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壊れた槍は、弟の名前を覚えていた

槍は、まだ直っていなかった。


 けれど、もうただの商品ではなかった。


 俺の指先から炸裂した残響の風は、荷馬車を覆っていた古い布を引きちぎり、迫っていた護衛の男を数メートル後方へ吹き飛ばしていた。


 護衛は宿場の土を噛みながら、必死に剣を構え直している。


 ノエルも風の衝撃に耐えるように、地面に膝をついたまま槍を見上げていた。


 黒く焼けた槍の柄から、煤が薄く舞い上がっていた。


 穂先は欠けている。


 柄には焼け跡が残っている。


 斜めに走った傷も、割れた金具も、何一つ完全には戻っていない。


 それでも、その槍はさっきまでとは違っていた。


 黒い煤の下から、鈍い鋼の色が覗いている。


 まるで長いあいだ息を止めていたものが、ようやく一度だけ息を吸ったようだった。


「……何だ、これは」


 黒冠商会の商人が、尻餅をついたまま呟いた。


 丸い顔が青ざめている。


 さっきまで俺を値踏みしていた目は、今は槍を見ていた。


 商品を見る目ではなかった。


 値段をつける目でもなかった。


 理解できないものを見た人間の目だった。


「おい、何をした!」


 護衛が怒鳴った。


 さっき抜いた剣を構え直している。


 けれど、その腕はわずかに震えていた。


 剣先も、俺ではなく槍のほうを向きそうになっている。


 怖いのだ。


 俺も怖かった。


 自分が何をしたのか、まだわかっていなかったからだ。


 俺の指先は、まだ槍の柄に触れている。


 手袋越しなのに、冷たさが皮膚の奥まで入り込んでいた。


 冬の砦。


 血と雪。


 焦げた木の匂い。


 そして、男の声。


『ノエルを、頼む』


 あの声が、まだ耳の奥に残っている。


「……兄ちゃん」


 足元から声がした。


 ノエルが、地面に膝をついたまま槍を見上げていた。


 薄汚れた頬に、涙の跡はない。


 でも、唇は震えている。


「今の、兄ちゃんの声……?」


 俺は答えられなかった。


 わからない。


 そう言うのは簡単だった。


 でも、それは少し違う気がした。


 わからない。


 けれど、確かに聞いた。


 それだけは、嘘にできなかった。


「たぶん」


 俺は息を整えながら言った。


「この槍に、残っていた声だ」


「槍に、声……?」


「持ち主の最後の願い、みたいなものだと思う」


 自分で言って、喉の奥が詰まった。


 最後の願い。


 そんな言葉を軽く使っていいのか、わからなかった。


 けれど他に言い方がなかった。


 壊れたものに残る、声。


 終われなかった役目。


 届かなかった名前。


 俺の【修復】が触れるのは、たぶん、そこなのだ。


「ふざけるな!」


 商人が立ち上がった。


 腹についた土を払う手が、怒りで震えている。


「商品に妙な魔術をかけたな! 黒冠商会の商品を傷物にして、ただで済むと思うなよ!」


「傷物?」


 ノエルが、低く言った。


 その声に、俺は少し驚いた。


 さっきまでの叫び声とは違う。


 地面の奥から出てきたような声だった。


「それは、兄貴の槍だ」


「証拠はないと言っただろう!」


「ある」


 ノエルは槍を睨んだまま言った。


「その傷だ」


 商人の眉が動く。


「何?」


「柄の斜めの傷。俺がつけた」


 ノエルは、ゆっくりと立ち上がった。


 護衛の足に飛びついたせいか、膝から血が出ている。


 それでも、槍から目を逸らさなかった。


「兄貴が出征する前の日、俺、槍を持たせてもらった。重くて、すぐ転んで、石にぶつけた。兄貴は笑ってた」


 ノエルの喉が震えた。


「『これでノエルの傷も一緒だな』って言った」


 宿場にいた人々が、ざわりと動いた。


 さっきまで遠巻きに見ていただけの大人たちが、少しずつ近づいている。


 商人は舌打ちした。


「子どもの作り話だ。そんな傷はどの槍にもある」


「じゃあ、見せろよ」


 ノエルが言った。


「柄の内側。革紐の下。兄貴はそこに、俺の名前を彫った」


「……何だと?」


「戦場で怖くなったら、これを握るって言ってた。俺の名前を握って帰ってくるって」


 ノエルは笑おうとして、失敗した。


「帰ってこなかったけど」


 その一言で、空気が変わった。


 誰も何も言わなかった。


 商人だけが、顔を歪めた。


「そんなもの、確認する必要はない。護衛、その槍を回収しろ」


 護衛が一歩出る。


 俺は反射的に槍の前へ立った。


 怖い。


 足が震える。


 相手は剣を持っている。


 俺は工具しか持っていない。


 喧嘩になれば、一瞬で倒される。


 それでも、退けなかった。


 槍が俺の背中越しに冷たい息を吐いているように感じた。


 まだ終わっていない。


 そう言っている気がした。


「どけ」


 護衛が剣をこちらへ向けた。


「どかないと斬る」


 御者が遠くで息を呑んだ。


 宿場の誰かが、小さく悲鳴を上げる。


 俺は、槍から手を離さなかった。


「この槍は、まだ売り物じゃありません」


「お前が決めることじゃない」


「いいえ」


 俺は、唇を噛んだ。


 昨日までの俺なら、ここで謝っていた。


 すみません、と言って、頭を下げて、道を空けていた。


 でも、胸の内側に羊皮紙の角が刺さっている。


 追放状。


 聖剣への不敬。


 式典前の重大な妨害。


 王宮工房勤務を解く。


 綺麗な言葉で俺を捨てた紙。


 その痛みが、まだある。


 俺はもう、不要と言われて黙るだけの灰かぶりではいたくなかった。


「壊れたものを見るのは、俺の仕事です」


 護衛の目が細くなる。


「何を言っている」


「この槍は、まだ役目を終えていない」


 俺は槍を見た。


 焼けた柄。


 斜めの傷。


 革紐の下。


 そこに何かがある。


 俺の【修復】が、そこを指していた。


 声ではなく、感覚でわかる。


 煤の中に埋まった火種みたいに、そこだけが微かに熱い。


「ノエル」


 俺は言った。


 少年がはっと顔を上げる。


「革紐の下、見てもいいか」


「……うん」


「触るぞ」


「うん」


 商人が怒鳴った。


「勝手に触るな!」


 護衛が動く。


 だが、その前に御者が声を張った。


「待ちな」


 全員がそちらを見る。


 灰色の髭の御者が、馬の手綱を握ったまま、こちらを睨んでいた。


「黒冠商会さんよ。子どもが名前があるって言ってる。確認するくらいいいだろう」


「貴様には関係ない」


「関係あるさ」


 御者は鼻を鳴らした。


「その槍が盗品だったら、同じ宿場にいた俺たちまで面倒になる。確認して、名前がなけりゃそれで終わりだ」


 周囲の大人たちが、少しずつ頷いた。


「そうだな」


「見るだけなら」


「名前があるかどうかくらいは」


 商人の顔がさらに歪んだ。


 さっきまで静かだった人々が、槍の光を見て変わったのだ。


 俺が言っても届かなかったかもしれない。


 でも、槍が光った。


 黒い煤を吹き飛ばした。


 それを、みんな見ていた。


 壊れたものが、ただの売り物ではないと、少しだけ思ってしまったのだ。


 商人は、舌打ちした。


「……勝手にしろ。ただし、傷を増やせば弁償させる」


「傷は増やしません」


 俺は工具箱から細い針金と小さな革切りを取り出した。


 王宮工房の上級修復士なら、もっと立派な道具を使うだろう。


 銀の柄の小刀。


 魔力を通した解紐具。


 磨かれた固定台。


 俺にはない。


 あるのは、煤で黒くなった手袋と、使い古した道具だけ。


 それでも、指先は覚えていた。


 古い革紐を外すときは、力を入れすぎてはいけない。


 乾いた革は、無理に引くと裂ける。


 戦場帰りの武器は、持ち主の手の形を覚えている。


 そこを壊せば、もう戻らない。


 俺は息を止めるようにして、革紐の端へ針金を差し込んだ。


 細く。


 浅く。


 ほどく。


 剥がすのではない。


 ほどく。


 槍が、かすかに震えた。


 怖がっているみたいだった。


「大丈夫だ」


 気づけば、小さく言っていた。


「無理にはしない」


 ノエルが俺を見る。


 商人が鼻で笑う。


「槍に話しかけているのか。やはり頭がおかしいな」


 俺は答えなかった。


 今は槍だけを見ていた。


 革紐が一巻き、外れる。


 下から、黒く焦げた木肌が出てきた。


 二巻き目。


 三巻き目。


 指先に汗が滲む。


 手袋の中が湿っていく。


 焦るな。


 傷つけるな。


 壊れたものは、急がせると黙ってしまう。


 最後の一巻きが緩んだ。


 俺は、そっと革紐を外した。


 その下に、文字があった。


 焼けて、半分潰れている。


 けれど、読めた。


 ノエル。


 小さな文字だった。


 不器用な刻み方だった。


 たぶん、戦いの合間に急いで彫ったのだろう。


 でも、そこには確かに名前があった。


 ノエル。


 槍は、弟の名前を覚えていた。


「……あ」


 ノエルが声を漏らした。


 小さな体が震える。


「兄ちゃん……本当に……」


 ノエルは槍に手を伸ばしかけて、途中で止めた。


 触っていいのか、わからないのだろう。


 俺は槍を少しだけ傾けた。


「触っていい」


「でも」


「君の名前だ」


 ノエルの指先が、恐る恐る柄に触れる。


 その瞬間、槍がまた微かに光った。


 派手な光ではない。


 聖剣のような黄金でもない。


 雪の下に残った火種みたいな、淡い白だった。


 ノエルの顔がくしゃりと歪む。


「兄ちゃん……」


 声は、そこまでだった。


 あとは言葉にならなかった。


 商人が低く唸った。


「だから何だ」


 俺は顔を上げた。


 商人は額に汗を浮かべていた。


 それでも、まだ引くつもりはないらしい。


「名前があったから何だと言うんだ。その槍は戦場跡で正当に回収された。所有権は黒冠商会にある」


「兄貴の名前じゃなくて、俺の名前だ!」


「だから何だ。名前が彫ってある商品など珍しくもない」


 ノエルが唇を震わせる。


 俺は、槍に残った冷たさを感じていた。


 まだだ。


 これでは終わらない。


 名前を見つけただけでは、槍はまだ黙らない。


 この槍が本当に届けたいものは、名前だけではない。


「ノエル」


 俺は言った。


「お兄さんの名前は?」


 ノエルは目をこすった。


「カイル」


「カイル?」


「カイル・ロイド。グリム砦の補助兵だった」


 商人が眉をひそめる。


 その一瞬を、俺は見逃さなかった。


 知っている顔だ。


 その名前を、商人は知っている。


「補助兵か」


 商人はすぐに笑い直した。


「なら大したものではないな。正式な騎士でも英雄でもない。補助兵の槍に値はつかん」


 ノエルが拳を握る。


 俺の中で、何かが冷えた。


 値はつかない。


 大したものではない。


 正式な騎士でも英雄でもない。


 だから何だ。


 俺は、槍を見た。


 そこに刻まれた小さな名前。


 ノエル。


 この槍の持ち主は、戦場に弟の名前を持っていった。


 帰るために。


 忘れないために。


 怖くても、握れるものを残すために。


 それが、大したものではないのか。


「カイルさんは」


 俺は静かに言った。


「この槍を、戦場で使ったんですね」


「知らん」


 商人は吐き捨てた。


「そんなことは商品価値に関係ない」


「でも、この槍は知ってます」


「また声か?」


「はい」


 商人の顔が引きつった。


 俺は槍に両手を添えた。


 まだ完全には直せない。


 触れれば触れるほどわかる。


 これは傷が深い。


 木柄の焼け。


 穂先の欠け。


 魔力の焦げ。


 そして、持ち主の最後の願い。


 どれも絡まり合って、固く結ばれている。


 一度でほどけるものではない。


 けれど。


 一つだけなら。


 この槍が最後に残したかったものを、一つだけなら、取り出せる気がした。


「ノエル」


 俺は少年を見た。


「少しだけ、見えるかもしれない」


「何が?」


「君のお兄さんが、この槍に残したもの」


 ノエルは息を止めた。


 その鋭い目が、俺を値踏みするように揺れた。


 信じていいのか。


 また兄を、誰かの都合のいい話にされるだけじゃないのか。


 まやかしの魔術で、兄の最後まで汚されるんじゃないのか。


 そんな警戒が、痛いほど伝わってきた。


 けれど、それ以上に。


 兄の真実を知りたいという飢えが、少年の頑なな目を焼いた。


「見たい」


 絞り出すような即答だった。


「何でもいい。兄ちゃんが逃げたんじゃないって、俺は……俺は知りたい」


 逃げた。


 その言葉に、宿場の空気が少し揺れた。


 誰かが小さく「ああ」と呟く。


 俺は御者を見た。


 御者は苦い顔をしていた。


 グリム砦の補助兵カイル・ロイド。


 逃亡兵。


 そういう扱いなのかもしれない。


 だからノエルは一人で商人に食ってかかったのだ。


 兄の槍を取り戻すためだけではない。


 兄が逃げたという記録に抗うために。


 俺は、昨日の聖剣を思い出した。


 勝利の歌に名前はなかった。


 王国史から消された声。


 ここにもある。


 王都から遠く離れた小さな宿場にも、同じものが転がっている。


 名前を削られた者。


 役目を奪われた物。


 誰かの都合で、終わったことにされた願い。


「わかった」


 俺は槍を持った。


 重い。


 思ったよりずっと重かった。


 補助兵の槍。


 商人はそう言った。


 大したものではないと。


 でも、この重さは、誰かが戦場で握っていた重さだ。


 命を預けた重さだ。


 値段をつけるための重さではない。


 俺は目を閉じた。


 スキル【修復】。


 壊れたものを、少しだけ直す力。


 新品は作れない。


 完全には戻せない。


 役目を終えたものを、都合よく蘇らせることもできない。


 でも。


 まだ終わっていない願いがあるなら。


 それを、一度だけ繋ぐことはできる。


「頼む」


 俺は誰にともなく呟いた。


「少しだけでいい。見せてくれ」


 槍が、冷たく震えた。


 次の瞬間、白い風が宿場を駆け抜けた。


 人々が息を呑む。


 商人が後ずさる。


 護衛が剣を構え直す。


 ノエルだけが、槍から目を逸らさなかった。


 俺の視界に、雪が降った。


 宿場ではない。


 砦だった。


 灰色の空。


 崩れた城壁。


 凍った土。


 遠くから、魔物の咆哮が響いている。


 槍を握る男の手が見えた。


 手の甲に傷がある。


 指はかじかんでいる。


 でも、柄の内側に刻まれた「ノエル」の文字を、親指が何度もなぞっていた。


『兄ちゃん、ちゃんと帰ってこいよ』


 幼い声がする。


 記憶だ。


 槍に残った、出征前の声。


『うるせえな。帰るよ。お前が俺の槍に傷つけたんだから、弁償してもらわなきゃならん』


『え、俺が?』


『そうだ。帰ったら畑仕事を十日分手伝え』


『やだ!』


『じゃあ帰らない』


『帰ってこいよ!』


 笑い声。


 あたたかい声。


 それが一瞬で、冬の砦の音に変わる。


『門を閉じろ!』


『まだ外に民がいる!』


『閉じれば助かる!』


『閉じたら、あいつらは死ぬ!』


 カイルは走っていた。


 槍を握り、砦の裏門へ向かっていた。


 背後では、指揮官らしい男が叫んでいる。


『補助兵! 持ち場を離れるな!』


 カイルは振り返らなかった。


 雪の中、子どもを抱えた女が転んでいた。


 老人が荷車を引けずに座り込んでいた。


 門の外には、逃げ遅れた人々がいた。


 カイルは槍を地面に突き立てた。


『こっちだ! 走れ!』


 それは勇敢な突撃ではなかった。


 華々しい戦いでもなかった。


 ただ、逃げ道を示すために、槍を掲げていただけだった。


 槍の穂先に、白い布が結ばれる。


 吹雪の中でも見えるように。


 人々がその布を目印に走る。


 魔物が迫る。


 カイルは槍を振るった。


 上手くはなかった。


 騎士のような型もない。


 何度も足を滑らせ、肩で息をしていた。


 それでも、退かなかった。


『ノエル』


 カイルが息の中で呟いた。


『兄ちゃん、帰れねえかもしれない』


 魔物の爪が、彼の脇腹を裂いた。


 それでも、カイルは槍を離さなかった。


『でも、お前は』


 彼は柄の内側の名前を握った。


『お前は、生きろ』


 視界が揺れた。


 最後に見えたのは、砦の門が閉じる直前、逃げ込む人々の背中だった。


 そして、雪の上に倒れたカイルの槍。


 その槍に結ばれた白い布が、まだ小さく揺れていた。


 幻が途切れた。


 宿場に戻る。


 誰も喋っていなかった。


 白い風は消えていた。


 だが、俺の【修復】はまだ終わっていなかった。


 柄の先端、泥と煤が分厚くこびりついて、ただの黒い塊に見えていた部分が、ぱらぱらと音を立てて崩れ落ちる。


 その下から現れたのは、焼けて、煤けて、端が破れた、小さな白い布だった。


 十年のあいだ槍の錆と煤の奥に固まっていた遺物が、本来の形を取り戻したのだ。


 槍が見せた記憶の中と同じ布だった。


「兄ちゃん……」


 ノエルが呟いた。


 膝から崩れる。


 俺は慌てて槍を支えた。


 ノエルは泣いていた。


 今度は、声を殺せなかった。


「逃げてない……兄ちゃん、逃げてなかった……」


 宿場の誰かが息を呑んだ。


「カイルって、あのロイド家の」


「逃亡兵って聞いてたぞ」


「裏門で民を逃がしたのか……?」


 ざわめきが広がる。


 商人の顔色が変わった。


「まやかしだ!」


 彼は叫んだ。


「そんなもの、魔術でいくらでも見せられる! この槍は黒冠商会の商品だ! 所有権は――」


「所有権?」


 御者が低く言った。


 さっきまで飄々としていた男の声ではなかった。


「今のを見ても、まだ商品って言うのか」


「黙れ!」


 商人は護衛を見た。


「何をしている! 槍を取り返せ!」


 護衛は動かなかった。


 剣を握ったまま、顔を青くして槍を見ている。


 たぶん彼にも見えたのだ。


 全部ではないにしても。


 あの白い布が、どこから現れたのかは見ていた。


「……無理です」


 護衛がかすれた声で言った。


「これは、まずい」


「何がまずい!」


「黒冠の鑑定印より、今のほうが……」


 護衛は言葉を切った。


 商人が歯ぎしりする。


 俺は、槍を見下ろした。


 まだ完全には直っていない。


 柄の焼け跡も、穂先の欠けも、そのままだ。


 ただ、革紐の下に隠れていたノエルの名前と、穂先に戻った白い布だけが、かろうじて息を吹き返している。


 この槍が最後に果たせなかった役目。


 それは、敵を倒すことではなかった。


 弟に、逃げていないと伝えること。


 自分が最後まで誰かの道標だったと、届かせること。


 俺の修復は、そこにだけ届いたのだ。


「ノエル」


 俺は槍を差し出した。


 けれど、ノエルは首を振った。


「俺、持てない」


「どうして」


「兄ちゃんの槍だから」


「君の名前が刻まれてる」


「でも、兄ちゃんの……」


 言葉が詰まる。


 俺は少し考えてから、槍を地面に立てた。


 穂先の白い布が風に揺れる。


「じゃあ、今は預かる」


「え?」


「グリムまで行く。君も来るなら、そこでちゃんと直す」


 自分で言ってから、少し驚いた。


 何を言っているんだ。


 俺はまだ、グリムの工房に着いてもいない。


 廃工房が使えるかもわからない。


 自分のスキルのことすら、わかっていない。


 なのに。


 口にした瞬間、不思議とそれが一番正しいことのように思えた。


「ちゃんと直せるかは、わからない」


 俺は正直に言った。


「でも、このまま商会の商品にはさせない」


 ノエルが俺を見る。


「俺、行っていいのか」


「俺に聞かれても困る」


「え」


「俺も追放されたばかりで、行き先があるようでないから」


 ノエルが、泣きながら少しだけ変な顔をした。


「変な修復士」


「よく言われる」


「誰に?」


「主に、王宮工房の人たちに」


「そいつら、見る目ないな」


 その言葉に、胸が変なふうに詰まった。


 見る目がない。


 そんな簡単な言葉なのに、なぜか少し救われた気がした。


 商人が黙って荷馬車へ下がろうとする。


 俺はそれに気づいた。


「待ってください」


 商人の肩が跳ねる。


「何だ」


「この槍、どこで手に入れましたか」


「戦場跡だと言っただろう」


「どこの戦場跡ですか」


「覚えていない」


「黒冠商会の鑑定印があるんですよね。なら、記録もあるはずです」


 商人の顔が歪む。


 これは当たりだ。


「なぜ、その槍が逃亡兵の遺物として売られず、英雄の破片として運ばれていたんですか」


「知らん!」


「誰から買いましたか」


「黙れ!」


 商人は怒鳴った。


 けれど、その声は震えていた。


 黒冠商会。


 戦場跡の遺物を集める商会。


 壊れたものに値段をつける者たち。


 その荷馬車には、まだ他にも布をかけられたものがある。


 俺はそれを見た。


 剣。


 盾。


 兜。


 杖。


 どれも沈黙している。


 でも、さっきから背中がざわついていた。


 あの中にも、何かがある。


 まだ終わっていないものが。


 商人は、俺の視線に気づいたらしい。


「行くぞ!」


 護衛に命じる。


「この場は引く。だが覚えていろ、灰かぶり」


 商人は、土のついた外套を乱暴に払いながら言った。


「公式記録は逃亡兵だ。お前がどれだけ泥の中からガラクタの声を拾おうが、王都の記録は一文字も動かん」


 その目には、さっきまでの狼狽とは違う、冷たい怒りがあった。


「我が商会の看板に泥を塗った代償は、グリムの地で必ず払わせてやる」


「俺は商売をしに行くんじゃありません」


 俺は言った。


「壊れたものを直しに行くんです」


 商人は顔を真っ赤にした。


 けれど、それ以上は何も言わず、荷馬車へ乗り込んだ。


 護衛も剣を収める。


 黒冠商会の馬車は、逃げるように宿場を出ていった。


 残されたのは、裂けた布と、地面に散った煤と、白い布を揺らす一本の槍。


 そして、まだ泣いているノエルだった。


 御者が俺の隣へ来た。


「兄ちゃん」


「はい」


「面倒ごとを拾うのが趣味か?」


「違います」


「そうか。じゃあ才能だな」


 嫌な才能だ。


 そう思った。


 けれど、否定しきれなかった。


 御者は槍を見て、低く息を吐く。


「グリムまで乗せる約束だったな」


「はい」


「一人分の料金しかもらってない」


 ノエルが顔を上げた。


「俺、歩く」


「馬鹿。歩いて三日も四日もついて来られるか」


 御者は頭をかいた。


「荷台の隅なら、一人くらい増えても沈みはせん。飯は自分で何とかしろ」


 ノエルの目が見開かれる。


「いいのか?」


「俺は何も見てない。宿場で変な槍が光ったのも、黒冠の商人が尻餅ついたのも、何も見てない」


 そう言って、御者は俺を見た。


「兄ちゃんも、あんまり派手にやるなよ。黒冠はしつこい」


「はい」


「返事だけは素直だな」


 御者は苦笑して、馬のほうへ戻っていった。


 俺は槍を布で包み直した。


 さっき裂けた古い布ではなく、自分の荷物袋に入れていた黒ずんだ布を使った。


 王宮工房で、誰も触りたがらない遺物を包むために使っていた布だ。


 綺麗ではない。


 けれど、柔らかい。


 ノエルはその様子をじっと見ていた。


「雑に扱わないんだな」


「壊れてるから」


「壊れてると、丁寧にするのか?」


「壊れてるものほど、変なところを触ると黙る」


「黙る?」


「たぶん」


 ノエルは少しだけ首を傾げた。


「やっぱり変な修復士だ」


「それも、よく言われる」


 槍を包み終え、俺はそれを荷台へ運んだ。


 重かった。


 一人では少し厳しい。


 ノエルが反対側を持った。


「兄ちゃんのだから」


 彼はそう言った。


「俺も持つ」


 俺は頷いた。


 二人で槍を荷台へ乗せる。


 馬車の樽と布袋の隙間に、槍を寝かせた。


 白い布だけが、少し外に出ている。


 風に揺れた。


 ノエルは、それをしばらく見ていた。


「ルカ」


 俺は名乗っていないことに気づいた。


「え?」


「俺の名前。ルカ・グレイ」


「俺はノエル。ノエル・ロイド」


「知ってる」


「槍が言ったから?」


「少し」


 ノエルは微妙な顔をした。


「なんか、ずるいな」


「俺も自分のことは、全然わからない」


 言ってから、胸に引っかかった。


 自分のことは、全然わからない。


 名前も、家族も。


 欠けたナイフも。


 聖剣の中で聞いた声も。


 そして、この槍の声がなぜ似ていたのかも。


 ノエルは俺の顔をじっと見た。


「じゃあ、グリムでわかるといいな」


 簡単に言う。


 でも、その簡単さがありがたかった。


「そうだな」


 俺は荷台に腰を下ろした。


 ノエルも隣に座る。


 御者が手綱を鳴らした。


「出すぞ。遅れたぶん、少し急ぐ」


 馬車が動き出す。


 宿場が少しずつ遠ざかる。


 黒冠商会の荷馬車が向かった道とは、別の方角へ進んでいく。


 俺は荷台に横たえた槍を見た。


 まだ直っていない。


 でも、もう終わってもいない。


 そのことだけは、はっきりわかった。


 ノエルが槍の白い布をそっと押さえる。


 飛ばされないように。


 俺は、腰の道具袋に触れた。


 欠けたナイフが、布の奥で沈黙している。


 あの槍の声が、聖剣の奥で聞いた男の声に似ていたなら。


 今なら。


 今の俺なら、少しは届くんじゃないか。


 そんな考えが、喉の奥に爪を立てた。


 俺は外套の陰で、縋るようにナイフの柄を握った。


 微かな【修復】の魔力を流し込む。


 次の瞬間。


 凄まじい煙の臭いが鼻の奥を焼いた。


 喉を掻き切るような、誰かの絶叫が指先を弾き返す。


「っ……!」


 思わず手を離しかけた。


 けれど、握り直す。


 まだ触れさせてくれない。


 まだ俺には、開いてくれない。


 俺自身の壊れ物。


 でも、いつか。


 いつか、お前の本当の願いにも、俺は絶対に届いてみせる。


 俺は王都とは反対側の空を見た。


 雲は低い。


 北東の空は、灰色に沈んでいる。


 その向こうに、グリム辺境領がある。


 戦場跡がある辺境。


 半分潰れた工房。


 壊れた武器が山ほどある場所。


 そして、きっと。


 俺がまだ知らない声が、山ほど眠っている場所。


 馬車は揺れる。


 工具箱が背中に当たる。


 懐の追放状が胸に刺さる。


 荷台には、壊れた槍と、兄の名誉を取り戻したばかりの少年がいる。


 俺は目を閉じた。


 耳の奥で、あの声がまた響いた気がした。


『坊主を、頼む』


 それが誰の声なのか、まだわからない。


 けれど今は、少しだけ違う返事ができる気がした。


 俺は小さく息を吐いた。


「まだ、終わってない」


 馬車は、グリムへ向かって進んでいった。

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