5.私、今度こそ働きます!
要塞のような分厚い扉が閉まると、まるで閉じ込められたような錯覚を起こす。
入るなり、目の前に並ぶのは、色とりどりの視線。私に突き刺さる瞳は、もはや突き抜けて腹を破るようだった。
頭こそ下げていたが、私がここで歓迎されていないことは気配ですぐにわかった。
そりゃそう。いくら主人の命令とはいえ、余所者かつ無礼者の令嬢が、訳のわからないルールを押し付け、この屋敷で、好き放題しようとしているのだから。
でも、その敵意も、不信感もまとめて飲み込む。本音を言うと今すぐ逃げ出したいけれど、今回ばかりは逃げるわけにもいかない。
なにより、本当の孤独ではない。リザの、変わらないクールな横顔。それが今は頼もしくて、ほんの少し安心していた。
私は覚悟を決めた。ごくりと唾を飲む。
そして、ゆっくり頭を下げて、膝を折る。
「――リネット・ミミックでございます。本日から二週間、お世話になります」
そう、ヴァルハルト邸で、私は賭けに出る。単なるナイチンゲールごっこで終わるのか――そんな自分の命運を賭けて。
……それはそれとして。
――不利な勝負よね、ほんと。やってられないわ。
包み隠さず本音を言うなら――あの男の、無駄に整った顔にビンタの一つくらいくれてやりたかった。
頭を下げながら浮かぶのは、あの日のやりとりだった。
*
「――チャンスをやろう、リネット嬢。もし君が言う『清潔』を実践し、我が姉とその子供の体調を改善させることができるのなら、君の考えを受け入れてもいい」
姉、子供、体調。
処理が追いつかない。とりあえず振り上げかけた拳を膝に戻す。首を傾げていると、見かねたようにヴァルハルト辺境伯が口を開く。
「俺の姉さん……エレオノーラはクラウゼン子爵に嫁いですぐに子を産んだ。ただ、母子共に産後の体調がずっと芳しくない。住み慣れていない王都より、実家で療養した方が良いだろうと、クラウゼン子爵は言ってくれたが……」
「……王都から戻った今も?」
「ああ、変わらない」
その話を聞いて、ぴんと思い出す。
エレオノーラ・ヴァルハルト――正確には、今はエレオノーラ・クラウゼン。
彼女のことは、社交場でも話題になっていた。
社交界に殆ど出ることもなく、すぐに妊娠したこと。そして、そのまましばらく音沙汰がないことも。
私は、そもそも両家とあまり繋がりがなかった。両親も、なんならオスカー様も、とにかく人を近寄らせたがらなかったから。社交界でも私は常に誰かがそばにいて、最低限の交流しか許されていなかった。だから、私はそもそも噂話に強くない。
ただ、今回のことに関しては、私のリサーチ能力のせいではなかったみたいだけれど。
「エレオノーラ様と、お子様の体調が優れないということですが、具体的な症状は?」
「姉さんは、一度良くなったと思えば、熱を繰り返している。風邪のように咳が止まらない。ろくに食事も取れずにすっかり痩せてしまった。俺にとっては姪に当たるリリィもそうだ。熱を出して、よく吐いてしまう」
繰り返しの発熱、咳、食欲低下。
……だめだ。それだけじゃ全然わからない。
病状としては普遍的過ぎるし、特定が難しい。もちろん、実際に会ってみないことにはなんとも言えないところではあるけれど。
「ちなみに王都の魔術使いには?王都なら治癒魔法が得意な者も多いはずですけれど……」
貴族が診てもらっていないわけがない、とは薄々思っていても、つい聞いてしまった。
案の定、ヴァルハルト辺境伯は首を横に振る。
「残念ながら。王都の魔術使いも、セヴランやマルガが往診に来ても同じだ」
……まあ、それはそうよね。
これで良くなるのなら、そもそも私の出番などいらない。いくらでも王都から、あるいはこの地に派遣されている魔術使いを呼べばいいだけなのだから。
私は顎に手を当てながら、ヴァルハルト辺境伯に問う。
「……ええっと、つまり、話をまとめると――私がお二人の看病をして、結果を出したら認める。こういう意味で合っていますか?」
「ああ、君の頓珍漢な提案くらいしか、もう良い案も浮かばなくてな」
頓珍漢なアイディア呼ばわりにムッとしたものの、その感情はすぐ霧散した。
ヴァルハルト辺境伯の自嘲した笑みを見たら、本当に藁にも縋る思いなんだろうとわかったから。
「……なるほど」
だから、真っ向から文句を言うことも、茶化すこともしない。それらしく頷いた。
頷いたは良いが、頭の中ではアラームみたいに次々考えが浮かんでくる。
……無理じゃない?
どう考えても無理難題じゃない……!
だいたい、熱の原因がわからないのに、良くするって何を。この国に抗生剤はないだろうし。
清潔にして、身の回りを整えて、栄養をつけさせて――そこまではできたとして、自己免疫で治るレベルなのかわからない。ましてや、エレオノーラ様の体調不良の理由によっては、時間が経つにつれ、もっと悪化するかもしれない。
この賭けに乗るのは、いくらなんでも分が悪い。こんなのは、難易度の問題じゃない。問題の設定自体が間違いだ。
私は顎に置いた手を膝に戻すと、まっすぐヴァルハルト辺境伯の目を見つめた。
「……エレオノーラ様が、私の“頓珍漢なアイディア”で良くなる保証はありません。それに、具体的なゴールというか、こう、ここを達成したらとか……それが無いと評価が難しいのでは?」
「ゴールなら簡単だ。姉さんとリリィの熱が出なくなる、それでいい。熱が下がれば、自ずと咳も落ち着いて、食欲も戻るだろう」
「いやいや、そんな簡単なことでは……!」
私が食い下がると、ヴァルハルト辺境伯はどこか意地悪に口を歪ませた。
「証明できなくて困ると言ったのは君だろう?」
「……っ!」
これは、さっきの私への意趣返しだ。絶対にそうだ。
カッと頭が熱くなり、地団駄を踏みそうになる。というか、実際に行儀悪く膝の上でべちべちとドレスを叩いた。そんな私を嗜めるように、リザが拳に手を重ねた。
それでも我慢できずに歯噛みすると、ヴァルハルト辺境伯はさらに畳み掛けてくる。
「それに、俺個人はともかく、領主としては君の夢物語に付き合う義理はない。君が無理だと言うのなら、この話はここで終わりだ。君はさっさと屋敷に戻って荷物を纏めたらいい。君の問題行動も、無礼な態度も、まとめてご両親に報告させてもらう」
「なっ……」
「さて、どうする?リネット嬢――選択は、貴方の手の中に」
そして、気障ったらしく、嫌味ったらしく、ヴァルハルト辺境伯は手を差し出してきた。その手を見て、自然と顔が引き攣る。
……誰よ、この人が優しい騎士の中の騎士みたいなこと言ったの!全然優しくないじゃない!
だけど、葛藤したところで私に選択肢はない。
正確には、あるのかもしれないけれど、この場で思いつくほどの逃げ道はない。
なにより――あの医療院の環境を放っておけない。 なら、やっぱりこれが最後のチャンスだ。
「……お嬢様」
リザは不安気に、私とヴァルハルト辺境伯の顔を交互に見ている。謝ったほうが良い、と目で訴えてくる。
わかっている。
でも――このまま逃げるのも、この男に頭を下げるのも、絶対に嫌だ。オスカー様とこの男に「貴方が正しかったです、ごめんなさい」と言わせてやる。
はーっと大きくため息を吐く。
そして、私は差し出された手を取ることなく、睨みつける。
「……わかったわ、詳しい話を聞きましょう。ただ、それより――まずはその手を洗ってからよ。最後にいつ洗ったのよ、その手!」
*
案内された部屋で支度していると、リザがぽつりと呟いた。
「売り言葉に買い言葉でしたね、あれは」
「うるさいわよ」
「今からでも謝罪した方がよろしいのでは?」
「嫌!ぜーったい、嫌!私、悪くないもの」
「……あの日のリネット様には悪い点しか見当たらなかった気がしますが」
ちくちくと、自称「私の味方」らしいリザの小言を聞き流しながら、着替えを済ます。
長い髪を一つに纏めてもらっていると、前世を思い出す。こんな風にお団子にして、綺麗にまとめていたなあと。
とはいえ、こんなに長いと流石に大変かも。
「……髪、邪魔ね。切っちゃおうかしら」
「絶対におやめください。ただでさえ、こんな下働きのような格好をしていると奥様に知られたら、卒倒します」
「ええ?悪くないじゃない、とっても似合うでしょう。ふふ、こういう私もかわいいわね」
リザが手伝ってくれた、私の新しい衣装。動きやすさ重視の半袖にズボン、エプロンに布マスク。大掛かりな掃除の時くらいしか使わないと言っていたものを改良した。
マスクの紐をきちんと結んだあとは、手洗い。石鹸を使い、手首や指の間、爪先まできちんと手洗いをする。
本当はアルコール消毒もあれば完璧なんだけど、流石にそこまで調達は難しかった。そもそも、この世界に手指消毒用のアルコールが流通していないようだった。
身支度を終えて外に出ると、廊下で待っていたヴァルハルト邸の女中はぎょっとした顔をした。
「え、あ……リネット様?」
「はい、今日からよろしくお願いします。早速だけど、エレオノーラ様の部屋に案内してくださる?」
「そ、そんな掃除婦のような格好で?」
私よりも一回りは年上の女中にも関わらず、明らかに狼狽していた。
隣のリザも同じような格好をしているのに、そりゃそうだみたいな顔をしている。なんでよ。私の味方らしい顔をしなさいよ。
私は笑顔を――と言ってもマスクで全く見えない笑顔を作って、袋からマスクを取り出す。
「もちろん、あなたたちの分もあるわよ?」
「ひっ……!そんなのつけられません!顔まで隠して、エレオノーラ様に無礼な……」
「――ヴァルハルト辺境伯から直々の命が出てるはずよ。少なくともこの二週間は、私のお願いは聞いて欲しいって」
そう、この二週間だけしかない。
私が自由にこの屋敷で振る舞えるのは。水も、布も、使用人への権限も。
「エレオノーラ様の部屋に入る時だけ、その部屋にいる時だけでも良いからつけてちょうだい。顔を隠す無礼に関しては、エレオノーラ様には私から謝るわ。なんなら、どうせ私が責任を取るんだから。ね、おねがい」
「……わかり、ました」
女中は、本当に渋々という感じでマスクを着けてくれた。マスクで顔を隠すとあら不思議、「この女、何かおかしなことをしたらすぐに主人に報告してやる」と言わんばかりの眼光の鋭さだった。
その視線にも、だんだん慣れてきた気がするわね。
私はしれっとスルーすると、案内された部屋に入る。
入った瞬間、聞こえたのはずっと止まらない乾燥した咳の音。
だが、それ以上に気になったのは――布マスクを貫通する臭いだ。
眉間の皺が一気に寄り、反射的に息を止める、
「……っ」
草っぽい強い臭いと、生乾きの洗濯のような臭いが混ざったような室内。
部屋の中心に置かれたベッドには、一人の女性。
ヴァルハルト辺境伯と同じような黒髪だけれど、彼とは違いすっかり艶がない。なのに、洗髪の頻度が少ないせいか妙に脂っぽかった。
本来は美しいであろう顔立ちはやつれており、顔色も悪い。まるで蹲るように前のめりの体勢で、ずっと咳き込んでいる。その女性こそ、エレオノーラ・クラウゼン――その人だった。
咳がようやくおさまる頃に、エレオノーラ様は私に気づく。
「あっ、あなた、が……グレ、ンから、きっ……」
話した途端、すぐに咳き込む。慌てて私は背中を摩った。
「っ、ごめ、なさ、こんな、っ、失礼を……」
「無理に話さないでください。それよりも、この臭いは……」
臭いの元を辿れば、エレオノーラ様の枕元のチェストに目が止まる。紫の花が飾られた花瓶の隣には、筒形の陶器があった。
温香器だ。確か、オスカー様の屋敷でも良く見かけたもの。あの屋敷では、常にこれで香を焚いていた。
……嫌な予感がする。
私は温香器を指して女中に問う。
「……これは?」
「アルベルト様が、エレオノーラ様に、と。滋養に効く薬草を煎じた香油だそうで、王都の薬師に作らせたとお聞きましました」
もうこの時点で頭が痛くなった。
滋養とかいう信頼できない言葉にも暴れたくなったし、呼吸が悪い人に香油なんて焚いている場合じゃない。
そもそも、それ以前に。この世界の衛生観念を考えると、この温香器も碌な扱いをされていないという確信はあった。
「……この温香器はいつ洗っているの?」
「中身が空になった時にです。貴重な香油ですから。無くなったタイミングで水洗いを……」
想像していたとはいえ、もう勘弁して欲しかった。私は頭を振る。
「もういい、わかったわ。エレオノーラ様、この温香器、触れてもよろしいですか?」
「え、ええ……」
エレオノーラ様の許可を得るなり、間髪入れずに蓋を開ける。途端に、臭いがむわりと強くなる。私もつい咳き込んでしまった。それくらい、ひどかった。
中身は陶器のコップのようなもの、下には温熱魔石が置かれていた。その熱で温められた香油入りの水が温まり、蒸気が出るのだろう。アロマディフューザーのようなものだとわかった。
ただ、それがわかったからと言って、何も嬉しくない。蓋の裏はいつのかわからない油か何かわからない汚れがついていたし、瓶の底も濁っている。これが薬草の香油のせいなのか、水のせいなのかわからない。
どちらにせよ、こんなものを置いておけない。
温熱魔石の止め方がわからないので、ひとまず温香器を寄せて、女中に押し付ける。
「はい、これを今すぐしまってくれる?」
女中はポカンとした。マスクをしていてもわかるほどに。
「……な、なぜ?これは旦那様が、エレオノーラ様のために……」
「咳が出てる人には不適切よ。あとこの花も。生花には見えない土汚れがついているし、虫もつきやすいわ。病人の部屋に置くものじゃないわね」
「っ、それもグレン様がエレオノーラ様を想って――」
「お花は元気になったらいくらでも可愛がれるでしょ。それよりも、エレオノーラ様に聞いたの?」
「なっ、なにを……?」
「これを、エレオノーラ様は好きだと言ったの?」
温香器を指すと、女中は黙り込む。
リザは明らかに「またやった」と言わんばかりに俯いていた。
ただし、こればかりは譲れなかった。
「貴方が立場上聞けないなら、私が聞くわ」
「っ、そんな。そんな失礼なこと――」
「エレオノーラ様、体調が悪い時におそばで騒いで申し訳ありません。ですが、一つだけ。貴女はこの香りは好きですか?」
私がそう問えば、咳き込むエレオノーラ様は戸惑うように目線を泳がせる。
「それ、は、アルが、わたしのため、と、っ……」
「ええ、それはわかっています。でも、匂いは生理的な問題で、かなり好き嫌いが分かれます。ましてや体調が悪い時では、好きな香りですら苦痛になる――だから、今答えて欲しいのは、この匂いの部屋が好きか嫌いか。これだけです」
私の問いに、エレオノーラ様はしばらく固まっていた。女中は完全に青ざめて、リザは硬く拳を握っていた。
正直、ヴァルハルト辺境伯から私のことを聞いていたとしても、初対面の相手に本音を話してくれるかは、わからなかった。
だけど、確信はあった。私が温香器を開けた瞬間――エレオノーラ様の眉間の皺が一気に増えたことも、明らかに顔を背けたことも、私は見ていたから。
しばらく見つめ合っていると、エレオノーラ様の大きな灰色の瞳が潤んだ。
それは大きな雨粒のように、ぼたぼたと、シーツに落ちていく。
「っ、わっ、わた、し……ごめ、アルが、くれたのにっ、わっ……ごめんなさ……」
泣くと余計に咳が止まらなくなる。私は枕元にあったクッションをエレオノーラ様に抱かせるようにして、前のめりの体勢に整えた。
背中を摩りながら、私は小さく語りかける。
「……クラウゼン子爵には私の方からお伝えします。もし子爵から聞かれたら、気が狂った令嬢が突然片付けたものとお伝えください」
「で、も、それは……」
「良いんですよ。どうせ私に失うものはもうあまりないので」
安心させるように笑う。
そして、呆然と立ち尽くしたままの女中とリザに、顔を向けた。
「あなたは温香器と花瓶を片付けて、エレオノーラ様の湯浴みの準備を。浴室はきちんと温めて、体と髪を洗うだけで、短く済ませてちょうだい。リザは今すぐ水の用意を。部屋に臭いが染み付いてしまっているから、壁や床も全部拭くわよ。エレオノーラ様が湯浴みに行っている間、シーツも布団も変えるわ。あと……」
私はそう言いながら、一番近い窓を開けた。そのまま次々と、目につく窓を全開にする。
一気に外の空気が入り込むと、重苦しい空気が少しだけ薄れる。
ようやくこの部屋で深呼吸ができた気がして、私も一息ついた。
「――窓、全部開けて。換気するわよ」




