一六 虎児を託す①
夏は、暑さとの戦い···
たいてい負ける。
「······まだ目を覚まさないかい?」
ちいさな天幕をのぞきこんだ李鷹に、盈秋は憂い顔で肯いてみせた。
桃霞が床に伏して五日がたった。盈秋はつきっきりで傍へ控え、世話をつづけている。しかし祈りの甲斐もなく、いまだ彼女は眠りつづけていた。
李鷹もやってきて傍らに座りこむと、昏々と眠りに墜ちる桃霞の寝顔をのぞきみた。
あれから念の為にと辺りを哨戒し、二、三隊ほどの伏兵を片付けた。
発見が容易だったのは、いうまでもなく布帛の術が解けていたからだ。一歩間違っていれば、容易に窮地を招きえた。未然に防げたのは、ひとえに彼女が布帛を倒してくれたお陰だ。
我ながら失態だった。布帛が不死身であったとは、知る由もなかった。仕留めたつもりになって場を離れた、これは自分の負い目でもある。
それを彼女らは。
たったふたりで対処に挑んだのだ。
感謝していると同時に、相当の無茶を──やむを得なかったとはいえ──したふたりを、僅かながら叱りつけたい想いにも駆られた。
いや······やはりこれは、自身の不明への怒りを転嫁しているに過ぎないのだろう。
「······程々にして、君も休むといい。一時に氣を使い尽くして眠っているだけだ。彼女はじきに目覚めるさ」
気休めでしかない、とは解ってはいても、そう言ってやるしかない。
覚っているのか、やはり盈秋の表情が晴れることはなかった。
李鷹は看病を盈秋にまかせ、退出した。
蒼穹は濃く晴れわたり、中天には天道が、睨みつけるようにして眼下へと熱を放射しつづけている。足元からも蒸し気が沸きたち、地表付近の景色を歪ませていた。
あのとき降った俄雨以来、すっかり乾いている。
戦はいまだ膠着状態にあった。
対陣にはいよいよ曹仁が到着して、態勢は整いつつあるという。曹軍においては名うての、守りの名手と評判の男らしく、馬超でさえ表情を硬くしていた。
北岸に現れた集団は匪賊であったが、関西軍の威容をみて怖れ、退いた。
探索の一部始終を、馬超らにはそう報告していた。おそらくは曹軍の息のかかったものらであろう、とだけは伝えたが。
嘘ではない。事実そうだった。では何故、と李鷹は考える。
なぜ彼奴らは、あんな回りくどい手段を用いたのだろう。あの三人が直に殴りこみにくることはないにしても、もっとこう、巧いやり方はあった筈だ。
影鬼とて、わざわざ対岸に配置して遠足させる必要などなかった。
ここで放てば良い。そうすれば手っとり早く事は済んだだろう。
それをしない。ということは、目指すのは人としての勝利······そういう事なのだろうか。
ますます、彼奴らが曹軍と結んだ疑いは深まる。
「人として動き、曹軍に恩でも売って、あわよくば領地のひとつも貰おうという腹なのか······?」
いや、そんなことはあるまい。李鷹は即座に否定した。
奴らにそんな殊勝な心がけなどない。たとえ曹軍に与したとしても、それは一時のこと。都合のよい間だけだ。
「この戦に曹軍が勝てばどうなる? この地は曹のものになるな。が······奴らの狙いがお零れに与ることではないのだとしたら······」
まさか真っ向から現世に喧嘩を売るつもりでもあるまいが。やはり、そう単純に解ける謎ではないようだ。
「李鷹」
黙考に沈んでいた背中に、声がかかった。ふり向くと、天幕のなかにいた盈秋がいつの間にか立っている。
えらく思い詰めた、真剣な眼差しを向けられた。
「お願いがあるの。私に武術を······剣を教えて欲しい」
「······なに?」
疑った訳ではない。ただ正直な反応として、訊き返していた。
「私に、剣を教えてほしいの」
「いったい······どうしてまた、急に」
「急ではないわ。すこし前から考えていた」
いうと、盈秋は袍の裾をちいさな手でぎゅっと握りこんで顔を俯けた。
──やはりらしくない。らしくないな。
李鷹はおもむろに口を開いた。
「いまから剣を学び始めたとてどうなる。将来ならいざ知らず、奴らとの争いに役立たないことは、君にも解っているだろう。
──その術を求めるくらいなら、むしろ帰った方がいい。私とて、君にそうまでさせて残ってほしいとは思わない」
「··················」
「酷な言い方になるが、許してくれ。いま、私が君に求めることがあるとすれば、それは考えることだ。我々のなかで一番この常世に明るいのは君だ。そしてせっかく持ちあわせの頭もある。だのに······それを放棄する手はないだろう?」
「判っているわ」
盈秋はわずかに唇をひき結んだ。
「でも······わずかでもいい。姐様の負担を減らしたい。すこしでも身を守る術を覚えたいの。せめて、影鬼達に捕まらないくらいには」
なかば拗ねたような、意地になったような瞳の奥は、わずかに潤んでさえみえた。よほど口惜しかったのだろう。
それでも認める訳にはいかなかった。
影鬼だとて、けして弱い相手ではない。武術を多少かじった程度では、大人だって打ち倒されてもおかしくはない。対するには、将になれる程の腕はいる。
「··················」
たがい譲れずにただ無言で、じりじりと日に灼かれる時が過ぎた。
困った、どうでも引きそうにない。これはどう説得したものかと李鷹が頭を悩ませていると、向こうから馬岱がやってきた。
「女子とて剣を倣って悪いことはあるまい」
馬岱は呑気にも言い放った。心意気に感心したように盈秋をみやる。
「女子だからと侮られれば、余分な災難をうけることもある。『旅商人』について行くなら、心得のひとつはあった方がよかろう。
我らの家系では······」
余計な差し出口だ。
李鷹はめずらしく語気強めに言った。
「馬将軍は口を挟まないでください。これは我が家の問題です!」
「な!」
■
仄明るい薄靄につつまれた向こうへと、意識が沈んでいく。
ああ、またあの夢だ、と思った。
時折みる、おのれの過去を反芻する夢······
その始まりは、いつも否定の言葉から始まる。
『良いかい、桃霞。きみは黄河より南には来てはいけないのだよ? 我慢しなくては。ひいてはそれが、天下の民のためになるのだから』
男はけして声を荒げることはない。ただ、言葉には有無を言わせぬ厳格さが伴っていた。そして、いつもどこか哀しげに微笑んでいた。
男は偉い偉い仙人で、地に生きる民草のため、穀物をまもる役目を負っているのだそうだ。淋しくなって。あるいは退屈してこっそり河を渡っても、かならず見つかった。その度に諭され、北へと放された。
永い、永い刻を、ひとり流浪のなかで過ごした。
碧陽城址の辺りはともかくも、およそ黄河以北の地で、歩いていない場所はないと言っていい。ときおり里人と出遭うことがあっても、悲鳴をあげられるか畏怖されるかがせいぜいだった。
ある時。たまたま、ある山の麓を通りかかった。
香ってくる桃の匂いがなんとも心地よく、ついつられ踏みこんでみた。
その場所はおかしな仕組みとなっていて、外とは時の流れが違う。ずっと永久に春で、そして穏やかだ。
獣はいるが、人はいない。けたたましい叫びを訊くこともなく、命乞いをされることもなく、静かに過ごせた。こんな所をこそ呼ぶのだろう。桃源郷、と。
しばらくは満足してそこで過ごした。
でも、あの日。
転がった桃を夢中で追いかけているうち、つい異界の際まできたことに気付けなかった。
知らずはみ出ていた尻尾をいきなり掴まれた瞬間から、少しずつ日々は変わっていったのだ。
山には三人他者が増え、うちのふたりは面白かった。自分が始終ちょっかいをかけても動じることなく接してくれたからだ。
夢中になって追いかけているうちに、べつの騒動がおこり、また独りとなった。
ふたたびはじまった静かな日々。
けれど、まったく平気だった独りに、なぜか戻れなくなってしまった自分に気づいた。
香りの跡を頼りに、山をでた。
おおきな都のうちにある、ある屋敷の門へとたどり着いた。
門をあけたその童女は、いつの間にかすっかり大きくなっていて、一瞬もう私を憶えていないんじゃないか、と怖れさえ射した。
しかし、やはり彼女は彼女だった。
はじめこそ吃驚して目を丸くしていたけれど、いきなりこちらの首根っこをひっつかんで、無理矢理門内へとひきずり込んだ。そして困ったように笑いながら、恐れもせず、やさしく頭を撫でてくれながら言うのだ。
『どうしたの?あそこを出て来ちゃったの?』
意識が、底から浮きあがっていく。
自我と無我の境界には、一頭の黒虎がちょんと座って待っている。宿命の冒険の末に分かたれた、もうひとりの桃霞······
うながされて手を伸ばす。
あの女人に似通った声が、遠くから聞こえた気がした。
□
風を通した天幕。それでも蒸すが、つよい陽射しを避けるため、盈秋と李鷹はまたその内へ戻った。
どうにも気まずい雰囲気がふたりを沈黙へ落とし、桃霞がたてる微かな寝息だけが聞こえる。
盈秋は汲んできた河水で桃霞の額を拭ってやった。相変わらずぴくりともしないが、表情はわずかに落ち着いたようにみえる。
しっかりしなければ······
盈秋は、自分も器にはった水で顔を洗い清め、麻布で拭った。
李鷹のいう通りだ。まずは考えること。それが今すぐに自分が出来ることだ。なんとでもなる武術のことは置いておけ。どうでも反対されるなら、こっそり誰かに教わってもいい。
「もしこのまま······」
やがて、ぼそりと盈秋はいった。
「孟起様たちが敗れて、曹軍が勝ってしまったら。鍼欄や布帛たちが居留を許されるとしても、雍州か涼州の何処かってことに、なる」
彼らが人の領分を越えず攻めてくるならば。この状況においては、まず曹軍と結んでいるだろう。
その方がなにかと都合がいい。であれば、自ずとその目標も見当がつくはずだ。
彼女の様子をみた李鷹は、ひそかに安堵の息をついた。
いいぞ。らしくなってきた······
でも、と盈秋は首を傾げる。
「彼らは、孟起様にとって代わるだけで満足するかしら」
李鷹は首を横にふる。
「ないな。彼らは数千年を待ったんだ。もっと直接的にやるだろう。育てるために、悠長に時をかけたりはしない」
「でも変よ、それでは。この戦で彼らが曹軍の後押しをする理由はただひとつ。楽に利を得ること。それもなるべく目立たずに」
李鷹は、よくそうする癖で両の袖元へ手を突っこんだ。この季節にみせられると、かなり暑苦しい。
「······これは陣中の将士から聞きこんだものなのだが。そもそも曹操とやらの、出兵における大義名分は、漢中、とやらを攻め奪ることだったらしいな」
「漢中?」
ますます解せない。
「でも、あすこは山だらけの土地だよ? 騎馬の民の国を復権させるには不適当じゃない。そんな所を?」
「······ふむ。もしもの場合の守りを考えてのことか······」
いや。李鷹は再度首をふった。
「たしかにそうだな。やはり君のいう通り、馬超らの領分を狙っているだけなのかも知れない。彼らの土地であれば、碧陽の再建にはうってつけであろうし」
西涼は勇壮な騎馬で知られるという。つまり、馬にとっても良い環境が揃っているということだ。手っ取り早いといえば、たしかにそうではある。
「漢中······隠されているものが、ある」
ふいに、蚊のなくような声がした。
盈秋はハッとふり返った。桃霞がうすく瞼を開き、天幕の天井を見上げていた。
「姐様っ!!」
すぐに病床へとびつく。手を握りしめると、わずかに微笑み返してきた。
「おこして」
請われるまま、背に腕をそえて上半身を起こしてやった。桃霞はふう、と息をつき、所望した一椀の水を飲み干してからいった。
「山海境。お師匠様や、姐御······貴女の母上から訊いたことがある」




