1.私、追放されます!
「――リネット・ミミック!このオスカー・ローゼンハイムの名において、貴様との婚約は破棄とする!」
「……え?」
「貴様は、我がローゼンハイムに代々伝わる秘伝の香油の調合が書かれた本を盗んだばかりか、由緒正しい香油瓶まで……!しかもその罪をミラに着せるなど……!」
豪華絢爛な屋敷に響く声に、一瞬で会場が凍りつく。
本当だったら、私の婚約のお披露目パーティーのはずだった。
しかし、たった今、ここは私の断罪パーティーへ様変わりした。
ガーン、と頭に石でも落ちたような衝撃が走る。
だが、それは婚約を破棄されたからではない。
私ではない私の記憶――それが走馬灯のように浮かび上がったからだ。
看護師として働いていた私。
仕事に追われ疲れていた私。
そして、夜勤明けに階段から足を滑らせて間抜けに死んだ私。
そこから次々と襲いかかるように、記憶が噴き出してくる。その記憶の濁流に耐えきれず、とうとう膝をつく――筈だった。
……それどころではない違和感に、脳が真っ先に殴られた。
呼吸をするのさえ躊躇うような、匂い、臭い、におい――。
「……くっさ!!」
前世の記憶を思い出した私が絶望したのは、この世界の『臭い』だった。
耐え難い悪臭に、私が鼻と口を覆う。
すると、そんな私を見て、婚約者のオスカーは眉間に皺を寄せた。
「おい、リネット、貴様のその態度……自分がしでかした罪にようやく……」
「っ、それどころではありません、オスカー様。今すぐ換気をしてください」
「換気?何を言って……」
「これでは鼻が曲がってしまいます、息もできません。なんですかこの臭い、部屋に炊いた香油と、皆様の香水が混ざって最悪です!今すぐ窓を開けて!!」
私がそう言うと、ざわめきは一層大きくなる。
何を言っているのか、と。
リネット様はご乱心なされた、と。
もちろん、ここは貴族の社交場だ。ましてや婚約のお披露目の場というだけあり、私含めこの場にいる全員の身なりは完璧に整えられている。美しいドレスやタキシード、セットされた髪型、輝くジュエリー。
見た目の清潔感だけなら完璧なのに、体臭、香水、香油、食べ物の匂い――それが換気不足の部屋で大集合した結果、とんでもない悪臭になっている。
なんなら、私自身がとんでもなく臭い。花と柑橘系のような匂いと、髪や肌の脂の臭いが混じって喧嘩している。
令嬢らしさも忘れ、おえっと吐き出しそうになる私を見て、更にオスカーが詰め寄ってくる。
「貴様、罪を認めたくないばかりに悪あがきを……!それとも気でも狂ったか!」
「やめて、近寄らないで!」
オスカー様が近寄るたびに、香油と脂の混ざり物の臭いが濃くなる。じりじりと後退る。だけど、一向に誰も窓を開けてくれない。
我慢の限界だった。
私はとうとう耐えきれずに階段を駆け上ると、窓の一つを全開にした。
澄み渡る青い空、自然豊かな緑が目に入る。
窓から見えた爽やかな景色に安堵し、そこで大きく深呼吸――……。
「……こっちも臭い!!」
なんと、外は外で臭かった。前世で散々嗅いだ排泄物のような臭いが充満している。
見下ろすと、目の前にはトイレらしき小さな建物があった。その小屋から臭っているのだと気づいて絶望した。
「うそでしょ、信じられない……」
婚約者も、その隣にいる令嬢の顔もどうでもよかった。私のこれからの未来すら考えられない。それほどまでに臭い。
前世でも嗅いだことのない臭いにしゃくりあげる感触がした。限界まで締め付けられたコルセットのせいもあって、ひくひくと胃が引き攣り、とうとう堪えきれずに吐き出した。
「リネット様……!」
「リネット!」
従者と父親が私を心配して駆け寄ってくる。
その姿を見て、私は真っ先にこう叫んだ。
「――吐物に素手で触るんじゃないわよ!ばか!」
*
あのパーティーから二週間。
結論から言えば、私は婚約破棄され、辺境のヴァルハルト領に追いやられた。婚約者の家財を盗んだとかいう汚名を着せられて。おまけにパーティーでの私を見た貴族連中に「リネット様は罪を認めたくないあまり、気が狂ったのだ」と噂された。誠に遺憾である。
でも、嘆く両親を他所に、私はほっとしていた。あの臭い婚約者の家に住むくらいなら田舎の方がマシだろう。貴族社会のように融通の効かない場より、一部の使用人と田舎でスローライフなんて、最高だ。
実際、ヴァルハルト領は自然豊かで空気も澄んでおり、王都より香油や香水の匂いで溢れていない。畑の排泄物っぽい臭いは、肥料だろうと割り切った。
ヴァルハルト卿が用意してくれたという屋敷も悪くなかった。実家に比べたら二回りは小さいけれど、あらかじめ掃除をしてくれていたのか、部屋も庭も綺麗だった。
それに、私が信頼するメイド――リザは私の命じた通りに屋敷を整備してくれた。
あの日の予想通り、この国のトイレは水洗ではなかったし、毎日風呂に入る習慣もない。
そこで私は、まずトイレには蓋を作ってもらった。さらに使用人には、石鹸を使った手洗いと毎日の湯浴みを命じ、部屋の換気を徹底させた。
その上で香油の過度な使用を禁じると、屋敷の中はかなり快適になった。
これで、今の私にできることはない。社交界に復帰もできない私は、教養や嗜みなどゴミ箱に捨てた。
食っちゃ寝食っちゃ寝の生活を送るばかり――そんな私を見かねたのは、リザだった。
だらけた私と違い、隙なく一つに纏めたロングヘアに、フォーマルなクラシカルメイド姿に糸くず一つない。
動く人形と言われても納得しそうな美貌でありながら、リザはその端正な顔を少し歪ませた。
「……リネット様、いくらなんでもこんな生活を続けるのは流石にはしたないと思いますよ。それに良いのですか、ヴァルハルト卿にご挨拶もせず……」
「いーのいいの、私みたいな罪人が顔を出す方が向こうにとっても迷惑でしょう?」
「……確かに、お嬢様の立場がこれ以上良くなることは難しいのは事実です。ただ、もっと悪くなる可能性はあります」
「そう?毎晩チキンとケーキが出てきて湯浴みができるならどんな待遇でも我慢するわ」
「それは厚遇です」
寝転がる私を見て、はあ、とリザはため息を吐いた。
リザからすれば、もはや怠惰を極めた穀潰し、実家の仕送りを使い果たす金食い虫の小娘にしか見えないだろう。
それ自体に胸は痛まない。前世では仕事中「帰りたい」「働きたくない」と事あるごとに言うくらい、怠惰だった。
でも――……。
「……ねえ、リザ。確かに今の私は暇すぎて、雲を数える以外やることがないわ」
今はこれが問題だった。
スマホはなく、SNSもない。この世界では、何かを楽しむためにはコストがかかりすぎる。そうなると、自ずと暇な時間が増えた。頭がおかしくなるくらい。
そんな私に、リザは淡々と提案する。
「でしたら、まずはヴァルハルト卿にご挨拶を」
「ええ、つまんない。却下。他には?」
「なら、教会の催しに参加してはどうでしょう」
「教会では何をするの?」
「親のいない孤児に食事を振る舞ったり、教会で讃美歌や文字の読み書きを教えたり、といったものがあります。淑女教育を受けたリネット様であれば十分可能です」
「んー……私は人に教えるのはあまり……」
「罪を償うという名目でもよろしいのでは?教会でのボランティアは」
その瞬間、あの悪臭を放つ腹立たしい元婚約者の顔が過ぎった。
反射的に、ベッドから起き上がる。
「リザ、私は盗んでないわよ!あの男があの女と結婚したくてやったことだって、あなたもわかっているでしょう?」
「ええ、わかっています。しかし昔のお嬢様ならともかく、今のお嬢様を見ていると……」
普段は歯に着せぬ物言いのリザが、眉間に皺を寄せ、言い淀む。
それはそう。前世を思い出す前の私は、虫も殺せぬ可憐な美少女だった。
絹のような金の髪、淡い紫紺の瞳、雪のような白い肌。柔らかな口調でふわふわと話す姿は、花に例えられていた。
その面影が今は見る影もないのだから、周りから「気が狂ってしまった」と言われてしまうわけだ。
実家の使用人の大半にも見放された。ここまでついて来てくれたのは、リザを含め片手でおさまる数の使用人だけ。
こうして私を嗜めてくれるリザは、口こそ辛辣でも根は相当優しい。
まあまあ、それはさておき。
「……本当にどうしましょう。持ってきた本も読み尽くしたし。いっそ町で走り回ってやろうかしら」
「それはおやめください。リネット様はただでさえ目立つのですから。それにヴァルハルト卿から『無闇に出歩かないように』と言付けがあったでしょう」
「……つまんないの」
まさか見た目が良くて損する日が来るとは思わなかった。
それにしても、外見だけは随分とアップグレードしたものだ。前世の私なら地団駄を踏んで羨ましがるぐらいに。
そんな今の自分の顔を窓越しに見つめ、ふと思いつく。
「……ねえ、リザ」
「はい」
「この辺って病院とかあるの?」
「もちろん。王都に比べると規模は小さいですが医療院が……」
「そこって手伝いを募集してない?」
「……お嬢様、まさか」
「そう、そのまさか。私、そこでならボランティアしてもいいわ。教会は性に合わないけれど、そこならまあやれなくもない気がするの。聞いてきてくれる?」
「……本気ですか?」
「本気の本気。見てなさい、私、結構できるんだから」
「……かしこまりました」
リザは怪訝な顔をしながらも、私のお願いをすぐに聞いてくれた。
出ていくリザの背中を見ながら、口の端を吊り上げる。
そう、私には打算があったのだ。
前世の知識があるなら、それを使ってチートにやり直したらいい。私が、ナイチンゲールになる。
この国は魔法を中心とした医療が発展しているものの、魔法で治るからこそ看護の技術はそこまでじゃないと見た。
しかも、私のこの美貌。
『私、なんかやっちゃいました?〜現代看護知識を持った可憐な美少女の私が無双〜』ができちゃうわけだ。
結果、名誉も挽回。あの婚約者が「看護の礎を作ったあなたの足を舐めさせてください」くらいの地位になったら――考えるだけで笑いが止まらない。
「はーっはっは!勝ったな……!」
にやけた口元を隠しもせず、私は屋敷に響き渡る声で笑った。
*
幸いなことに、こんな令嬢でも受け入れてもらえる程度には、医療院は人手が足りてなかった。
ヴァルハルト領の医療院は、王都に比べるとかなり古めかしい。
ただ、懐かしくもあった。病人や老人特有のものが混じるこの空気と、慌ただしさと静けさが入り乱れる環境が。
私は与えられた制服に着替えると、深く頭を下げた。
「――リネット・ミミックです。今日からよろしくお願いします」
令嬢とはいえ、濡れ衣とはいえ、私は罪人の立場だ。
ましてや、この世界の病院のシステムはまだわかっていない。教えてもらうこともたくさんあるだろう。そのためには、挨拶で好感度を上げておかねばならない。
本音は、制服のワンピースの裾が長すぎて不満しかないけれど。絶対いつかズボンタイプを導入してもらうと決めているけれど。
そんな私の腹の内を知らないせいか、あるいは外見補正か。空気だけでわかる。かなりの好感触だった。
初老のロマンスグレーの男性は、穏やかに微笑み返してくれた。
「ご丁寧に。私はここの院長を務めます、セヴラン・クラインと申します。では、早速ですが……産婆の補助に入ってくださいますか?」
「もちろんです!頑張ります!」
私は罪を贖う健気な元令嬢のふりをして、生まれたばかりの赤ん坊と母親の部屋に向かう。
久しぶりの現場に入ったせいか、ほんの少し息が苦しい。足も重い。
それはここの臭いのせいではなく、新卒で病院に入った時の記憶と重なるからだ。
だけど、今の私はあの頃の新人看護師ではない。やるべきことはわかっている。
一つは、ここでのルールを把握すること。
二つは、スタッフからの信頼を得るまでは「おかしい」と思ってもまずは飲み込むこと。
余計な口出しはしない。郷に入っては郷に従え。前世の記憶につられて出しゃばったら、出る杭は打たれる。それは前世で得た経験だ。
それに、産婦人科は学生の頃の実習でしか経験はない。自信はないから、とりあえず言われた通りにやろう――そう思った矢先、私はとんでもない光景を見て、悲鳴をあげてしまった。
「その壺の水で赤ん坊を拭くなんて正気なの!?」




