二 義姉妹と、李鷹②
碧陽門。
遠大な黄土の高原に、それはひっそりと存在しているのだという。
上からみた限りにおいては、とても市城がひとつあるとは思われない。だが、そのひとつひとつがあまりにも壮大なうねりは、降り立ってみれば、矮小な自身の考えがいかに浅かったかが解る。
山の頂上を吹き渡る風に、盈秋はいっそう袍の襟をかきあわせた。
寒い。だがどこか、どこか馴染む。
似た空気だ、と思った。ここはたった数年前までいた故郷ににている。
実際は、思うよりもずっと北辺にきていた。ならばこれは、彼女のなかに半分流れる血が、先祖の起居した大草原の近いことを伝えようとしているのか······
などと。大人ならばそんな感慨にも浸りそうなものだが。いかんせん若い彼女には、そんな郷愁の持ちあわせなぞない。不気味ながらも稀有な光景への好奇心で一杯だ。
ゆっくりと降下していく。と、なるほど。吹きっさらしの中に、たしかに石を積んだ壁らしき跡が遺っていた。
それらは谷側へと真っ直ぐに、斜面にそって延びており、間違っても人の手以外の力で出来たものでないことは明らかなようだ。所々崩れてしまってはいる。それでも降りたった盈秋の全身をすっぽり隠してしまえる程には丈がある。
どうみても、それは城壁だった。
「こんな所に壁があるだなんて······ずっと続いている。どれくらいの長さかな」
「上から見えた限りではずーっと。この山の頂上全体に延びてる。一列じゃない、何列かある」
風を撒き散らして人型にもどった桃霞が、袍にまとわりついた塵を払いながらこたえる。
「どう思う、姐様。これはやっぱり城壁?」
「たぶん」
でも、と桃霞は小首を傾げた。
「漢の······中原者の造ったものじゃない。それよりも、もっとずっと古い。昔この辺に漢人が沢山いたこともないはず」
「え、まさか。匈奴や鮮卑がつくったものだっていうの?」
もういちど、まさか、と繰り返して、盈秋は石壁をみつめた。
自身の記憶にある限り、父方の親族がこんな物を拵えたとは見聞きしたことはない。
漢への侵入を繰り返してきた一族にとって、「壁」とはずっと憎悪の象徴だった。恨めしく思ったことはあれ、自らが他者を締め出すために築くなど。
だが漢人の造ったものではない、という彼女の意見にも、一部うなずけるところはあった。
まず、どこにも住居跡が見つからない。
もちろん遺跡なのだから、とっくに崩れ去っていたとしてもなんら不思議はない。
だがげんに、石で出来た城壁はこうして遺っている。であるならば、おなじ築材を用いたであろう物が、いくつかは遺っていてもおかしくはないだろうに。
おそらくは共用の場であったろう──倉庫など──大型の跡はさすがに見てとれる。しかし、個々人が暮らした跡というものは、しばらく歩き回ってみてもやはり皆無だった。
(遺っていない、ということは。つまり、石以外のもので出来ていたということ? つき固めた泥土とか、木とか······あるいは窮櫨のように、毛皮も使って出来ていたのかな?)
盈秋はそんな想像を逞しくして遺構をながめみる。一帯に寂寥を漂わせる様は、充分にそんな想像を匂わせるものだった。
「ん?」
考えに浸りながら歩き回っているうちに、コツリ、となにか足先につっかかりをおぼえ、盈秋は足許をみおろした。
なにか転がっていた。
大きさは焚きつけに丁度よい枝程度か。それまでは地面に刺さっていたのか、そばの土が抉れている。ただの石ではないようだが。
意味ありげな様に、しゃがみ込んでよくよく注意して観察してみる。
「······これは、剣?」
それは一見、風化した石のようにもみえる。しかし──
石ではない。
気付いた途端、盈秋はハッと息をのんで後退る。
「──骨。これ······骨だ」
獣の? それとも、あるいは······いやいや、まさかそんなことはあるまい、と盈秋は自身のおぞましい予感をうち消す。
とにかくこれは石ではなく、なにかの骨ということに間違いない。なぜわざわざ剣の形に整えられているのかは判らないが。だが骨なら土中にあれば、何年だろうと遺っていても不思議はないかもしれない。このこともまた、桃霞の説を強めているように思えた。
「···うーん············駄目か」
しばらく歩き回り、粘って思案を繰り返してみるも、やはりどうにも手に負えないようだ。
「あっちにもっと大きな跡がある」
行ってみよう、とすこし離れていた桃霞が、大声で指をさして歩きはじめた。
「────」
チラ、と一瞬なにかを感じた気がして、盈秋は背後を振り返った。もちろんここは無人の境。誰も何もいるものではない。
きっと獣か何かだ。
気のせいだと思い直し、彼女は小走りに桃霞の後を追った。
後から考えれば、この時、異変はすでに始まっていたのだ。
石壁は谷側へとずうっと長く長く延びている。端まで行っていては刻がかかってしようがない。
適当なところにある切れ目を探して、よいしょとのり越える。風は変わらず休みなく吹き、ふたりの肌や袍をかすめて過ぎていく。それらがたてる音以外のものは聴こえず、あったとしても耳に届かない。
ときに桃霞にひっぱってもらったりして三、四度壁をのり越えた先にそれはあった。
「ふあぁ······」
盈秋は間抜けな声をだして、おもわず仰け反ってみた。
それはまるで城門のようだった。
いや、実際城門として使われていたのだろう。無数の石を、気の遠くなりそうなほど積みに積んで、隙間を泥土で埋めた石の門。
ただ、その規模が。とにかく桁外れだった。
彼女が目にしたことのある城門といえば、せいぜいが許都、譙、そして住まいする潁川の物くらいだが、これと比べてはそれさえも可愛く思える。
それ程に巨大な基盤をもつ支柱──といってもちょっとした庭ほどもある面積を四角く均したうえに建つそれは、ひとつの建物といっても良かろう──が、見合うに足るひろい間隔をたもって、左右にふたつ並んでいた。
残念ながら支柱部に渡されるはずの屋根部分は崩れ去っていたが、一部がかろうじて、頂点部分にとり縋るようにして遺っていた。
「こんなに大きな門、初めて······」
「うん、大きい。桃霞もこれ程の物は見たことない。長安······ううん、洛陽よりも立派だったかも知れない」
それほどに······
桃霞の言葉に、盈秋はあらためて呆気にとられて、しばらぬ城門跡をみあげていた。
いったいどれだけの立派な門だったのだろう。どれだけの人がここを訪れ、自分のようにして見上げたのだろう。
偉大なる残骸は、いま、ただしずかに風を受け、この都在りし日の栄華を讃えている。
「······ねえ。姐様」
「──しっ」
唐突だった。
おなじく頂上部分をみあげていた桃霞の目が、くっと見開かれた。視界で捉えるよりも早く、それまでうねる風がぼかし続けていた匂いが、彼女に警戒をうながしたのだ。
真剣な面で駆けよってきた桃霞に、盈秋も身を強張らせる。
「姐様?」
どうしたの、と言わせる間もなく、
「気をつけて盈秋っ」
桃霞は盈秋を背へと庇い、上方へと睨みをきかせ続けながら注意をうながす。
「──誰かいる」
「え?」
こんな所に人?そんな筈は。
盈秋は唇のあわいから疑問の呟きを漏らしながらも、姐にならって門跡の登頂部へと目を凝らす。
草原暮らしで鍛えられた視力は彼女にだって劣らない。流れゆく雲の灰色のせいで、いまいち捉え辛い。
だが······だが、そう、たしかに。なにか影がみえる。さらにその影が動いたことによって、それが人の形をしているのだと直覚した。
ゾワリと肌が粟立つのを覚えた。
こんな絶界に人? 桃霞と自分以外には獣さえ見当たらない場所に、人?
追いついてきた思考によって恐怖がより増していく。
ふいに。人影はたしかに此方をむいた。
ふたりの存在を認めたのだ。またもゾワリと肌が粟立つ。
逃げるか。それともやり合う覚悟をするか。
一瞬の判断を強いられた桃霞の緊張を嘲笑うかのように、影は口をきいた。
『○△□◇★☆▷◁▽♢♡✕?』
「······?」
いったいどこの言語なのだ。盈秋にはまったく理解出来なかった。漢語のようでもあり、匈奴の言葉のようでもある。
中原のものではおそらくないから、漢語であったとしても、何処か辺境の言葉なのか。だが桃霞をうかがってみても、変わらず困惑した表情でいる。してみると、まったく不明な言語なのだ。
通じていないとみたか、人影はこちらへとむき直り、声を大きくしてまた言葉を投げかけてきた。おそらく先程とおなじことを繰り返しているのだろう。が、やはりそれだけしかわからなかった。
こちらが反応にこまっていると、人影がまたわずか、身動ぎをしたようだった。盈秋にはそれが、さて困ったという風に首を傾げたように感じられた。
なおも人影は、懲りることなく語りかけてくる。先程とは違う言語だ。通じないとみるや、また違う言語。また。
そうしてひとつずつ試してみながら、六番目ほどに発した言葉が、ついに盈秋の耳朶を雷鳴のように鳴らした。
『やあこんにちは、麗しいお嬢さん方』
懐かしい匈奴の言葉! しかし随分と古い言い回しが含まれていて、理解できたのはそれだけだ。
『貴方、何者? 匈奴人なの?』
盈秋は反射的に匈奴語で呼びかけていた。
人影はハッと頭をあげたかと思うと、嬉しそうにポン、と両の手をうち、そしてなんと。
ふわりと高所から身を躍らせた。
あっ、と思ったものの、その影は風に飛ばされるでもなく、また無様に頭から直撃することもなく、あまりにも静かに、華麗に着地をきめてみせたではないか。そのことに、ふたりは目を丸くする。
その男、は、すらりとした身体に青灰色の、袖と裾のながい衣を纏っており、腰をほそい革の帯で締めていた。年頃は青年の風。
とおった鼻筋に柳眉。灰色がかった不思議な光をたたえる瞳と、涼しげな目元をもつ美顔の持ち主で、その爽やかな秀麗さは盤の大旦那にも負けてはいない。ただすこし、あつみの少ない唇が、どこか冷薄な感を与えてくる。
なによりも視線を奪うのが、すこし毛先の縮れた、長く風にたなびく金色の髪だ。まるで鋳冷ましたての青銅のような輝きを、わずかな陽のなかにしかと放っていた。
『ああ、良かった、やっ◀通じたね。すると♡♢は匈奴人かな? ○✕△?』
『···え、なに?』
所々にまだ通じていない。悟ると、男はちょっと面白そうに形のよい顎に手をやることしばし。
『ああ、□△▶●待っ✕◆くれる♢い?』
そういって、そっと盈秋の頭のほうへ上向けた人差し指をかざした。
桃霞がおい、と制止するところを、このままでは話が進まないからと盈秋は制する。
青年はそうしてしばらく目を瞑っていたが、腕を降ろしたと同時に、ふたたび爽やかに唇を開いた。
「どうかな? 意味は通じているかな?」
じつに流暢な漢語に驚かされた。
おそらく頭のなかを書物でも読むかのように読みとったのだ、と盈秋は直覚する。
わずかそれだけで言葉を合わせてきたということか。考えるまでもなく、そんな芸当、ただの人間に出来るはずもない。
「······あなたは何者? 仙人なの?」
「仙人? ······ああ、君たちでいう所の神様、かな。だとしたらそうとも言えるし、違うともいえる」
「?」
はぐらかされたように感じた盈秋が思考におし黙るうちも、男は風に触れるのを悦ぶように、両腕をひろげくるくるとその場で回ってみせる。その度に金色の頭髪が鈍く光をたたえた。
「ああ······君らには想像もできないだろうね。この私の爽快感を。こうやって動いて、羽をひろげるのはじつに数千年ぶりなんだ。風は変わらず吹いているのだね、ああ、よい気持ちだ······」
うっとりと腕に手をやり、愛しむように風にはためく袖をみつめた。
その華やかさは妙に際立っていて、艶めかしくて。
とても見つめていられない、と盈秋は視線を逸らした。
「······そう、名。あなたの名は? 私は蔡盈秋」
ぴたりと回るのをやめ、その麗男子はこちらをみた。
「名······名、とね。······うん、李鷹······李鷹だね」
「李鷹······」
「それで?そちらのお嬢さんは?」
李鷹となのった青年は、柔和な笑みを気さくに小仙女にもむけた。
「······桃霞」
問われて仕方なく、といった風に、桃霞もおのが名を口にする。相変わらず眉間を厳しくしているのは警戒を解いていない証だろう。
じっさい、李鷹とやらはいかにも胡散臭かった。
いったい何故、独りこんな所に佇んでいたのか。
口にした名もはたして真の名であるのかどうか。
だが、少なくとも話をする気はあるらしいとは判る。その分まだマシといえるが。
それでも事実、桃霞の鼻はこの青年に異様を嗅ぎとっていた。
──ヘンな匂い。それにわずか······匂う。これは······死の匂いだ。
そんな仙女の憂慮にも気づかず、盈秋は気さくに青年へ話しかけている。
母親とちがって、盈秋はいつだって率直に物をいう。素直といえばそうだが、少々危なっかしいとさえ桃霞には感じられた。
「それで? こんな所で貴方は何をしていたの?」
「君たちこそ。どうしてこんな辺境に?」
「私たちは······頼まれてちょっと調べにきてて」
「······ふぅん」
李鷹は、チラとふたりの姿を頭から足先まで見。
どういう訳か。困ったように笑った。
「なら、ちょっと勇み足だったかも」
「──ッ、盈秋っ!」
とつぜん鋭く桃霞が叫んだ。
驚いた盈秋が彼女の視線のさきを追うと。
いつの間に迫っていたのか。三人の背後には、まるで湧いて出たかのごとく、多勢の人の影が蠢きながら迫ってきているではないか!
「っ?? 何事ッ!?」
盈秋は一瞬で急転した状況にひるみ、おもわず後退りする。その前へ桃霞が庇うように出て、黒袍の毛並みを逆立てる。
「何処にこんな、人が──」
「人? 違う。コイツら、人の形をした何か!」
ふわりとした身のこなしで突っ込んできた盈秋を避けた李鷹は、事も無げに、腹のたつほど涼やかな声音で宣告した。
「残念だけど······君達、もうここから出られないかもね」
窮櫨···遊牧民がもちいる、木の骨組みを毛皮などでおおった組立式住居。ゲル。




