。
使えない。
けれど、布の下の指輪が少しだけ緩んだ音がした。
こん。
硬い。
でも、前より少し柔らかい。
通路の奥で、紙の心臓が鳴った。
とん。
こん。
かん。
不規則。
空白をずらされたせいで、柱全体の拍が狂っている。
そのたび、壁の裏文字が剥がれかける。
紙片が落ちる。
床に触れると、すぐに新しい文字を作ろうとする。
ミ。
ルカは踏みつけた。
紙が潰れる。
次の紙片。
オ。
ノエルが踏む。
さらに一枚。
リ。
鉄箱の黒い染みが、それを焦がした。
じゅ。
ノエルが低く言う。
「一文字ずつ来るの、性格悪いな」
「うん」
「揃えるなよ」
「うん」
「見つけたら踏め」
「うん」
紙片がまた落ちる。
ミ。
オ。
リ。
バラバラに。
別々の場所へ。
橋の上よりも、ずっと悪質だった。
一文字だけなら、ただの字。
三つ揃えば、呼ぶ。
ルカは足で散らす。
ノエルは箱を抱えたまま踏む。
鉄箱の黒い染みが焦がす。
とん。
箱の角から拍。
たん。
遠くのクロ。
か。
ルカが箱を叩く。
ち。
ノエルが弾く。
拍をずらす。
文字を揃えない。
名前にしない。
通路が少し広がった。
紙の層の奥に、部屋のような空間が見える。
丸い。
壁も床も天井も紙。
中央に、白い台。
台の上に、古い刃が置かれていた。
細い刃。
紙を削るためのもの。
エナの手形に刻まれていた削り跡と同じ形。
刃の下に、小さな札。
母体記録改竄具。
エナの白い糸の一本が、その刃へ繋がっている。
布の下で、ノエルの指輪が鳴った。
こん。
刃が、台の上でわずかに動いた。
ノエルが鉄箱を床へ置こうとして、途中で止めた。
置かない。
抱えたまま。
右手の布が震える。
指輪が鳴る。
こん。
刃が、それに反応した。
白い台の上で、細い刃が少しだけ浮く。
自分から。
刃は、ノエルの右手へ向いた。
指輪へ。
エナの糸へ。
布の下の真鍮へ。
ルカは欠けたナイフを抜く。
細い刃が飛んだ。
紙を切る音。
す。
速い。
ルカはナイフを合わせる。
欠けた刃と、細い刃。
ぎん。
火花は出ない。
代わりに、紙粉が散った。
細い刃は跳ね返り、壁へ刺さる。
そこから文字が滲む。
削除。
削除。
削除。
ノエルが低く怒鳴る。
「右手狙いやがった」
細い刃が壁から抜ける。
また浮く。
今度は鉄箱へ向く。
七つ目の結び目。
黒い染み。
呼ばれていないもの。
ルカは前に出る。
ノエルが鉄箱を胸へ寄せる。
「させるか」
刃が動く。
す。
ルカはナイフを構える。
だが、刃は途中で曲がった。
鉄箱ではない。
ルカでもない。
エナの手形へ向かった。
す。
ノエルが右手を胸から離した。
布に包まれた右手が、刃と手形の間へ出る。
真鍮の指輪が鳴った。
こん。
刃が止まる。
ノエルの右手の布に、薄い切れ目が入った。
血が滲む。
ルカは欠けたナイフを刃の根元へ合わせた。
ぴたり。
捻る。
細い刃が、台へ落ちた。
かん。
ノエルの右手が震えている。
布の切れ目から、真鍮の指輪が少しだけ見えた。
泥。
血。
灰。
指輪の内側に、削られた文字の跡。
カイルのものではない。
エナのものでもない。
もっと細い。
ミ。
そこまで見えた瞬間、ノエルが右手を握り直した。
布で隠れる。
「見るな」
「うん」
「見たな」
「少し」
「またかよ」
「ごめん」
「謝るな」
ノエルの声は荒い。
だが、手はもう胸へ戻らない。
右手は、鉄箱の横にある。
震えながら。
守る位置に。
エナの手形から、呼吸が漏れた。
すう。
『……あげないで』
今度は、少しだけ近かった。
ノエルは右手を、鉄箱の横に置いたまま。
ルカは曲がった針を取り出し、細い刃の台を見る。
台の下に、結び目がある。
白い糸。
エナの手形から伸び、削り刃を動かしていた糸。
それに、王都の赤い糸が巻きついている。
ルカは針を差し込む。
一つ。
二つ。
赤い糸だけを外す。
白い糸は残す。
手が震える。
赤い糸は、針に絡もうとする。
王都の結び目。
硬い。
でも、前より見える。
第十八話の白い床。
第十九話の鈴。
第二十九話の空白。
全部、結び目があった。
ほどける。
ルカは針を押す。
赤い糸が緩む。
ノエルが鉄箱を支えながら言う。
「早く」
「うん」
「いや、雑にやるな」
「うん」
「早く丁寧にやれ」
「難しい」
「やれ」
ルカは息を止める。
針を引く。
赤い糸が、白い糸から外れた。
ぱちん。
切れてはいない。
弾かれただけ。
赤い糸は床へ落ち、紙の中へ沈んだ。
削り刃は完全に沈黙した。
白い糸は、エナの手形へ戻る。
手形の指先が、少しだけ濃くなった。
ただし、名前ではない。
手形だけ。
呼吸だけ。
あげないで、という欠けた声だけ。
ルカは針をしまう。
ノエルは右手を胸へ戻そうとする。
けれど、途中で止めた。
鉄箱の横に、置く。
そのまま。
左腕で箱を抱え、右手は箱の横。
指輪を握り込んだまま。
ノエルは言った。
「行くぞ」
「うん」
部屋の奥に、紙の裂け目がある。
削り刃が動いていたせいで開いた道。
そこから、紙の心臓の音が近く聞こえる。
とん。
こん。
かん。
不規則。
ルカたちは進む。
エナの手形の部屋を抜ける。
背後で、手形が小さく鳴った。
こん。
指輪と同じ音。
ノエルは振り返らない。
ルカも振り返らない。
通路はさらに狭くなった。
紙の壁が、肌に触れる。
そこに文字が浮かぼうとする。
ノエルの右手の布へ。
ルカの木札へ。
鉄箱の黒い染みへ。
けれど、そのたびに箱の角から拍が返る。
とん。
遠くから。
たん。
クロ。
紙が一瞬ためらう。
そこを進む。
やがて、通路の先に丸い空間が見えた。
さっき空白の奥で見えたもの。
紙の心臓。
それは、思ったより小さかった。
子どもの頭ほど。
無数の白い紙片が重なり、丸く編まれている。
その表面に、赤い糸が何本も刺さっている。
糸の先は、柱のあちこちへ伸びている。
紙の子どもたちへ。
声の瓶へ。
名寄せ槽へ。
観測室へ。
炉心へ。
布の庭へ。
寝台の子へ。
クロへ。
ルカの胸へ。
ノエルの右手へ。
鉄箱へ。
全部が、ここへ繋がっている。
ノエルが息を呑む。
「これ、壊せば終わるか」
ルカは紙の心臓を見る。
心臓は鳴っている。
とん。
こん。
かん。
拍を集め、混ぜ、名前に変えようとしている。
ルカは首を振る。
「壊さない」
「じゃあどうする」
「ずらす」
「またかよ」
「うん」
「お前、最近ずらすばっかだな」
「直すよりいい」
ノエルは少しだけ笑った。
「それはそう」
紙の心臓の表面に、三文字ぶんの空白が小さく浮かんでいる。
記録柱の外側にあったものと同じ。
だが、ここではまだ歪んだままだ。
ルカがずらした穴。
戻りきっていない。
そこから、赤い糸が一本、鈴へ伸びようとしている。
ルカは鈴を押さえる。
ノエルが右手を鉄箱の横に置いたまま、前へ出る。
「また止める」
「無理しないで」
「無理じゃねえ」
「血」
「見んな」
「見える」
「じゃあ目を潰せ」
「それは嫌」
「なら黙れ」
ノエルの右手は震えている。
でも、下がらない。
ルカはナイフを構える。
紙の心臓へ直接刺さない。
空白の縁へ。
小さな三文字ぶんの穴。
その端に、欠けた刃を合わせる。
ぴたり。
紙の心臓が強く鳴る。
とん。
鉄箱。
こん。
鈴。
ち。
遠くのクロ。
たん。
全部が一瞬だけ引っ張られる。
ルカは息を止める。
捻る。
空白が、さらにずれた。
だが、今度は戻ろうとしない。
ノエルが右手で、伸びてきた赤い糸を布越しに押さえている。
指輪が鳴る。
こん。
エナの手形の白い糸も、そこへ重なる。
削らない。
あげない。
返さない。
白い糸が、赤い糸の上をすべる。
赤い糸がほどける。
紙の心臓の拍が乱れる。
とん。
か。
ち。
たん。
心臓が、こちらの拍を真似た。
ノエルが目を見開く。
「今」
「うん」
「こっちに合った」
「うん」
紙の心臓は、まだ生きている。
でも、王都の拍ではない。
炉心の拍でもない。
名寄せ槽の拍でもない。
か。
ち。
たん。
箱の角から。
とん。
遠くから。
たん。
クロ。
紙の心臓が、弱く返す。
とん。
記録柱全体が揺れた。
外側で、回収係の糸が暴れる音がする。
紙の橋が裂ける音。
白い面が動く気配。
だが、心臓は少しだけ静かになった。
空白は歪んだまま。
名を入れる口ではなくなっている。
穴は、名前の形から外れた。
紙の心臓の表面に、文字が浮かびかける。
未定。
それはすぐに滲む。
次に。
保留。
それも滲む。
最後に、何も残らない。
空白。
ただし、三文字ぶんではない。
形のない空白。
ルカはナイフを離した。
ノエルも右手を引く。
布が赤く染まっている。
でも、指輪はそこにある。
鉄箱もそこにある。
鈴も鳴っていない。
遠くから、クロの拍。
たん。
紙の心臓が、それに返す。
とん。
寝台の子の拍も、どこかで重なる。
とん。
六番目の鈴が、音にならない震えを返す。
ち。
エナの手形から、最後の呼吸。
すう。
全部が、一瞬だけ重なった。
だが、揃わない。
揃わないまま、残った。
ノエルが荒い息で言った。
「終わったか」
ルカは首を振る。
「ずれただけ」
「最高じゃねえか」
「最高?」
「終わってねえなら、まだ取られてねえ」
紙の心臓の奥に、小さな裂け目が開いた。
出口ではない。
もっと内側へ続く道。
その向こうから、白い光が漏れている。
紙ではない。
朝の光でもない。
もっと乾いた、冷たい光。
ルカはそこを見る。
光の向こうに、長い廊下がある。
両側に、白い扉。
その先に、黒い冠の紋章。
ノエルがそれを見た。
「黒冠商会」
「うん」
「ここで出るのかよ」
紙の心臓の奥。
記録柱のさらに内側。
王都記録院と黒冠商会が繋がっている。
ノエルの顔が険しくなる。
「兄ちゃんの槍」
「うん」
「黒冠が買った」
「うん」
「ここまで繋がってたってことか」
ルカは答えない。
黒い冠の紋章が、白い光の奥で揺れている。
紙の心臓がまた小さく鳴った。
とん。
遠くから。
たん。
クロ。
まだ。
ノエルは右手を胸へ戻そうとして、少し迷った。
それから、鉄箱の横に置いた。
守る位置。
ルカは見ない。
見ないまま、鉄箱を支える。
ノエルが言った。
「行くぞ」
「うん」
「商会のやつ、いたら殴る」
「右手は使わないで」
「考えとく」
「禁止」
「じゃあ左で殴る」
「それも怪我してる」
「頭で殴る」
「もっと駄目」
「うるせえな」
二人は紙の心臓の奥へ進んだ。
白い光の廊下へ。
背後で、紙の心臓がゆっくり鳴る。
とん。
とん。
遠くから。
たん。
クロが、まだ返している。




