灰かぶり修復士、王都を追放される
王都を出て半日が過ぎたころ、空の色が少しずつ鈍くなってきた。
白い城壁は、もう見えない。
見えるのは、馬車の荷台の隙間から流れていく街道と、踏み固められた土と、風に揺れる枯れ草だけだった。
王都にいたころ、俺は北東へ続く街道をほとんど見たことがなかった。
王宮工房の中が、俺の世界のほとんどだったからだ。
朝は誰より早く工房へ入り、炉の灰を片づける。
上級修復士たちが出勤する前に、工具を並べる。
運び込まれた壊れ物を仕分ける。
血錆を落とす。
煤を払う。
砕けた鎧の破片を布で包む。
誰かの手から剥がれ落ちたまま固まった革手袋を、できるだけ傷つけないように外す。
それで一日が終わる。
俺の世界は、灰と油と鉄の匂いでできていた。
それなのに今は、遠くで鳥が鳴いている。
風が冷たい。
荷台の板は硬く、揺れるたびに背中の工具箱が骨へ当たった。
外套の内側には、追放状が入っている。
羊皮紙の角が、胸に当たっていた。
馬車が石を踏むたび、その角が小さく刺さる。
痛い。
けれど、その痛みがあるほうがよかった。
夢ではないと、わかるから。
「兄ちゃん、王都から来たのかい」
御者台から、年配の男が声をかけてきた。
灰色の髭を生やした、痩せた男だった。
荷運びの途中らしく、馬車には樽や布袋がいくつも積まれている。その隙間に、俺と工具箱と、安物の荷物袋が押し込まれていた。
「はい」
俺は短く答えた。
「グリム辺境領まで行くって話だったな。あそこに親戚でもいるのか」
「いえ」
「じゃあ仕事か」
「……たぶん、そうです」
御者は振り返らなかった。
ただ、鼻で少し笑った。
「たぶんってのは珍しいな」
返す言葉がなかった。
仕事なのか。
罰なのか。
捨てられたのか。
自分でも、まだわかっていなかった。
ただ一つ確かなのは、王宮工房から出されたこと。
そして、もう戻るなと言われたこと。
それだけだった。
懐に入れた追放状を、外套越しに指で押さえる。
そこには、俺の処分が淡々と書かれていた。
三等修復士ルカ・グレイ。
聖剣への不敬。
式典前の重大な妨害。
王宮工房勤務を解く。
グリム辺境領旧工房への異動を命ずる。
異動。
あの紙には、そう書かれていた。
追放ではなく、異動。
王宮らしい言葉だと思った。
捨てるときですら、形だけは整える。
傷を隠して、綺麗な布を巻く。
それと同じだ。
「……死体化粧」
口の中で呟いた。
自分の声が思ったより低くて、少し驚いた。
昨日までの俺なら、そんな言葉を口にするだけで震えていただろう。
でも、もう言ってしまった。
王国一の工房長に向かって。
王国最高の聖剣の前で。
それはただの死体化粧です、と。
馬車が大きく揺れた。
背中の工具箱が音を立てる。
その音に混じって、耳の奥でまた声がした気がした。
『……届いた』
聖剣の奥から聞こえた声。
誰のものかはわからない。
男か女かも、もう判然としない。
けれど、あの声だけが、まだ耳の奥に残っている。
俺の指先の下で、聖剣の黒いひびがほんの一筋だけ黄金に変わった。
あれは幻ではなかった。
若い修復士も見ていた。
バルザック様も見ていた。
見えていて、なかったことにした。
「兄ちゃん、顔色悪いぞ」
御者が言った。
「酔ったか?」
「いえ、大丈夫です」
「王都育ちにはこの道はきついからな。グリムまではまだ遠いぞ」
「どれくらいかかりますか」
「馬を替えながらなら三日。途中で雨が降れば四日。運が悪けりゃ五日だ」
五日。
王宮工房の隅で眠っていた俺には、果てしない時間に思えた。
「グリムってのは、どんなところですか」
聞いてから、少し後悔した。
聞いたところで、行き先は変わらない。
けれど御者は、少しだけ黙ったあと、肩をすくめた。
「辺境だよ」
「それは、わかります」
「王都の連中が言う辺境ってのは、大体三つに分かれる。畑がある辺境。森がある辺境。戦場跡がある辺境」
「グリムは」
「三つ目だな」
風が荷台の中へ吹き込んだ。
古い布袋がかすかに鳴る。
「魔王戦争のころ、北東から魔物が流れてきた。グリムは何度も焼かれた。砦も村も工房も、半分は潰れたままだ」
「工房も、ですか」
「ああ。昔はそこそこ有名だったらしいぞ。辺境騎士団の武具を見ていたとか、戦場から戻った剣や盾を直していたとか。今は知らん。王都から誰か送られるって聞いたときは、また罪人でも押しつけられるのかと思ったが」
罪人。
別に間違ってはいない。
少なくとも追放状の上では、俺は聖剣に不敬を働いた人間だ。
「……俺は、修復士です」
気づけば、そう言っていた。
御者が少しだけ振り返る。
「そうかい」
「壊れたものを、直します」
「そりゃいい。グリムには、壊れたものなら山ほどある」
その言葉は、笑い話のように言われた。
けれど、俺には笑えなかった。
壊れたものなら山ほどある。
昨日の俺なら、それは罰に聞こえただろう。
灰かぶりにはちょうどいい場所。
バルザック様の声が蘇る。
でも今は、少し違った。
壊れたものがあるなら。
そこに、まだ願いが残っているなら。
俺の手が届くかもしれない。
そう思ってしまった。
胸の奥の小さな火が、まだ消えていなかった。
馬車は街道を進んだ。
昼を過ぎると、王都近郊の整った石畳は途切れ、道は土に変わった。
道端の家も少なくなっていく。
畑はまばらになり、古い柵が増えた。
ところどころに、焼けたまま放置された石壁があった。
魔王戦争から十年。
王都では、戦争は美談になっていた。
勇者祭。
勝利の歌。
聖剣を模した菓子。
子ども用の木剣。
だが街道を離れるほど、戦争はまだ地面に残っていた。
黒く焦げた門柱。
誰も住んでいない家。
道祖神の隣に積まれた、名前の消えた小さな石。
俺は荷台の中で、膝の上に置いた手を握った。
指先は荒れている。
爪の間には、落としきれない煤が残っている。
王宮工房にいたころ、上級修復士たちは俺の手を見て笑った。
汚い手だと。
聖剣には触れさせられない手だと。
でも、あの聖剣は、その手に応えた。
ほんの一瞬だけ。
「……何なんだよ」
自分に向けて呟いた。
俺の【修復】は、壊れたものを少しだけ直すだけのハズレスキルだった。
新品は作れない。
名剣は鍛えられない。
綺麗な装飾品も仕上げられない。
壊れていないものには反応しない。
完全に壊れたものも直せない。
だからずっと、役立たずだと思っていた。
なのに聖剣は反応した。
誰も壊れていると思わなかった、あの聖剣だけは。
いや。
違う。
誰も壊れていると言わなかっただけだ。
バルザック様は、見えていた。
見えていて、隠した。
――傷など誰も見たがっていない。
あの冷たい声が耳の奥で蘇るたび、胃の底から苦いものがせり上がってくる。
悔しさだけじゃない。
怖かった。
あの男に植えつけられた「不要」という烙印が、今も皮膚の下でじくじくと焼けている。
お前は要らない。
お前の見る傷も、聞こえる声も、拾おうとする名前も、全部要らない。
そう言われた気がした。
俺たちはいつも不要だった。
王都のきらびやかな通りを歩く人々が、勇者の名を歌っている間も、誰かが血錆を落としていた。
誰かが焼け跡を片づけていた。
誰かが持ち主のわからない剣を布で包んでいた。
誰かが名のない遺品を、名のないまま箱にしまっていた。
それは仕事だった。
必要な仕事だったはずだ。
なのに、誰も見ない。
誰も覚えない。
それでも俺は、ずっと黙っていた。
黙って、磨いて、直して、また灰を掃いた。
それでいいと思っていた。
少なくとも、昨日までは。
「止まるぞ」
御者の声で、はっとした。
馬車がゆっくり止まる。
街道沿いの小さな宿場だった。
宿場と呼ぶには、あまりに寂れている。
古い井戸。
傾いた馬小屋。
屋根の一部が落ちた酒場。
道の脇には、荷馬車が二台止まっていた。
そのうちの一台には、壊れた農具や金属片が積まれている。
もう一台には、布をかけられた長いものがあった。
剣か。
槍か。
あるいは、人か。
俺は知らず、その荷馬車を見ていた。
「兄ちゃんはここで水でも飲んでおけ。馬を休ませる」
「はい」
荷台から降りると、足が少しふらついた。
半日揺られただけでこれだ。
王宮工房では、体力仕事をしていたつもりだった。
だが街道の旅は別物らしい。
井戸へ向かおうとしたとき、酒場の前から怒鳴り声が聞こえた。
「だから、これはうちの兄貴の槍だって言ってるだろ!」
若い男の声だった。
見ると、酒場の前で少年が商人らしい男につかみかかっていた。
少年といっても、俺より少し年下くらいだろうか。
十四か十五。
痩せていて、顔に煤のような汚れがついている。
商人は丸い腹をした中年で、黒い羽根飾りのついた帽子をかぶっていた。
その後ろには、布をかけられた荷馬車。
さっき俺が見たものだ。
「兄貴の槍? 証拠はあるのかね」
商人は少年の手を払いのけた。
「これは戦場跡から正当に買い取った遺物だ。黒冠商会の鑑定印もある」
「嘘だ! その柄の傷は、俺がつけたんだ。兄貴が出征する前に、俺が転んでぶつけて……」
「そんな話で商品を渡せるか」
「商品じゃない!」
少年の声が裏返った。
「兄貴のだ!」
周囲の人々は、遠巻きに見ているだけだった。
誰も助けようとはしない。
商人の後ろに立つ護衛が、腰の剣に手をかけていたからだ。
黒冠商会。
どこかで聞いたことがある。
王都の工房で、上級修復士たちが話していた。
戦場跡の遺物を買い集めて、貴族向けに売っている商会だと。
英雄の破片。
勇者の時代の記念品。
魔王戦争の遺物。
そんな札をつければ、錆びた剣でも高く売れるらしい。
「返せよ!」
少年が荷馬車に飛びつこうとした。
護衛が少年を突き飛ばす。
小さな体が地面に転がった。
俺は、気づけば一歩踏み出していた。
けれど、そこで止まった。
何をするつもりだ。
俺はただの追放された修復士だ。
王宮工房の名ももうない。
喧嘩もできない。
剣も使えない。
商会の護衛に殴られれば、それで終わりだ。
いつものように黙っていればいい。
そう思った瞬間。
布の下から、かすかな音がした。
きい、と。
古い金属が軋むような音。
俺は顔を上げた。
荷馬車に積まれた長い布。
その下から、何かが俺を呼んでいる。
声ではない。
でも、確かに響いていた。
まだ、終わっていない。
そんな軋み方だった。
「……またかよ」
喉の奥が乾いた。
昨日の聖剣とは違う。
あれほど強くはない。
でも、似ていた。
壊れたものの奥に残った、何か。
俺の【修復】が、指先の内側で微かに疼く。
逃げろ。
関わるな。
そう思う。
でも、少年は地面に膝をついたまま、歯を食いしばって荷馬車を睨んでいた。
その手は震えていた。
煤で荒れた、細い手だった。
俺は、その手を知っている気がした。
灰を払い、血錆を落とし、誰にも見られない場所で必要なものを守ってきた手。
不要だと言われる側の手。
胸の奥の火が、少しだけ強くなった。
「その槍」
気づけば、声が出ていた。
商人がこちらを見る。
「何だ、君は」
「その槍、見せてください」
俺は言った。
声は震えていた。
でも、昨日ほどではなかった。
「修復士です」
商人は俺を上から下まで見た。
煤の残った外套。
安物の工具箱。
荒れた手。
王宮工房から出されたばかりの、みすぼらしい三等修復士。
商人は鼻で笑った。
「修復士? どこの」
俺は一瞬、答えに詰まった。
王宮工房。
そう言いかけて、やめた。
もう違う。
俺は追放された。
だから、少しだけ息を吸って言った。
「グリム辺境工房へ向かう修復士です」
言ってから、自分でも妙な感じがした。
まだ着いてもいない。
廃工房がどんな場所かも知らない。
それでも、口にした瞬間、少しだけ胸が軽くなった。
商人はますます馬鹿にしたように笑った。
「辺境工房? あの潰れかけの? なら余計に関係ない。これは黒冠商会の商品だ」
「商品じゃない!」
少年が叫ぶ。
商人は無視した。
「行こう。こんなところで時間を食う必要はない」
護衛が布を直そうとした。
そのとき、布の隙間から槍の柄が見えた。
古い木柄。
焼け跡。
斜めに走る傷。
そして、その傷の奥に、黒く乾いたものが詰まっていた。
血ではない。
泥でもない。
俺には、それが声を押し込めた跡に見えた。
「待ってください」
俺はもう一歩踏み出した。
護衛が剣の柄に手をかける。
御者が遠くから、「兄ちゃん、やめとけ」と小さく言った。
やめておけ。
黙っていろ。
頭を下げろ。
ずっとそうしてきた。
でも昨日、俺は聖剣に触れた。
あの声に、ほんの一瞬だけ届いた。
だったら。
ここでまた目を逸らしたら、何のために追放されたのかわからない。
「その槍」
俺は商人を見た。
「中身が、まだ生きてます」
商人の顔から笑みが消えた。
「……何?」
「ただの売り物にしたら、壊れます」
布の下で、槍がまた軋んだ。
少年が顔を上げる。
俺は自分の指先を見た。
震えている。
怖い。
怖いに決まっている。
でも、その震えはもう、逃げるためだけのものではなかった。
「俺に見せてください」
俺は言った。
「直せるかどうかは、わかりません」
正直に言った。
「でも、まだ何か残ってます」
少年が、俺を見た。
その目に、すがるような光が宿った。
商人は不快そうに顔を歪める。
「馬鹿馬鹿しい。壊れた槍に何が残るというんだ」
その言葉に、俺は昨日のバルザック様を思い出した。
傷など、誰も見たがっていない。
お前の言うひびも、声も、名前も、式典には不要だ。
同じだ。
王都でも、宿場でも。
壊れたものに残ったものは、いつも邪魔にされる。
俺は工具箱を地面に置いた。
蓋を開ける。
古い布。
研磨石。
細い金具。
針金。
煤で黒ずんだ手袋。
王宮工房の上級修復士たちが使うような、美しい道具はない。
それでも、俺の道具だった。
俺の手に馴染んだものだった。
「壊れたものに何が残るかなんて」
俺は、荒れた手袋をはめながら言った。
「壊れたものをちゃんと見たことがない人には、わかりませんよ」
空気が止まった。
商人の顔が、屈辱と怒りで歪んだ。
王都の特権階級である自分が、辺境へ追われる灰まみれの修復士に職人論を説かれたのだ。
「……生意気なガキが」
商人は低く言った。
「黒冠商会をなめるなよ。やれ、叩き出せ」
護衛の男が、完全に剣を抜いた。
鋼の音が、宿場の乾いた空気を裂く。
ああ、まずい。
昨日と同じだ。
また余計なことを言った。
でも、もう引っ込める気にはなれなかった。
そのとき。
遠くの王都の方角から、かすかに鐘の音が響いた。
昨日よりずっと遠い。
けれど、耳に残る音だった。
勝利を祝う鐘。
名もなき者たちをかき消す鐘。
その鐘に重なるように、布の下の槍が、もう一度だけ軋んだ。
俺には、それが声に聞こえた。
『……弟を』
ごく微かな声。
風に消えそうな声。
けれど、俺の背筋は凍った。
この声の響き。
泥にまみれた、ひび割れたような質感。
昨日、聖剣の奥で聞いた『坊主を、頼む』というあの声と、あまりにも似ていた。
心臓が、嫌な音を立てた。
燃える丘。
煙の中の男。
欠けたナイフ。
灰にまみれた小さな子ども。
あれは誰だったのか。
なぜ俺は、その声を知っている気がするのか。
逃げろ、と頭の奥で声がした。
関わるな。
触れるな。
でも、もう遅かった。
この槍をここで見失ったら、俺はきっと一生、自分が何者なのかに手を伸ばせなくなる。
少年のためだけじゃない。
俺が、知りたかった。
この槍に何が残っているのか。
あの声が、俺の何を呼んでいるのか。
俺は少年を見た。
少年は泣いていなかった。
泣く代わりに、唇を噛みしめていた。
血が滲むほど強く。
「ノエル、逃げろ!」
誰かの声がした。
それが槍の声だったのか、俺の記憶だったのか、一瞬わからなかった。
次の瞬間、地面に倒れていた少年が動いた。
「返せよ!」
少年は叫びながら、護衛の足元に飛びついた。
「がっ……このクソガキ!」
護衛の体勢が、ほんの一瞬だけ崩れる。
剣の切っ先が俺の外套をかすめた。
その僅かな隙へ、俺は手を伸ばした。
今度は勝手に伸びたのではない。
俺が伸ばした。
少年の兄のために。
そして、俺自身の知らない過去のために。
「その槍」
迫る護衛の影を視界の端に捉えながら、俺は言った。
「まだ、終わってません」
俺の指先が、布の下の槍に触れた。
その瞬間。
槍の焼けた柄から、冷たい風が吹いた。
冬の砦の匂いがした。
血と雪と、焦げた木の匂い。
誰かの荒い息。
誰かが走る足音。
そして、男の声。
『ノエルを、頼む』
俺の視界が、白く弾けた。
次の瞬間、荷馬車を覆っていた古い布が、内側から吹き上がった残響の風で裂けた。
護衛の男が腕で顔を覆ってよろめく。
商人が短い悲鳴を上げ、尻餅をついた。
光の中に現れたのは、黒く焼けていたはずの柄から煤を吹き飛ばし、かすかに鋼の輝きを取り戻し始めた一本の戦槍だった。
「……あ」
ノエルが、息を呑む音が聞こえた。
壊れた槍は、まだ主を覚えていた。
俺の【修復】が、その泥まみれの芯を、今、確かに捉えている。
そして俺は、グリムへ着く前に初めて知ることになる。
辺境に残された壊れ物たちは、王都の聖剣よりもずっと近い声で、誰かを呼び続けているのだと。




