7.私、頑張っています!
何度か名前を呼ばれ、ふわりと目が覚める。
シャッ、とリザがカーテンを開けても、部屋は暗かった。
欠伸が止まらず、何度も口を開ける。
「リネット様、はしたないですよ」
「そうは言っても……おはよう、リザ……」
「おはようございます」
はしたないと言われようと、もう一度欠伸をする。半分寝ぼけ眼のまま、温もりが名残惜しい布団からずるずると這い出た。
「ええと、ごはん……」
「準備はできております。その前にお支度を」
「服は……向こうで使うエプロン……洗濯、間に合ってる……?」
「そう仰ると思いまして、同じ型の服とエプロンを多めに用意しておきました。予備が三着はありますので、昨晩のように遅くなりましても問題ありません」
「ありがとう……」
顔を洗い終わり、軽い化粧を施される。シンプルなドレスに着替えると、リザが私の髪を梳かす。
いつものように片側の髪を三つ編みに編み込まれる。編み込んでいない髪は軽く巻いて、油で仕上げ、最後には三つ編みに花飾りを挿せば、完成。
鏡に映るのは、令嬢らしい私の姿だ。
もちろん、すごく可愛いのだけれど……。
「どうせ向こうで着替えるし、結い直すんだから良いのに。毎日毎日、律儀ね」
「ミミック家のご令嬢として当然ですよ」
「……やっぱり切っちゃだめ?」
「駄目です」
きっぱりリザに言われて、口を尖らせる。
確かに、私がさっぱり髪を切った日には、お母様もお父様も卒倒するとは思う。
それを言い出したら、女中と同じ仕事を毎日してると知っただけで憤慨しそう。下手をすると王都に呼び戻されるのかしら。追放された私みたいな令嬢を戻して良いのか、という疑問はさておき。
そうこうしていると、部屋の向こう側からノックが響く。リザが開けると、家令のセドリックが立っていた。
リザと同じく、辺境に来てからも隙のない糊の利いたシャツにグレーのベスト。その上から羽織る、皺のない黒の仕着せにズボン。柔和に見えるグレーの髪に上品な髭、碧い目――優しそうに見えて、怒ったら怖いことを、よーく知っている。
とはいえ、今日は怒られることはない。そもそも朝一番から怒られる理由もない。普通におはよう、と挨拶した。
セドリックは頭を下げると、穏やかに微笑んだ。
「お嬢様、おはようございます。お食事と馬車の準備はすでにできております。もちろん、お弁当も」
「わぁ、ありがとう。今日はなあに?」
「朝はお嬢様の好きなオムレツ、昼は鶏と玉ねぎに、マスタードのサンドイッチとなります」
「やった、嬉しい!楽しみだわ!」
私が手を叩いてはしゃげば、リザがこれまた「はしたないですよ」と嗜める。あっ、と慌てて手を下ろす。
せっかく普通の朝だったのに。セドリックに叱られたら、朝ごはんが台無しだ。
しかし、セドリックは私を嗜めずに微笑むばかりだ。
「そう仰るなら、オーギュストが安心します。お嬢様に申し訳ないと私に話していたので」
「どうして?」
「お弁当はどうしても毎日似たようなメニューになってしまうと。具材や味付けを変えて工夫しているようですが……」
「お弁当は傷みにくさを優先するから仕方ないわ。オーギュストが作るサンドイッチ、とっても大好きよ」
実際、ヴァルハルト邸で一息つけるのはお弁当を食べてる時くらいだ。ヴァルハルト邸の使用人たちは、相変わらずちくちくとした目線だし。
「それに、みんな協力してくれてるんだもの。文句なんて言わないわ」
ヴァルハルト邸に通い始めて、今日で五日目。
この生活自体には、私も慣れつつある。使用人の態度やヴァルハルト辺境伯の皮肉はともかく。
ただ、この生活は私が早起きすれば済む問題じゃない。屋敷まで付き合うリザを始め、他の使用人も私の早起きに合わせて前倒しになる。流石に、それを何も思わないほど無神経ではなかった。
「……ごめんね、いっぱい迷惑かけて」
私が気まずそうに口にすると、セドリックは一瞬だけ目を細める。
「まあ確かに、少しばかり苦労はしますが……少し懐かしゅうございます。幼い時のお嬢様みたいで」
その言葉に私は首を傾げていたが、セドリックの言葉に同意するようリザも深く頷く。
「お嬢様は、一度やると決めたら譲らないところがありましたから。奥様のために花を取りたいと木に登ろうとしたり、奥様の口紅を塗って私たちに見せたり……ああ、雲に手が届くのかと実験すると窓から落ちかけたこともありましたな。あの時は奥様が一日寝込んで大変でした」
「……そうだっけ?」
「ええ、そうでしたよ。だから、こういうのも悪くない。私はそう思っております」
セドリックが、ほっほっとどこか呑気に笑う。
だけど、セドリックとは対照的に、私はぱちくりと瞬きを繰り返す。
――小さい頃は割とお転婆だった……?
かつての花の令嬢は、今ではすっかり社交界で「婚約破棄されたあまり気が狂った」と言われている。実際、前世の記憶を持つ私は別人のように見えてもおかしくない。
でも、ここまでついてきてくれた使用人たちは、今の私を受け入れるのも早かった。しかも皆、年配の使用人ばかりだった気がする。現に、この屋敷で私と歳が近いのは、リザと料理番のオーギュストだけだ。
小さい頃にお転婆だったらしいリネットの記憶を辿ってみるが、ぼんやりしたままだ。虫食いのように穴が空いていて、思い出せない記憶がある。
前世の記憶を思い出してから、ここで今生きた十九年の記憶がぐちゃぐちゃに混ざってしまったようだった。
……かつての私、か。
思い出そうとうんうんと唸る私に、リザが促してくる。
「お嬢様、そろそろお食事を取られないと。時間に間に合いませんよ」
「……あっ!そうね、セドリックもありがとう。とりあえずご飯にしなくっちゃ」
そのうち思い出すこともあるだろう。
それに今の私は、思い出すことよりもやるべきことが山ほどあるのだから。
*
いつものように着替えると、リリアーヌ様を抱いたエレオノーラ様が出迎えてくれた。
ベッドに腰かけながら、乳母と一緒にリリアーヌ様をあやしている。
「おはようございます。今日の気分はいかがでしょうか?」
「おはようございます、リネット様。今日は朝から調子が良くて……久々に一晩眠れたわ」
「それはよかったです。お熱や咳の方は?」
「朝は青色でした。昨晩は橙色でしたけれど。咳は少し、まだ……」
そう言うなり、エレオノーラ様が軽く咳き込む。乳母はすぐにリリアーヌ様を預かり、私はハンカチを渡す。
「っ、ありがとう、大丈夫よ。ただ、鼻水が出るようになってきて……はしたないところを見せてごめんなさい」
「大丈夫です、謝らないでください。それに強くかみすぎなければ、むしろ出してしまった方がいいもの」
「ほんと、恥ずかしいところばかり見せて……」
橙色なら、まだ微熱は続いている。
ただし、咳が明らかに減っているのと、鼻水が出るようになったことは良いことだ。
換気か、あの温香機をやめた効果か、清拭やお風呂の回数を増やしたせいか、それとも下着の当て布をまめに変えたおかげか――全部かも。
とりあえず、今の対応で効果はかなりある。なら継続するのみ。それがわかれば良い。
私はエレオノーラ様の背中を摩りながら、乳母のサラに質問する。
「サラ、リリアーヌ様はどう?お熱は?」
「リリアーヌ様は昨日からずっと青色のままです。ぐったりしていない時間も増えましたわ」
「よかった、お乳は飲めている?」
「ええ、すっかり吐くことも減りました。エレオノーラ様も朝ごはんを半分召し上がられて……ご気分も良いからと、ご一緒にお散歩でもとお話ししていたところです。その、どうでしょう」
サラはこの屋敷の中で、比較的私に好意的だ。
気後れしている気配こそあれど、こうして笑顔で報告してくれる。
「そうね。エレオノーラ様もいつまでも寝てばかりでは体力も落ちてしまうし、リリアーヌ様と一緒に屋敷の中を軽く歩きましょうか。もちろん、無理のない範囲で」
「そういえば、すっかり足腰が弱ってしまって。この子を抱いて歩くのもなかなか大変だったわ」
「筋力はすぐ落ちますからね。とりあえず部屋の外に出るとして……そうなるとエレオノーラ様にもマスクがいりますね」
「貴女やサラがつけているもの?」
きょとんと、困惑したようにエレオノーラ様が瞬きをする。貴族令嬢には無縁のアイテムだろう。
「ええ、エレオノーラ様がこの部屋から出るとなると、他のマスクをつけていない使用人と接触してしまいますから」
なにより貴女が感染源の可能性があるから――とはとても口が裂けては言えない。
すると、苦虫を潰したような顔でリザが口を開く。
「リネット様。エレオノーラ様にマスクは、流石に、その……あまり……」
「なによ、大事なことよ。とはいえ、初めてでつけて歩き回るのは大変ですよね。まずはお部屋の中で少し試してみるのはいかがでしょう?」
「……そう、ね。貴女がここまで言ってくれるんだもの、試してみるだけ試してみるわ」
「じゃあらまずこうして口に当てて……そう、鼻に沿わせるように……」
そうやってお手伝いをしていた矢先だった。
ノックが響く。
はい、とエレオノーラ様が返事をすると、真っ先に見えたのはでかい男のシルエット。
「あら、グレン。こんな早くに来てくれたの?」
「……姉さん」
そう呟くなり、でかい男――ヴァルハルト辺境伯は、がちりと入り口で動かなくなった。
なんなら、戸を開けた使用人も、エレオノーラ様のマスク姿に動揺している。
「あの、戸を早く閉めていただけますか?」
「相変わらずだな、君は」
「あ、ちゃんとマスクは付けていますね。とっても素敵ですよ」
「……顔を隠して褒められたのは初めてだ」
「あら、光栄です」
そのやりとりを聞くなり、エレオノーラ様が吹き出した。
「ふふっ、珍しい。女の子にそんな態度を取るグレンは、初めて見たわ」
「そうなんですよ。騎士の中の騎士、女子供にはお優しいと聞いていたんですけれど、おかしいですね?」
「心当たりはあるだろう、胸に手を当ててよく考えてみたらどうだ?」
「胸に手を当てても、スタイルが良いことくらいしかわからないわね」
「……お嬢様」
「……っ、ほんと、おかしい……!」
リザの呆れたような声が最後のトドメだったらしく、エレオノーラ様は完全にツボに入ってしまったのか、咳をしながら笑い始めるものだから、私もヴァルハルト辺境伯も慌てて背中を摩る。
しかもリリアーヌ様までぐずり出すものだから、てんやわんやだった。
「君が余計なことを言うからだろう」
「ふうん、女性にそんなことを言うのが騎士様の作法なのね。よーく、覚えておくわ」
「本当にああ言えばこう言う、君こそ淑女教育をやり直したらどうだ」
「貴方が騎士様らしくしてくれたら、いつでも見せてあげる」
そんなやりとりにとうとう呆れたのか、ようやく嗜めるような声が割り込んだ。
「……グレン様、そろそろお時間が」
気付けば戸を開けて立っていたのは――私を屋敷にまで迎えにきた例の使者だった。相変わらず、口元の大きな傷に迫力のある体格。黒のベストとネクタイより、軍服の方がよっぽど似合いそうだった。
その男に咎められて、ヴァルハルト辺境伯はようやくハッとする。ついでに、こほん、とわざとらしい咳払いまでした。
「姉さん、今日はクラウゼン子爵がお見舞いに来る。俺はこれから迎えに行くところだ」
「そうだったのね、アルが……」
エレオノーラ様は途端に綻んだ。それこそ花のように。
その顔を見たら、すぐにわかる。会いたかったんだな、と。私もつられて笑っていた。
アルベルト・クラウゼン子爵は、エレオノーラ様を溺愛しているというのは社交界でも噂になっていた。噂に疎い私にですら届くほど。
クラウゼン子爵も、エレオノーラ様のこの様子を見たらお喜びになるだろう。少なくとも以前会った時よりは顔色も良いだろうし、咳も減っている筈だ。
まあ、それはそれとして。
「あの、ヴァルハルト辺境伯」
「なんだ?」
「クラウゼン子爵がいらっしゃるなら、あらかじめ説明してくださいね。よろしくお願いします」
そう言って、予備のマスクを差し出した。
にっこりと、マスクの下で見えない笑顔で。
「……俺が?」
「はい。貴方からお伝えする方が角が立たないでしょう?」
ヴァルハルト辺境伯は、唖然としていた。綺麗な瞳が嘘みたいに、輝きを無くして。
それを見た瞬間、またエレオノーラ様が吹き出したのは言うまでもなかった。




