8.私、頑張りすぎています!
鏡を見た頬はいつもより血色が良い。理由は、湯浴みをしただけではないだろう。
エレオノーラ様は、前髪のミリ単位のズレすら気にするように何度も鏡を見ていた。
「これで大丈夫かしら。アリシアが丁寧にしてくれたんだけれど、なんとなくしっくりこなくて……」
「以前よりお痩せになった影響だと思います。頬に影ができていますので、いつもより明るい下地を入れるとよろしいかと」
「そうね、やってみるわ。ふふ、流石だわ。リネット様のお化粧、いつも素晴らしいものね」
「ありがとうございます」
夫が来ると聞くなり、前より体調が良くなったエレオノーラ様は「せめて少しでも美しく見せたい」と、支度していた。あらかたの仕上げはエレオノーラ様のお付きの女中がやってくれたようだけれど、仕上げをリザに聞いている。
最後の最後まで鏡を見つめる横顔は、今までで一番活気があった。恋する乙女らしい可憐さは、機能性重視の服を着て、今朝に髪を切りたいと言っていた私とは雲泥の差だ。
そうしているうちに、エレオノーラ様もようやく鏡を見てにこりと微笑む。納得した仕上がりになったらしい。
退室する前に、私とリザは頭を下げた。
「クラウゼン子爵がいらしている間は、私たちは席を外しますね。何かあれば、遠慮なくおっしゃってください」
「ええ、ありがとう」
エレオノーラ様は、私たちへの返事もどこか気もそぞろだ。窓の外を見ているエレオノーラ様の邪魔をしないよう、できる限り静かに戸を閉めた。リザと顔を見合わせて、ほっと一息吐く。
「……エレオノーラ様、嬉しそうでしたね」
「本当に、良かったわ。家族との面会は大事なことよ」
たまに面会が毒になるタイプもいるのだけれど、今回ばかりは違うようだ。前世であった様々なヒヤリ・ハット――泣きながら記録をした嫌な記憶を封印するように、頭をゆるりと振る。
「じゃあ私たちはこの間に、さっとお昼にしましょうか」
「リネット様はクラウゼン子爵にご挨拶はしなくても宜しいのですか?」
「責任者はヴァルハルト辺境伯だし、出しゃばってせっかくの面会に水を差すのもね。いくら私が可愛くても、クラウゼン子爵が見たいのは私の顔じゃないもの。まあ、全く顔を出さないのも心象が悪いから、後は向こうの出方を見つつ、一言くらい挨拶しようかしら」
「……その言葉は、一月前に聞きたかったですね」
リザがちくりと刺してくる。
ヴァルハルト領に来たばかりの、ぐーたら食っちゃ寝生活への小言だろう。
「今はこんなに働き者なんだからいいでしょ。ほら、せっかくのご飯なんだから、楽しい話にしてよ!」
そんな風にリザに文句を言えていたのは、束の間だった。
食事をたんまり堪能して、リザがお茶を淹れてくれた――そのタイミングで呼び出しがあったからだ。
「……クラウゼン子爵が、リネット様にお会いしたいと」
私を呼び出したアリシアと目が合わない。
……もう、嫌な予感がした。
この空気では「せっかくの紅茶が冷めちゃう」とは言えなかった。そもそも、私の立場だと、ここで挨拶をしないのは本当に感じが悪い。それくらいは流石にわかっていた。
お茶を一気に飲んでから、一度着替えをした。
扉が開いた瞬間、嫌な予感は確信に変わった。
肌でわかる。重苦しい気配は、子供の頃にお父様に叱られた時のことを思い出す。
部屋に入るなり、ヴァルハルト辺境伯は目を逸らす。代わりに目が合うのは、ヴァルハルト辺境伯ではない。
私を見据える茶褐色の瞳――クラウゼン子爵だった。中肉中背の体格は威圧感がなく、温厚そうな垂れ目。
なのに、今は太い眉が吊り上がっていて、とてもそうは見えない。
ひゅ、と息を飲みかけて、慌てて頭を下げた。
「お初にお目にかかります。リネット・ミミックと申します」
「……ああ、君が」
たった一言呟いただけなのに、もう声だけで私に対する敵意のようなものが滲んでる。
言葉を間違えたら、それだけで火種になる予感がした。それは前世の記憶と今世の記憶、どちらの私からも、警告のようにガンガンと聞こえている。
クラウゼン子爵に促されても、敢えてゆっくり数えてから顔を上げた。
「私はアルベルト・クラウゼン。私の妻が君に世話になっていると聞いてね、少し話をしたかったんだ」
「……はい、勿論。ヴァルハルト辺境伯からお話はどの程度お聞きになっていらっしゃいます?」
「君が色々としてくれたことには感謝しているよ。おかげでエレオノーラやリリアーヌの体調も良いことは聞いているよ。実際、あんなに元気な妻は久しぶりに見た」
ポジティブな言葉ばかりなのに、まるで前置き一つ一つに重石を入れられているような錯覚を起こす。
「ただ、一つだけ気になったことがあって。あの香を下げたのはどうしてかと思いましてね」
そして、クラウゼン子爵がピリピリとしていた理由を完全に察した。
――まさか話してなかったの?
ヴァルハルト辺境伯から話した方が角が立たないから、うまく説明してくれって言ったじゃない……!
そう思ってヴァルハルト辺境伯の方を見ると、申し訳なさそうに目配せするばかりだ。
私は頬が引き攣るのを必死で堪えた。今日ほどマスクをつけていたかった日はない。
勿論、ここで「温香機は汚れていたしあの香にはなんの効果もなさそうだったから」とストレートに言ってはいけない。
ましてやエレオノーラ様が嫌がった、とクラウゼン子爵本人に言うのも良くない。私から言うのは、エレオノーラ様に擦りつけているだけだし、下手をするとお二人の関係にヒビを入れかねない。
えー……みたいな、朝の校長先生みたいな無駄な音を何度か入れつつ、私はようやく口を開いた。
「ヴァルハルト辺境伯からお聞きになっているかもしれませんが、あの部屋は空気が篭っていました。ですので、すべて一度空気を入れ替えるための試みです。エレオノーラ様の身の回りを自然に近い、極力フラットな状態にするため、温香機もあえて撤去させて頂きました」
少なくともヴァルハルト辺境伯相手に言った時よりはマシな返事になっていた筈だ。なんなら「そんな返事も出来るんじゃないか」と言わんばかり辺境伯がこちらを見ているのもわかった。
そんな目で見ている暇があるなら助けなさいよ。
つい反射的に睨んでしまった。
しかし、私の説明が足りなかったのか、ヴァルハルト辺境伯への視線がまずかったのか。
クラウゼン子爵の目は笑っていなかった。
「……ミミック家の令嬢が、医学にそこまでご造詣が深いとは存じませんでした。そのような噂は社交界でも聞いたことがなく」
それはそうだろう。ミミック家の生業は布の製造業がメインなんだから。クラウゼン子爵が知ってる『噂』は、私の婚約破棄の騒動の方だろう。
「あれは、私が妻のために贈ったものです。王都の薬師に調合させました、魔術使いの監修の元でね」
クラウゼン子爵は口元だけで笑う。ひやりとした皮肉は、まさしく貴族らしいものだった。
つまるところ、根拠のない令嬢が誰の許可を取って、と言いたいのだ。
こっちだって本音を言えるものなら言いたい。実際、体調は改善の兆しを見せているのに文句を言われる筋合いだってない。
ただ、クラウゼン子爵から見た私は紛れもなく素人だ。それに私が温香機を片付けた責任を取る――そう言った以上、私が泥をかぶるべきだ。
問題は、被り方。エレオノーラ様や、まあ一応辺境伯にも文句が飛ばないように。そもそも私に失うものもあんまりない。
そうなると、できることは一つ。婚約破棄された悪役令嬢らしいやり方がある。
「……私が、私の判断で下げました。あの温香機は不要と、むしろエレオノーラ様やリリアーヌ様のお身体の健康を害していると見做しました」
さっきまでのオブラートに包んだ言い方を捨てると、一気にクラウゼン子爵の眉間の皺が増える。ヴァルハルト辺境伯の目が大きく見開かれる。
……もう助けなくて良いわよ、むしろこの場で私を庇えば貴方に火の粉が飛びかねないんだから。
そう思ったタイミングだった。
ノックの音が、私の後ろから響く。
部屋にいる誰もが返事をするよりも先に、扉は開いた。
「まって、アル……!」
せっかく綺麗な化粧をしたのに、それを覆い隠すマスクをして現れたエレオノーラ様が立っていた。久々に部屋の外に出たせいか、慌てて来たせいなのか、相当息も乱れていた。
それに呆気に取られたのか、驚きすぎて頭が白くなったのか。真偽は不明だけれど、ギョッとしたようにクラウゼン子爵は硬直してしまった。
対照的に、私は咄嗟に動いていた。
「エレオノーラ様、まさかここまで走って来たのですか?ダメです、今の貴女は……!」
「っ、でも、わたしっ……ちゃんと、わた、わたしが、言わな……っ」
そこで限界を迎えたらしく、エレオノーラ様は大きく咳き込む。膝をつく寸前でエレオノーラ様を支えると、扉の外にいたリザも駆け込んできた。
「すぐにお水をお持ちします」
「お願い。深呼吸して、ね。ゆっくり、ゆっくり……」
エレオノーラ様をすぐ近くのソファに誘導すると、重苦しい空気は霧散した。
「――クラウゼン子爵」
正確には、凛とした声が全てを壊した。
さっきまで突っ立ってるだけで何の役にも立たなかったのが嘘みたいな、ヴァルハルト辺境伯だった。
「お会いした時にお話しした通り、彼女に姉のことを頼んだのは私の一存です。彼女の行動の責任は全て私にあります」
最初こそ石と化していたクラウゼン子爵だったが、ヴァルハルト辺境伯の言葉を聞くなりまた険しい顔に戻った。
「――っ、しかし、君も騙されているのではないか……!あの令嬢は、リネット・ミミックは!王都で盗みを起こした挙句、婚約破棄までされたのだぞ!彼女を信じるなんて……!」
「私は、彼女を信じていません」
「はあ!?」
最後の叫びは私のものだった。クラウゼン子爵の言い草も相当だが、何で貴方がそこで「信じてます」って言わないのよ、と思わず本音が声になってしまった。
水を持ってきたリザが「はしたないですよ」と呟こうと、知ったことではない。
碌な説明もしない上にこの言い分、思わず手をグーにする。場合によっては私が今すぐにヴァルハルト辺境伯の胸ぐらを掴まなくてはいけなかったからだ。
「ですが、彼女が今日まで見せた行動と成果は信じています。彼女は五日、逃げることもなく毎日姉の世話をした。その上、神官や魔術使いにもできなかったことを成し遂げた。だから、約束の二週間を待つだけの価値はあるとは思っています」
そして、ヴァルハルト辺境伯は頭を下げる。
「私の説明が足りないばかりに、貴方には大変不快な思いをさせてしまいました。申し訳ありません」
「……そ、な、君が頭を下げるなんてことはやめてくれ!私は君を弟のように思って、こんな、こんなのは……!」
「――アル」
すると、息の整ったエレオノーラ様がゆっくり立ち上がる。オロオロとし始めるクラウゼン子爵は、さらに顔を青くする。
「あ、え、エレオノーラ、ダメじゃないか。今の君が部屋を出るなんて」
「アル、いえアルベルト。お願い、私の話を聞いて。ごめんなさい、さっきは言えなくて……」
「何の話だい。それよりもそんな頓珍漢な物をつけていないで、君は部屋に――」
「私ね、あの香油の匂いが嫌いなの」
私に負けない真っ向ストレートな発言に、場の空気が凍りついた。今日一番の冷えっぷりだった。私もリザも、ヴァルハルト辺境伯もぴしりと固まってしまった。
なんなら、クラウゼン子爵は今度こそ氷になってしまったかのように、びくとも動かなくなった。
「え、エレオノーラ……?」
「貴方が私のためを思って用意してくれたから使っていたけれど、本当の本当に、大っ嫌いだったの。毎日頭がおかしくなりそうだったわ」
「あ、え……?」
クラウゼン子爵の唯一動く口すら、もはや音を発するだけになってしまっていた。
ふるふると震える手足に、青を通り越して土気色にも見える顔色。それを見たら、流石の私も溜飲が下がるを通り越してばつが悪い。
なんかもう可哀想というかやめてあげてほしい。血も涙もないはずの私ですらそう思うほどに。
……というか、もしかして。エレオノーラ様って、ご病気で弱っていただけで、実は相当気が強くていらっしゃる?
「あ、そんな……え、わたしは、きみを、おもっ……え?わたしは、え?」
今度はクラウゼン子爵が膝をつく番だった。それに駆け寄る人は誰もいない。正確には、一人を除いて。
その原因になったエレオノーラ様だった。
「でもね、アル。貴方が私を想ってくださる気持ちは嬉しいのよ。だから、もう怖い顔はしないで。いつもの優しい、笑顔のアルに戻って、ね?」
「あ、ノーラ……、わ、わたしは、きみに、ひどいことを……こんなわたしでは、きみを……わたしをきらいに、ああ……!」
「いいえ、私は貴方を愛しているわ。貴方と同じように。だから、そんなに泣かないで、お願い……」
「っ、ノーラぁ……!」
クラウゼン子爵はすっかり赤ん坊みたいに泣き喚きながらエレオノーラ様の膝にしがみついているし、エレオノーラ様はそんなクラウゼンの頭を撫でて「よしよし」と微笑んでいる。
……なんだこれ。高熱の時に見る悪夢みたい。
リザと、ヴァルハルト辺境伯、それぞれと目が合う。目配せするまでもなく、極力音を立てないように部屋を出たのは言うまでもなかった。
*
「……すまなかった」
これが、案内された別室での第一声だった。ヴァルハルト辺境伯は気まずそうに俯く。いつもの凛とした目が嘘みたい。
私はリザが用意してくれたお茶を飲みながら、大きくため息を吐いた。
「わかってるならいいわよ、まったく」
「……言い訳かもしれないが、弁明の機会だけでも貰えないだろうか」
「ええ、どうぞ」
「クラウゼン子爵は、姉が元気になったと伝えるなり、部屋に走ってしまわれて。それで話が……」
「あら、人のせいにするんですか?私は言い訳せずに貴方とエレオノーラ様を庇ったのにねえ」
途端に、うっとヴァルハルト辺境伯が露骨に声を詰まらせる。
まあ、この元騎士様が嘘をついているとか、クラウゼン子爵に罪を擦り付けようとしているとは思っていない。想像の倍は不器用な性格らしいのは、今回の一件でよくわかった。
それに、せっかく美味しいお茶を飲んでるのに、味が悪くなるような真似はしたくなかった。
「うそ、言い訳なんて思ってはないわ。それに、クラウゼン子爵から見た私のイメージは最悪でしょうし、子爵の立場から見たら当然のことではあるのよね。根拠のない小娘が、貴方を誑かしたと取られても文句は言えないわ」
「それは君のせいじゃない。俺の説明不足だ」
「でも、私のイメージがもう少し良ければ、あるいは私が神官や魔術使いなら、あんな頭ごなしに子爵は責めるわけないもの。まあ私のせいなんですよね、全部」
正確には私に罪をなすりつけたオスカー様のせいなのよね。その辺の埋め合わせと落とし前は、私が名声を取り戻してからしっかりつけさせてもらうこととして……。
なんて考えていると、捨てられた大型犬みたいな顔でヴァルハルト辺境伯は私を見ていた。
「確かに、君は令嬢とは思えないほど礼儀知らずだし、血も涙もないし、考えも甘いとは言わざる負えない」
「ちょっと」
「……でも、君が物を盗むような人間には見えていない。少なくとも、俺には」
真剣な面持ちに、真っ直ぐな言葉。
その響きで、ヴァルハルト辺境伯の意図をようやく理解した。
「……もしかして、慰めてるつもり?それで」
「事実を言ったまでだ」
「それは事実じゃなくて主観。だいたい、貴方は私を信頼はしてないんでしょう?」
「ああ、してない。でも、してもいいとは思ってる」
「……なによ、それ」
そう言ってるうちに、だんだんなんだか気が抜けてきた。それは辺境伯も同じだったらしい。さっきまでの顔が嘘みたいに、ぷっと笑っていた。
「ほんと、可愛くないですね。こういう時、もっと素直にうまくやれなくてごめんねって謝れないの?」
「君こそ、落ち込む振りはもっと上手くやったらどうだ。俺がもっと謝りたくなるくらいに」
「あら、淑女が泣く方が良いなんて、いい趣味ね。元騎士様とは思えないわ、ヴァルハルト辺境伯は」
私がそうやって揶揄うと、途端にヴァルハルト辺境伯はぶすくれた仏頂面になる。
てっきりすぐ皮肉が返ってくると思ったのに。
そんなにショックだったの?
ヴァルハルト辺境伯はどこか思案するようにしばらく口を手で覆っていたが、これまたさっきの私に負けない大きなため息を吐いた。
「……グレンで良い」
「はい?」
「君にいくら辺境伯と呼ばれても、敬われている気がちっともしない。むしろ腹が立ってくる。もう普通に呼んでくれた方がマシだ」
「そんなこと言われても困ります、殿方をそんなふうに呼ぶなんて……」
これでも一応令嬢の立場だ。婚約者でもない相手を名前呼びなんて、リザじゃなくとも「はしたない」と言うだろう。
私が首を振ると、ヴァルハルト辺境伯は鼻で笑った。
「今更気にすることでもないだろう。君が散々俺に言った暴言の方がよほど問題だからな」
「そういう問題?」
でもまあ、確かに今更か。はしたないのも、失礼なことも、散々してきた。この人に初めて会った時から。
それにヴァルハルト辺境伯って、確かに長くて呼びにくいし。
私は観念して、そっと囁いた。
「……グレン様?」
そう言うと、途端に灰色の不思議な瞳が険しくなる。
それは、決して打ち解けたとか、喜びに満ちた表情ではなかった。
「……グレンで良い」




