2.私、働きます!
医療院の手伝いに行く前に、一つだけ懸念があった。
この世界の人間の体の作りは前世と同じなのか、という点だ。魔法が使えるという理屈を考えると、もしかしたら特殊な内臓があるかもしれない。
そう考えた私は、リザに本を取り寄せてもらった。
解剖学の本を読んでわかったのは、魔力は血液に含まれること。体外に出ると、血液が固まるタイミングで魔力も自ずと消滅してしまうということだった。
つまり、体の作り自体は前世と大きく変わらない。
だったら問題なし。あとは現場のローカルルールと空気に慣れるだけ。
これで安心して無双できる――そう思った昨日の私を殴ってやりたかった。
私が部屋に入ると、真っ先に見えたのは、何人もの赤ん坊。その体を拭く女中たち。部屋自体は他の場所よりも綺麗で臭いもきつくない――それでも、私は悲鳴を上げてしまった。
「――その壺の水で赤ん坊を拭くなんて正気なの!?」
同じ壺の水と使い回しの布で、複数の赤ん坊の体を拭いている――そんなおぞましい光景を見たら、叫ばずにはいられなかったのだ。
*
初日は大人しくしよう。
そんな殊勝な態度は、すぐに吹き飛んだ。条件反射だった。
私はつかつかと歩み寄ると、女中の手から布をひったくっていた。
「っ、きゃ……っ」
その声ではっと我に帰る。
「あ……」
……しまった、やってしまった。
でも、取り返しはつかない。なにより、この光景を「すみません私ったら、おほほ……」と誤魔化して逃げる気は起きなかった。
「っ、お手伝いに来たリネット・ミミックです。その、突然すみません。ただ……同じ水と布を使い回していることが気になって、つい……」
しどろもどろに言い淀む。
すると、女中たちは顔を見合わせ怪訝な顔をしていたものの、私の身分がそれなりであることに気付いたらしい。それぞれ頭を下げると、私を安堵させるように笑う。
「ああ、リネット様は初めてですから、驚かれたのですね」
「ご安心ください、この水はセヴラン様が毎日祈りを捧げ清めてくださったものです」
「……そのお水を汲んで、お祈りをしたのはいつ?」
「毎晩、消灯の直前に行われております」
「半日近くも前!?」
また大きな声が出てしまう。私の反応一つで女中を萎縮させるとわかっていても、堪えきれなかった。
そもそも、半日も壺に入れた水はもう清潔じゃない。まずはそれを伝えなくちゃ。
そう決意すると、私は大きく息を吸う。
「あのね、それは良くないと思うの。半日近く経った貯水で赤ん坊を拭くなんて」
「そんなことありません。ここができてからのルールです。赤子は神官様の祝福を受け、清めた水で体を拭く。この慣習で、健やかで頑丈なお子に育つのです」
お祈りのパワーがいくらすごかろうと、半日経った壺の水が百歩譲って清潔だとしても、結局は使い回しをしている時点で汚い。水も布も共有して使うものじゃない。
むしろあの世への片道切符を渡しているとしか思えない。考えただけでゾッとした。
「あ、その、どうしてもこのやり方じゃないと駄目なのかしら?ほら、時には改革も必要だと思うし……」
「そんな権限、私たちにはありません」
「そんな……」
私が何を言おうと、ただ、女中たちは壊れたおもちゃみたいに「それはできません」と返事をするばかりだ。とても私の話を聞いてくれる空気ではなかった。
これでは埒があかない。
私はもう一度お願いしようと、女中の一人の顔を覗き込む。そばかすのかわいい、私よりもずっと年下の女の子だ。
「り、リネット様?あの、なにか……?」
こういう雰囲気の子なら聞いてくれるかもしれない――そんな打算的な考えだった。
私と目が合うなり、彼女は途端にぽっと頬を染めた。
「そ、その……私、困ります……」
妙にもじもじと目線を泳がせ、瞬きが多くなる。どう見ても恥ずかしそうだった。
なぜ、そんな反応を。
一瞬わからなかったが、みるみるトマトみたいに赤くなる顔を見て、ようやく察した。
――リネット・ミミックの顔は同性にも通用するんだ……!
なら、利用するまでだ。
私は彼女の手をそっと取る。これまた「ひゃっ」と可憐な悲鳴を漏らし、いい反応をする。
どこか熱っぽく私を見つめる彼女に、そっと微笑んだ。
「うん、あなたたちの気持ちはとってもよくわかるわ。それなら、小さな器にそれぞれ水を分けて、布も一人に一つにしたらどうかしら?それなら神官様の祝福も受けられるし、とっても良いことだと思う。ね、どう?」
「でっ、ですが……清潔な器も布も貴重なものです。それに、セヴラン様が清められた水を私たちが分けるなんて、ばちが当たります……」
「セヴラン様には私から言ってみるわ。器はともかく布なら私の家にたくさんある筈だし、いくらでも寄付を――」
私が捲し立てて口説き落とそうとした、その時だった。
「――どうしました、騒々しい」
鋭く、厳しい声。ぴん、と針金が背中に通ったような錯覚を起こす。
私もそばかすの彼女もばねのように顔を上げると、そこにいたのは、五十代ほどの女性だった。
すり鉢のように細く、背筋の伸びた背中に、鋭い目つき。隙のない身のこなしは、私の家庭教師に似ていた。
いいや、正確にはもっと近い存在を知っている。その記憶が重なるのは、前世の方だ。私の職場の主任――あんまりにも雰囲気がそっくりだった。
新人が質問に答えられないと、すぐに叱責が飛ぶタイプ。患者の前では笑顔なのに、若いスタッフにはにこりともしない。その威圧感に、前世の私が何度泣いたか。
その記憶が甦り、嫌な汗が背中を伝う。
まずい、このタイプは苦手だ。なにより勘でわかる。この人に見つかってはいけなかった、と。
長いものには巻かれろと言わんばかりに、今度は私が頭を下げる番だった。
「り、リネット・ミミックと申します。この度は、初めまして、その、お手伝いに……」
「……ああ、あなたが」
どこか意味深な、含みのある響き。しかも値踏みするような視線に、さらに身が縮こまる。
「わたくしは、マルガ・アイヒナーと申します。ここの責任者で、産婆長の役を仰せつかっています。先ほど産気づいた子がいましてね、挨拶が遅れてしまったわ、ごめんなさい」
「あっ、はい、こちらこそ……ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
「それで、この騒ぎは何かしら。お聞かせ願える?」
「……っ」
鋭い声に息を飲む。咄嗟にうまく言葉が出ない。それは私だけではなく、この場にいる全員がそうだった。気温が五度くらい下がった気さえした。
こんな空気で、この場で、もちろん私の味方なんているわけもなかった。
女中の一人がおそるおそる口を開く。
「その、実は……リネット様が、赤子の体を拭くなといきなり仰って、私たち困っていて……」
「っ、違います。拭くなとは言ってないわ。あくまでも使い回しの水と布をやめた方が良いんじゃないかな、なんて……」
「根拠なくうちの女中に命じたの?あなたが?」
「め、命令なんてしてないわ、あくまでもお願いよ。それに、根拠ならあるわ……!」
このいかにも厳しそうなマルガ産婆長の前に立つと、新人に戻った気分だ。それこそ前世で主任に「根拠は?」「わからないの?」と冷たく突き放された時のように。
でも、今の私はやはり新人ではない。ピーン、とまるで天啓でも降ったかのように思いついた。
「そ、その……例えばなんだけど、汚れた床を拭いた雑巾を水に入れたら、水は黒くなるでしょ?その水で拭いたら、次の床は黒く汚れた水で床を拭いたことになるわ。つまりそれと同じことをしているの。生まれたばかりで、体が弱い赤ん坊に。それはちょっと、ね?」
我ながら上手い例えだと思った。これならイメージが湧くだろう。どうだ、とマルガ産婆長の顔を見る。
しかし、彼女は笑わない。なるほど、と感心することもない。ごめんなさい、と納得もしない。
むしろ眉間の皺は深くなるばかりだ。
「つまりあなたは、セヴラン様の清めの水を泥水と呼ぶのね」
その一言で、マイナス五度どころか、この部屋が凍りつく気配がした。心臓が一気に早くなる。さっきまでの比にはならない勢いで、汗が背中を濡らした。
まずい、これはまずい。本当取り返しがつかない。
慌てて、私は首も手も横に振った。それこそこんな激しい動きは、前世でも今世でもしたことがないってくらいの勢いで。
「ち、違います!そういう意味ではなく……!」
だが、私の存在など、もう部屋の隅の埃くらいにしか見えていないようだった。心底軽蔑したように目を細め、私に言い放つ。
「もう結構。あなたはここの手伝いをしなくてよろしい。他のところにお行きなさい。ただ、今日のことはセヴラン様にも報告はさせてもらいます」
「お願いです、話を聞いて……!」
「さて、皆もいつまで突っ立っているの。早く仕事に戻りなさい」
マルガ産婆長の一声で、その場にいた女中全員が、蜘蛛の子を散らすように仕事に戻る。
私がいくら話しかけても無視され続け、とうとう邪魔だからとマルガ産婆長に首根っこを掴まれ、追い出された。文字通り、物理的に。
ガチャン、と無常に響く音。鍵もかけられたのか、うんともすんとも言わなくなった扉。
私はずるずると膝をつく。
扉にもたれかかるように、項垂れることしかできなかった。
「どうして、こうなるのよぉ……!」




