3.私、調べます!
びくともしない扉の前で項垂れ、立ち尽くす。やってしまった、と。後悔してももう遅い。
このままでは、マルガ産婆長から院長のセヴランに報告され、即座に追い出されかねない。出禁になる可能性も十分あった。
これでは私の『私、なんかやっちゃいました?〜現代看護知識を持った可憐な美少女の私が無双〜』計画が全て水の泡だ。単なる気狂い令嬢が医療院で暴れただけになってしまう。
何か、なんとか名誉挽回の機会を……!
そう思ってうろうろとしていたら、不意に大きな洗濯物の塊が目の前を通った。汚れた布を懸命に運ぶ、小柄な女中。今にも転びそうな、よろける彼女に声をかける。
「あっ、あの……!」
「は、はい?」
布のせいで顔が見えないせいか、騒動をまだ知られていないせいか。なんにせよ、相手は私の立場や身分にも気づかず、あっさりと返事をしてくれた。これ幸いと私は籠の持ち手を掴んだ。
「手伝うわ!一人だと重いでしょう?」
「あ、でも、あなたの持ち回りは――」
「だ、大丈夫!ちょうど今少し手が空いたの。ね、ぜひ手伝わせて!」
このままだと追い出されそうだから、という本音は洗濯物に吸い込んでもらった。
女の子は逡巡する気配こそあった。
でも、ガッチリ握って離さなかった私に根負けしたらしい。
「……じ、じゃあお願い」
ようやく顔の見えた彼女は、背丈こそ低いが、顔立ちは想像よりも大人びていた。
健康的に焼けた肌に赤髪のボブカット、凹凸が服の上からもわかる体つきから、もしかしたら私よりも年上かもしれない。
活発そうな雰囲気だが、今は私にどこか引いていた。
「ありがとう、助かるわ!」
「え?なぜあなたがお礼を……」
「い、その、大丈夫。えっと、お名前は?私はリニー」
話を逸らす目的もあったし、私の立場を知られたくないという本音もあった。『リネット・ミミック』の名前を出すと、手伝いに来た令嬢だとバレてしまうからだ。
「あ、アタシはエルナ……」
「エルナ、よろしくね!それにしても一人でこれだけの量なんて大変じゃない?」
「まあ大変だけど、もうすっかり慣れたよ。それにアタシみたいな赤髪の行き遅れに仕事をくださるセヴラン様には感謝しかない」
「行き遅れ?」
「見ればわかるだろ。私、もう二十二で、なのに結婚できないの。あーあ、リニーが羨ましいよ。金髪なんてさあ」
私はエルナの話を聞いて呆然としていた。
貴族に赤髪が生まれると養子に出される、という噂は前世の記憶を取り戻す前から知っていた。王家に楯突いた一族の末裔だから、なんて。
そんなの単なる噂か都市伝説だと思っていた。よく考えたら、貴族には赤髪の知り合いはいないというのに。
軽口の中に含まれる本音に、ずしんと胸が重くなる。私の無知さも、何も知らない愚かさも、現実の見えていない甘さも。
私に言えるのは、これぐらいだった。
「……セヴラン様はすごい人なんだね」
「うん、もちろんだよ!アタシみたいな赤髪だけじゃない、身寄りのない女子供に仕事を与えて、賃金を下さる。本当に頭が上がらないよ」
その瞬間、頭を掠めたのは、女中たちの困惑した顔と、マルガの冷たい瞳。
彼女たちが清めの水を壺から分けることを嫌がる理由も実感した。泥水呼ばわりするのね、と私を軽蔑したマルガの言葉の意味も。
最初こそ、セヴラン神官はこの地の権力者、と決めつけていた。彼を丸め込みさえすれば、話は早いと。王都では神官は魔術使いや魔術師に比べ地位が低いから、私もどこか見くびっていた。
だから、私が正しいことを言えば伝わるんじゃないかって。
でも、そんなはずない。あの人は信頼されているのだ。ここで働く人たちに。
顔が熱いのに、籠を持っている指先が冷たくなる感覚がした。
……異世界チートで無双しよう、なんて思っていた自分が恥ずかしくなった。
しばらくはぼんやりとしたまま、エルナに曖昧な返事をしていた。そのうち、気づけば洗い場について――また愕然とした。
一面の布、布、布。それがこんもり山盛りになっている。
ただ、それは布と呼ぶべきなのか、雑巾と呼ぶべきかわからないほどよれて、擦り切れているものも多い。それが無造作に置かれていたり、野晒しに干されたりしている。
私とは違い見慣れた光景なのか、エルナはテキパキと洗濯の山を洗い場に放り込む。
「ほら、リニー。早く洗わないとダメだよ。夜までに乾かなくなっちゃう」
「あっ、うん……その……ここにあるのは、体拭きの布よね」
「もちろん、みんなの体を拭いたり、傷から出た膿や血も拭くんだ。リニーは洗濯係はやったことなかった?」
「え、ええ、その仕事は、まだ……初めてで……その、こんなにたくさんあるんだなってびっくりしたの」
本当に驚いているのは、布の量ではなくその質だ。しかも聞き捨てならないことに「血や膿も拭く」とエルナは言っていた。
実際、布の中には血がついたものや、排泄物が付着したものが混じっていた。つまり清潔用と不潔用の使い分けがされていない。
「ほら、ちゃっちゃとしないと!リニーは丁寧すぎるよ、それじゃあ時間までに終わらないじゃないか」
「はっ、はい!」
手袋がないことにかなり抵抗があった。
思わず恐る恐る布を摘んだらエルナに叱られて、慌てて洗い始める。素手で触るなんて気が狂いそうだった。
目に見える汚れが取れたらおしまいと言わんばかりに、エルナは手早く済ませる。洗い終わった布は、さっきまで不潔な布が入っていた籠に戻している。
もうこの時点で何もかも手遅れな気がしていたが、悪足掻きのようについ質問していた。目の前の現実を信じたくない。もはや現実逃避に近かった。
「あっ、その……この洗濯物は後で煮沸消毒とかするの?」
「シャフツ?」
「ええっと……煮るの。お湯で」
「まさかあ、食べないのに?それにご覧、汚れなら落ちたじゃないか」
「……そ、そうね」
口に入るものは気をつけるんだ……。
いやまあ、それすらおざなりだったら、私はとっくに食中毒で死んでる。
私が看護で無双どころか、根本的に何もかもが違う気がする。それをどうにかしない限り、話にもならない。
今日一日だけで、そんな予感はしていた。
*
リザとは今朝別れたばかりなのに、もう昼間には顔を合わせることになり、気まずいことこの上なかった。
えへへ、と誤魔化すように笑ったところで、リザの薄水色の瞳は氷のように一層冷たくなるだけだった。
「……お嬢様、何をやらかしたんですか」
「どうして私がやらかした前提で話をするの。セヴラン様に『リネット様もお疲れでしょう、明日からはこちらも人手は足りてますので』と言われただけよ」
「それを出禁と言うのです」
「わかってるわよ、それくらい。あと、迎え、ありがとう。ごめんね、こんなに早く来させちゃって……」
私が謝ると、リザは小さくため息を漏らす。
ただし、私がここ最近では珍しくしょんぼりしているせいか、それ以上咎められることはなかった。
「ひとまず屋敷に戻りましょうか。お嬢様の言いわ……お話はあとでゆっくり聞きます」
「あ、待って。帰る前にお願いがあるの。本屋さんに寄ってくれない、ね、お願い」
私が手を合わせて頼み込むと、リザはこれまたため息をついて、わかりましたと返事をしてくれた。
もちろん私だって、何も成果を得ずにむざむざ追い出されたわけではない。
洗濯を手伝い彼女と別れたあと、私はこっそり一人で院内を散策した。お陰で、よくわかった。
用途が区別されていなさそうな布が置いてある倉庫、蓋がなく奈落の底のように深い汲み取り式トイレ、窓のない部屋。
女中は目に見える汚れがない限り手洗いをしていないし、シーツを取り替える頻度も決まっていなかった。
目に見えない汚れは問題ない、それが共通認識のようだった。
もう少し詳しく――そう思ったあたりでセヴラン神官に見つかってしまったのだけれど。
でも、収穫は十分あったと思う。少なくとも私はもっとこの国のことを知らないと、何も始まらない。そのための本屋だ。
そう思い、リザを連れて本屋に向かう。地方の医療院だから、まだ遅れてるだけかもしれない――そんな一抹の希望を抱いて。
しかし、ここでもまた愕然とした。当たってほしくない予想の方がよく当たる。
本屋をいくら見ても、医学書はあるのに、清潔観念に関する本がない。
なんとか探し当てた『生活の知恵』という本には、近しいことが書いてあった。
ただし「肉に火はよく通しましょう」「酸っぱい匂いのする食べ物は食べない」「暑い場所だと食べ物は傷みやすい」「汚れたら洗いましょう」――たったそれだけだった。
思わず本屋で立ち尽くしていると、見かねたリザが私の肩を叩く。
「リネット様、何かお気に召す本はありましたか」
「いや、欲しいけどないというか、ないけど欲しいというか……」
「また訳のわからないことを仰って……。最近のリネット様はそんなことばかりですね」
「その、そうなんだけど……」
私は本当に何も知らなかったのだ。
前世の記憶が戻る前の「リネット・ミミック」の記憶はある。私は淑女教育を受けたし、学問に関しては一定の教養を修めるよう厳しく躾けられた。
この国の成り立ちも、政治体系も、名産品も、税収も、知ってる。
――そう、貴族のお嬢様に必要な知識だけしか知らない。ローゼンハイム家に嫁ぐ、可憐で虫も殺せない、花のような令嬢が知るべきことだけを。
私は本を本棚に戻すと、そっとリザに問いかけた。
「……リザ、聞きたいことがあるの」
「どうされましたか?」
「私、あなたにお願いしたわよね。使用人は毎日湯浴みをして、トイレの後や食事の前後は必ず手を洗ってって。どう思っていたの?」
「お嬢様のご命令ですから、その通りにしました。何が問題でも?」
「……私が命じなければ、あなた個人ではしない?」
「……そう、ですね。しません。水が勿体無いですから」
リザは少し言い淀むような口ぶりだった。それは「水が貴重だから毎日の湯浴みを諦めている」雰囲気ではない。
水が貴重だから仕方ないとか、香油や香水の使い方が悪いとか、会場の人が多かったとか、換気をしていなかったとかだけではない。貴族令嬢に仕えるリザのような立場でも、それが当たり前という認識だ。
そもそも、婚約破棄を受けた時に実感していたではないか。
臭い、と。
私だって前世の記憶を取り戻すまで、湯浴みなんて週に二回程度だった――そんな記憶もぽろりと溢れた。
つまりこの国自体が「そう」なのだ。
私はまるでリザに縋るように袖を引いた。
「……で、でも、ね、すっきりしない?毎日体を洗うの。洗わないと違和感が出るようになってるでしょう?」
「確かに爽快感はありますね」
「でしょ!なら……」
「ですが、毎日湯浴みができるのは、リネット様が貴族だからです」
きっぱりと言い切られて、また頭をガツンと殴られた気がした。
「あと、使用人の数が少ないからこそできる贅沢ですね。水は配給制ですし、薪も貴重です。それに、神官様が浄化した水を湯浴みで無駄遣いしていると知られたら、落ちようのないリネット様の地位がもっと悪くなりますね」
リザの容赦のない言葉にいよいよ頭が痛くなってきた。
つまり、この国の衛生観念の問題はもう単なる水資源や生活習慣の問題だけで済まない。尊い人が清めた水を無駄遣いしていると認識される。こんな宗教的な理由も絡んでくるなんて夢に思わなかった。
これでは私が清潔な布を寄付したところで何も変わらない。
ふらつく私を、体調が悪いと判断したらしいリザに支えられる。
そのまま「今日はもう帰りましょう。屋敷でゆっくりお休みください」と馬車に乗せられる。
がたん、がたん、とお尻が痛くなる揺れ。私の脳みそごとシェイクされる。
だけど、頭が痛いのはそのせいではなかった。
……想像以上に根深い問題だった。私一人では、どうもできない。異世界チートで私がナイチンゲール!なんて甘いものではなかった。
正直、かなり心が折れかけていた。いっそ、見て見ぬ振りをして、暮らすこともできる。これでも貴族令嬢だから、そのうちほとぼりが冷めた頃に、両親の元に帰ることもできるかもしれない。オスカー様に着せられた偽りの汚名も晴れれば、白々しく「花の令嬢」に戻れる。
そう、何も知らなかった頃のリネット・ミミックに。
でも、でも。
あの赤ちゃんたちを、放っておいていいの?
……ううん、その子たちだけじゃない。
使い回しの布と水で拭かれる姿も、使い回しのシーツに転がる怪我人も、さっきまで体を拭いていた不潔な布で傷口を拭かれるおじいさんも、吐物を素手で処理する女中も、次々に浮かんでくる。
結局、私は帰るなり寝落ちして、碌な結論を出すこともできなかった。
*
あれから三日、もはやため息をつくのが仕事なのかと思うくらい繰り返していた――そんな時だった。
一人の老人が屋敷を訪れた。もちろん、すぐにリザが対応してくれて、まあ私の出番はないのかと思いきや、すぐに呼び出された。
正装に着替えて部屋に入ると、立っていたのは見慣れぬ老人だった。
年齢を感じさせない大きな体躯に、口元には目立つ傷。使者というより軍人という印象のある男性だった。父親より遥かに体格のいい男性に、ほんの少しだけ肩がすくむ。
しかし、こんな私も一応令嬢。作法通りにドレスの裾を摘み、頭を下げる。
「――リネット・ミミックでございます。ようこそ、我が屋敷においでくださいました。支度に手間取り、お待たせいたしましたことをお詫び申し上げます」
「こちらこそ突然の訪問をお許しください。わたくし、グレン・ヴァルハルト閣下の使者として参りました」
グレン・ヴァルハルト――この地を治める辺境伯。その名前が出た時点で、すごく嫌な予感がした。ドレスを摘む指が震える。
それでも私は口の端を引き攣らせないよう、必死で堪えた。
「え、ええと……それで、今日はどのようなご用事で……」
彼は私の怯えに気づかないのか、それともわざと気づかないふりをしているのか。
口元の大きな傷をまるで見せつけるかのように、笑った。
「閣下が、ぜひあなた様にお会いしたいとのことです」
なんで私に会いたいの、なんてしらを切れるほど、私は鈍くない。
真っ先に思いついたのは、医療院のやらかしがセヴラン神官経由で伝わった可能性だ。
しかも私は、領地に来てから領主に一度も挨拶していない無礼者の令嬢。
……下手したら領地から追い出されるのでは。
――行きたくない。
「あ、え、そんな急に……、ほら、あの、私も……色々あるし……」
とうとう令嬢のガワも脱ぎ捨てて馬鹿正直に言えば、使者はますます笑みを深める。それこそ、口元の傷が大きく歪むほどに。
「ご多忙とは存じております。ですが、閣下は至急、今すぐ、リネット様との面会をお望みです」
「ほ、ほら、馬車も……馬も生き物だし……眠いかもしれないし……いきなり出すのは大変ですから……その……」
「わたくしどもの馬車がございます。お帰りも責任を持ってお送りしますよ」
逃げ道はなかった。
助けを求めるようにリザの方を見ると、プイっと視線を逸らされた。挙句に「自業自得ですよ」と声にせず言ったのも見えた。
とうとう我慢の限界だった。
「リザの薄情者……っ!」
「お客様の前で見苦しいですよ、リネット様」
「だって今あなた言ったでしょう!自業自得って!」
「ご安心ください、一緒には付いていきます。庇いはしませんが」
「庇いなさいよ!本当にあなた私の味方なの!?」
「私は常にリネット様の味方ですよ」
どの口が!と言いたくなるような薄情な私のメイドとの口論でいくら引き伸ばそうと――運命は変わらない。
こほん、と軽やかな咳払いで場の空気が静まる。
「さて、行きましょうか」
わあ、軽い。散歩かなってノリなくらい軽い。
私からすればそれは地獄への片道切符だ。
ここまできたら、前世でも使ったことのない言葉を、今こそ使うべきだろう。
悪役令嬢、リネット・ミミック――絶体絶命!
……なんちゃって。




