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返却路

 白い通路の奥で、何かがゆっくりとこちらを向いた。


 子どもだった。


 たぶん。


 背は、ルカより少し低い。


 細い腕。


 細い脚。


 白い服。


 裸足。


 顔には、薄い白布がかかっている。


 目も鼻も口も見えない。


 けれど、その白布の中央に、赤い糸で番号が縫いつけられていた。


 六。


 その子どもが、首を傾けた。


『返却、失敗』


 声は子どもではなかった。


 冷たい。


 平ら。


 まるで、誰かが紙に書いた文字を、そのまま喉へ押し込んだみたいな声だった。


『七番目、再搬送』


 ノエルが鉄箱を抱え直す。


 左腕が震えている。


 右手は胸の前。


 布の下の指輪は沈黙している。


「また番号かよ」


 ノエルの声は低かった。


 白い子どもは反応しない。


 ただ、足元を少し滑らせるようにして、一歩近づいた。


 足音がしない。


 さっき聞こえた小さな靴音は、この子のものではない。


 では、何の音だったのか。


 こん。


 壁の奥で箱が鳴る。


 こん。


 さらに奥からも返る。


 こん。


 白い通路の壁の向こうに、いくつもの箱がある。


 そう感じた瞬間、ルカの胸が重くなった。


 ここは通路ではない。


 棚の隙間だ。


 人が歩くための道ではなく、箱を運ぶための返却路。


 白い石の壁が、綺麗すぎる。


 染みひとつない。


 焦げ跡もない。


 灰もない。


 血もない。


 何も残さないために磨かれている。


 ルカは欠けたナイフを握った。


 刃の黒い亀裂が、白い光を吸う。


 白い子どもが、もう一歩近づいた。


『確認します』


 白布の下から、声だけが出る。


『対象、灰児第七号』


 ルカの胸の木札が熱を帯びた。


『搬送品、音止め箱』


 ノエルの腕の中の鉄箱が、こん、と鳴った。


『異物、二名。一匹』


 クロが低く唸る。


 白い子どもの白布が、わずかに揺れた。


『異物を排除します』


 言い終わる前に、白い壁が動いた。


 左右の壁から、細い引き出しのようなものが滑り出す。


 音もない。


 そこに並んでいたのは、小さな靴だった。


 片方ずつ。


 右だけ。


 左だけ。


 焦げたもの。


 濡れたもの。


 裂けたもの。


 真新しいもの。


 どれも子どもの靴。


 それらが、壁から半分だけ出た状態で、通路の左右にずらりと並んだ。


 ルカの道具袋の中で、拾ってきた子どもの靴が震えた。


 小さく。


 怯えるように。


 白い子どもが言った。


『歩行記録、照合』


 靴たちが、一斉に床を叩いた。


 とん。


 とん。


 とん。


 小さな靴音。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 さっき聞こえた音。


 白い通路の奥から来たのではない。


 壁の中の靴たちが鳴らしていたのだ。


 その音が、通路を満たす。


 とん。


 とん。


 とん。


 ルカの足が重くなった。


 自分の歩き方がわからなくなる。


 右足を出す。


 左足を出す。


 その順番すら、誰かに照合されている気がする。


 ノエルが一歩よろけた。


「っ……」


 鉄箱を抱えたまま、膝が落ちそうになる。


 ルカは布を探そうとして、もう手首にはないことを思い出した。


 青い水の部屋でほどいた。


 ノエルが懐に入れた。


 声で呼べる場所に戻ったのに、声より先に手が布を探した。


「ノエル」


 ルカが呼ぶ。


 白い子どもの布が、ぴくりと揺れた。


『呼称、検出』


 壁の靴音が強くなる。


 とん。


 とん。


 とん。


 ノエルが顔を上げた。


「呼ぶなってか」


 白い子どもは答えない。


 ノエルは歯を剥くように笑った。


「なら余計呼ぶわ」


 白い壁が、さらに開いた。


 今度は靴ではない。


 札。


 小さな白札が、何枚も引き出しから突き出た。


 そこには、墨のような黒い文字で、短い情報が書かれている。


 年齢。


 身長。


 体重。


 髪色。


 右手欠損。


 声紋不安定。


 残響過多。


 返却不能。


 処分待ち。


 ノエルがその文字を睨んだ。


「読むな、ルカ」


「うん」


「読んだら顔に出る」


「もう出てる?」


「だいぶ」


「ごめん」


「謝るな」


 白い子どもが首を傾げた。


『異物一、識別不能』


 その白布が、ノエルへ向く。


『提出物を保持。右手内に未登録遺物。回収対象』


 ノエルの右手が、布の下で硬く震えた。


 白い壁から、細い金具が伸びた。


 針ではない。


 鉤でもない。


 小さな指みたいな形をした器具。


 一本。


 二本。


 三本。


 それがノエルの右手へ向かってくる。


 ルカは前に出た。


 欠けたナイフを構える。


 白い子どもの布が、ルカへ向いた。


『七番目、抵抗』


 器具の動きが止まる。


 次の瞬間、床が白く光った。


 ルカの足元に、赤い丸が浮かぶ。


 赤い糸で描いたような丸。


 その中に、文字が滲む。


 灰児第七号。


 再搬送。


 ルカの足が床に沈みかけた。


 白い石が、泥みたいに柔らかくなる。


 足首を掴む。


 冷たい。


 生き物ではない。


 床が、ルカを棚へ戻そうとしている。


「ルカ!」


 ノエルが叫ぶ。


 白い子どもが言った。


『呼称、再検出』


 壁の靴音が強くなる。


 とん。


 とん。


 とん。


 ルカの名前が、音に分解されていく。


 ル。


 カ。


 ル。


 カ。


 靴音の間に挟まって、白い通路へ吸われる。


 ルカは歯を食いしばった。


 欠けたナイフを床へ突き立てる。


 刃が白い石に刺さった。


 新しい亀裂が、床へ走る。


 黒い線。


 白い石が、それを嫌がるように軋む。


『異常』


 白い子どもの声が、初めてわずかに乱れた。


『修復不能亀裂、検出』


 ルカはナイフを握ったまま、足を引き抜こうとした。


 床は離さない。


 白い石の中から、赤い糸が出てくる。


 足首へ巻きつく。


 ノエルが鉄箱を抱えたまま、ルカへ近づこうとする。


 壁の小さな器具が、またノエルの右手を狙う。


 クロが飛んだ。


 黒い影。


 器具の一本に噛みつく。


 金属が嫌な音を立てて曲がった。


 クロの口から血が滲む。


 それでも離さない。


「クロ!」


 ノエルが叫びかけて、歯を噛む。


 白い子どもがクロへ顔を向けた。


『異物三、動物』


 壁の引き出しが、また開く。


 今度は首輪。


 小さな首輪。


 鈴つき。


 革製。


 鎖つき。


 札つき。


 その中の一つが、クロへ伸びる。


 クロの片耳が伏せられた。


 逃げようとしない。


 器具に噛みついたまま、ルカたちの前に立っている。


 ルカはナイフを捻った。


 白い床の亀裂が広がる。


 けれど、足首の赤い糸は切れない。


 赤い糸。


 箱の糸。


 子どもたちの糸。


 王都が結んだ糸。


 ルカは道具袋から、曲がった針を取り出した。


 白い床から伸びる赤い糸へ、針先を差し込む。


 一つ目の輪。


 二つ目の輪。


 奥に、硬い結び目がある。


 ルカは針を押し込んだ。


 赤い糸が、ほどける。


 白い子どもが一歩近づく。


『七番目、再搬送を妨害』


 ノエルが鉄箱を床へ置きかけた。


 左腕が限界だった。


 置けば、楽になる。


 でも、置けない。


 ノエルは置かなかった。


 左腕で抱えたまま、膝を曲げる。


 そして、白い子どもへ体当たりした。


 右手は使わない。


 左肩だけ。


 鉄箱を抱えたまま。


 鈍い音がした。


 白い子どもは軽かった。


 けれど、倒れなかった。


 壁の一部みたいに、その場に固定されている。


 ノエルの方が弾かれた。


「ぐっ……!」


 それでも、白い布がずれた。


 顔が少し見えた。


 目も、鼻も、口もない。


 白い陶器のような面に、赤い糸で縫われた数字。


 六。


 その下に、古い傷。


「ミ……」


 そこまで読めた瞬間、白布が戻った。


『閲覧禁止』


 白い子どもの声が硬くなる。


 壁の札が一斉に裏返った。


 文字が消える。


 靴音が止まる。


 通路が、急に静かになった。


 静かすぎる。


 白い子どもが、両手を上げた。


 細い指。


 白い指。


 人形のような手。


『搬送方法を変更します』


 白い壁の奥から、何かが滑り出してくる。


 ひつぎではない。


 箱。


 白い箱。


 子ども一人が入る大きさ。


 蓋は開いている。


 中には赤い糸が敷き詰められている。


 それが、ルカの足元へ近づいてくる。


 音もなく。


 ゆっくりと。


 ルカは足首の糸をほどこうとする。


 あと少し。


 あと一つ。


 針先が結び目に入る。


 だが、白い箱は近い。


 ノエルが立ち上がろうとする。


 左腕に抱えた鉄箱が重すぎる。


 肩が震える。


 クロは首輪を避けながら、器具と噛み合っている。


 誰も間に合わない。


 白い箱の中から、声がした。


『七番目』


 赤い炉の子どもたちの声ではない。


 青い水の歌でもない。


 もっと乾いた声。


 紙に挟まれて死んだ声。


『戻って』


 ルカの足首の糸が、さらに強く締まる。


 骨が軋む。


「ルカ!」


 ノエルが叫んだ。


 その声に、白い壁の札が一斉に反応する。


 呼称。


 呼称。


 呼称。


 だが、今度は違った。


 ノエルの声が、壁に吸われきらない。


 鉄箱が鳴る。


 こん。


 木札が鳴る。


 こん。


 クロが噛んだ金具が鳴る。


 ぎん。


 三つの音が、ノエルの声に重なった。


 ルカ。


 白い通路の中で、その名が削れずに残る。


 ルカは息を吸った。


 針を押し込む。


 結び目が、ほどけた。


 赤い糸が足首から外れる。


 白い床から足が抜ける。


 同時に、白い箱の蓋が閉まりかけた。


 空のまま。


 ばたん。


 白い箱は、何も入れられずに閉じた。


 白い子どもの首が、ぎこちなく傾いた。


『搬送、失敗』


 その声の奥に、ほんのわずか、別の声が混じった。


 子どもの声。


 震える声。


『……にげて』


 白布が揺れた。


 ルカは白い子どもを見た。


 ノエルも見た。


 クロも、器具から口を離して低く唸った。


 白い子どもの指が、ゆっくりと通路の先を指した。


 奥ではない。


 右の壁。


 何もない白い壁。


 そこに、赤い糸が一本だけ浮かび上がる。


 縦に。


 細く。


 まるで、裂け目の縫い目。


 ルカは立ち上がった。


 足首が痛む。


 だが、立てる。


 ノエルが鉄箱を抱え直した。


「今の、助けたのか」


 白い子どもは答えない。


 代わりに、白布の下で数字の六が、少しだけ黒く滲んだ。


『閲覧禁止』


 また平らな声。


 だが、さっきより弱い。


『搬送対象、逃走』


 壁の奥で、いくつもの箱が鳴り始めた。


 こん。


 こん。


 こん。


 こん。


 警報のように。


 返事のように。


 白い通路の奥から、小さな靴音が増えていく。


 一つ。


 二つ。


 十。


 二十。


 もっと。


 ノエルが顔をしかめた。


「増えてる」


「うん」


「右だな」


「うん」


「壁だけど」


「たぶん、壁じゃない」


 ルカは赤い糸の縦線に近づいた。


 触れる前に、木札が熱くなる。


 欠けたナイフが冷える。


 鉄箱が鳴る。


 こん。


 赤い糸の縦線が、少し開いた。


 白い壁の奥に、黒い隙間がある。


 クロがすぐに入り込む。


 ノエルが続こうとして、白い子どもを一度だけ振り返った。


「お前」


 白い子どもは動かない。


「六番目か」


 白布の下で、何かが息をした。


 返事はない。


 でも、白い子どもの指が、また右の隙間を示した。


 行け。


 声にはしない。


 ルカは頷いた。


 言葉にしない。


 ここでは、礼も記録される気がした。


 ノエルが鉄箱を抱えて隙間へ入る。


 ルカも続こうとする。


 その瞬間、白い通路の奥に別の声が響いた。


 大人の声。


 エルヴィンではない。


 黒冠でもない。


 もっと古い。


 白い通路に染み込んだ声。


『六番、返却係へ復帰』


 白い子どもの体が、びくりと震えた。


『七番、再捕捉まで三十秒』


 壁の箱が一斉に鳴る。


 こん。


 こん。


 こん。


 白い子どもが、こちらを見た。


 白布の下で、赤い糸の六がほどけかけている。


 その下に、また文字が見えた。


 ミ。


 オ。


 次は見えなかった。


 白布が、内側から赤く滲む。


 ルカは息を呑んだ。


 ミオ。


 いや。


 それだけではない。


 ノエルが小さく叫ぶ。


「ルカ!」


 時間がない。


 ルカは隙間へ身を滑らせた。


 白い壁が、背後で閉じ始める。


 最後に、白い子どもの声が聞こえた。


 今度は、平らではなかった。


『七番目』


 白い壁が狭まる。


『名前を、持っていって』


 壁が閉じた。


 白い光が消える。


 暗闇の中で、ルカの胸の木札が焼けるように熱くなった。


 ノエルの腕の中で、鉄箱が鳴る。


 こん。


 そして。


 道具袋の中で、欠けたナイフが微かに温かくなった。

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