十七 虎児を託す②
お暑い中わざわざお寄りくださり、ありがとうございます。
山海境。この世の模造にして、まことの裏に密やかに存在するもうひとつの天下。
珍奇、かつ有益な植物。多様な生き様や姿形をした妖獣に、伝説の聖獣やその写身。稀にみる奇観、絶景。それらが息づく広大なる箱庭。
ある者は救いの地といい、ある者は冥府の入口といった。
「そんな処があったの······」
桃霞による説明を聴き終わった盈秋は、ほっと息をついた。
それはそれは。彼らにとっては魅力的な地であるかもしれない。外界からは隔絶された場所とは、つまり、もう二度と滅ぼされることのない土地、ということになる。
けれど待て。それなら。
「? でもそれなら、むしろ良いのじゃないの? 彼らにあげちゃえばいいじゃない。それで住み分けが出来るのだし」
そうだ、そうすればいい。それならば双方丸く収まるではないか。なにも認める、認めないで躍起になることはない。影鬼もひっくるめてその異界に閉じこもってくれるなら、外界も安寧を保たれるではないか。
けれど、桃霞は彼女の提言にかるく首をふった。
「そう上手くない。理由がある。その世と、いま私達のいるこの世とは、完全に切れてない。条件が揃えば、あちらからこちらにちょっかいをかけることも出来るの。盤様や天仙境は、たぶんそれを怖れてる」
けして杞憂とは済まされない事実。
それは昔、すでに起きかけたことなのだ。桃霞の口は、おもくそう語った。
盈秋は眉根をよせた。万事はそう単純ではないということか。
「でも、まだ分からない。そこに曹軍がどう関わってくるの? その夢幻の地は、只人には触れることも出来ないのでしょ」
「······盈秋は、漢中がいまどんな状況かしってる?」
問い返されて、盈秋はしばし記憶を探った。
昨今の天下の情勢について、と題した母の講義で教わったことがある。
たしか、張魯という者が治めている、と聞いたはずだ。
その人物はなんでも、仙道にも通じる「五斗米道」なる教えを広めていて、数十万をこえる弟子たちがそれに従っている。彼らは漢中の各地にひろく散らばり、忍耐と信心によって、険阻ななかにも豊かな楽土を築きあげているらしい。
「そう。張魯は仙道に興味があって、敬ってる。だから天仙境も、はっきりとは言わないけども、認めてもいる」
公認とは言えないまでも、親しみは感じている。そんなところだろうか。少なくとも、不遜な騙りであると叱責をくわえない程度には。
なるほど。背景にも、それほどに繊細な理由のからむ土地だということか。
「······それを、曹操が支配すればどうなる?」
李鷹がジッと、むき出しな地面の一点を見つめながら零す。
どうなるか······?
きっと、そんな教えなぞ一笑に付す。そうして土地を切り刻む。なにがどう危ないか理解しようともせず、ただ理に適っているというだけで。
なにせ屯田に余念がないことは、盈秋も痛いほど味わって識っている。
「なにがどう影響して、またそんな事が起こらないとも限らない、という訳か······」
これは思った以上に大事になってきたと、さしもの童女をしても、思わずにはいられない。
はじめは影鬼たちを、もとの時の流れへと戻してあげるだけだと思っていた。
李鷹の実力をもってすれば、それは難しいこととも思えなかった。
鍼欄らと彼の間のことにしても。昔馴染みなら、きっと何処かで折りあえる。そう思っていた。
けれど。布帛の捨て身の戦いぶりに、それは夢物語であると突きつけられるほどの隔たりをみた。
今さらではあるが、話しあいでは終われないのだろう。そう痛感した······
「盈秋。李鷹と話したい。······ちょっと、ふたりにして」
「え」
独考に沈んでいた分、理解が遅れた。
桃霞姐様が私をおいて、他の者と内密の話をしたいという。
めずらしい事だった。だが元より断る気もない。病床の彼女が頼んでいるのだから。
盈秋はちらりと李鷹をみると、うん、といってたち上がった。
■
天幕のなかにふたりとなってから、桃霞はひと息ついて、ふいにカクリ、と頭を下げた。ずいぶんぎこちない動きだが、どうやら謝意をしめしていたらしい。
「礼をいう。盈秋が武術を倣うことに反対してくれて」
「なんだ、聴いていたとは恐れ入る」
さすがにちいさくても仙人だ、と李鷹は心中でひそかに褒めたが、それをおくびにも出すことなく言葉をつづけた。
「結局、止めることは出来そうにないけどね」
「それでも。だから······任せる気になれた」
「は?」
またしても意外な言葉。どうやら聞き間違いではなかったらしいとは、顔をあげた桃霞の目が物語っている。
彼女は、まっすぐ李鷹の目を見つめていった。
「私はいちど戻ろうと思う、天仙境へ」
その意味するところに、わずかに李鷹の眼が見開く。
「今回のことを報告にいく。とうぜん、お前のこともバラすことになる······だから先に謝っとく」
桃霞にしても、きちんと考えてのことだった。
じつはずっと以前からそうしなければ、とは感じていたのだ。布帛との一戦で、やっと骨身に染みて理解した。
はじめから自分達の手に負える事ではなく、それと知り得た以上、もはや放置することはできない。
彼女の想いを汲んでか、李鷹は肩をかるくすぼめるだけに留めた。
「仕方ないさ。君を止めることは出来そうにないしね。······わかった。君が戻るまで、盈秋の御守りをしろと言うのだろう?」
だが桃霞は、案に反して首を横へふった。
「······頼みがある」
「······何かな。言ってみ給え」
背後ににわかな気配がたった。
黒虎がズイッと、おのれの背後に忍び寄っていたのを李鷹は感じとる。首筋にしろく光る牙が、突きたつ寸前で止まっている。
「盈秋を手放して」
□
天幕をでた盈秋は、わざわざ自分を追いだしてまで李鷹ととは、はて何の話だろう、と勘繰りながらも、いつしか心は懸念の物事へと移ろっていった。
李鷹には正論で断られた。たしかにそうだ。チビの私がいくら剣や槍を振りまわしてみたところで、たかが知れている。けれどこの場に留まる以上、どうしたって身を護る術はいるのだ。
暑さのなかぼんやりとそんな事を考えていたからか、頭の上から声が降ってくるまで、そのことに気付けないでいた。
耳にちかい馬蹄の土を蹴立てる音に、反射的に身が竦んだ。
「どけッ! ボヤボヤするな、踏み殺すぞ!」
怒声が降り、鼻先を早馬が土煙をつれて駆け抜けていく。間一髪尻餅をついて助かった······
盈秋は鼓動に忙しい胸を抑えていたが、腹の底に響いた蹄の音で閃いた気がした。じっと遠ざかる馬の背をみつめ。そして確信する。
······これだ!
■
熱気凝縮する天幕のなか。二者の間は、なおも緊張にはり詰めていた。
「······それはしたくない」
首筋に凶器をむけられながらも。李鷹は、眉ひとつ動かさずに桃霞をみつめて答えた。
「率直にいって。私は現代の、人······という奴をあまり信頼できない。だが君らは······あの娘は違う。まっすぐだし、賢しい割には、まだ何物にも染まりきっていない。だから。手放したくはない」
「どうして? なぜあの娘。味方なら、頼りになるものをわんさか、私が連れてくる」
かりに、もうお仕舞いだ、家へ帰ろう。そういったところで、盈秋は納得しないだろう。強引に連れ帰ることも考えたが······私情をのいても、なるべくそれはしたくなかった。
だからこその天仙境帰り。
手を貸してくれる味方を募り、戻る。彼女へ迫る危険を減らすために。またそうすることは、李鷹にしても事を成就しやすくなる良案であるはずだ。それは彼のことだ、理解はしていよう。
だが。期待してみつめる李鷹の表情は、つめたく無機質なままだった。
「その味方······という言葉にも、私にはひっ掛かりがあるよ。いう通り、君が天仙境へと報告に戻れば、私の存在もバレるだろう。その見返りに、助成を得る。しかし私からしてみれば、天仙境とやらもまた、信じることができない」
「······」
桃霞は不快に黙りこんだ。そんな事を言ったらこの世になにひとつ信じられるものは無くなるではないか。
「そう睨むなよ。理由はきちんとある。······その山海境、とかいう世についてもいえる。
それほど危うい処なら、なぜ天仙達はずっと放っておくのだ? いつまでも手を打たないのは、天仙境にとっても、それが有意義だからだろう」
つまり、いざとなれば使いでがある······
だから、天仙境もなにか企んでいるかもしれない。
李鷹はそう疑っているということか。
否である、と容易く答えることは、桃霞にも出来なかった。口惜しいが、世を正しく導くことこそが天仙境の意義だ。そういう面は誤たずある。
だが、ここで李鷹はふいに口許をゆるめた。
脱力するように、吐息とともに両肩をすくめた。
「······と、まあ。アタマで考えればそういう言葉が出ても来るわけだ。が······気持ちの面では別さ。私とて、あの娘をこれ以上危険なところに縛りつけるのは本意ではない」
こちらとしては否やはない。そう李鷹はきっぱりと言ってくれた。
桃霞の胸底に、安堵の思いが染み渡った。
ああ、良かった。だからこそだ。
自分ほどではないにせよ、この男も盈秋の身をまともに考えてくれる。だからこそ、一時とはいえ預ける気になれたのだ。みじかい間であったが、自分の眼は間違ってはいなかった······
黒虎がそっと牙をひき、姿を陽炎のなかへと移ろわせた。
「ごめん。ちょっと嘘ついてた」
李鷹は黙ったまま笑んで、話を聴いている。
「蔡盈秋は盤様が名指しした。あえて名指しした。だから、今ここにいることには、なにか理由があるのかも知れない。だから私には決められない」
「盤······。我らの目覚めを予見していた御仁だね?」
地仙の大物だとは、ふたりから訊いて識っている。
「なにより盈秋がそれを認めない。だからあの娘を護るためにも、味方を連れてくる」
肯いてやると、桃霞はこれまでに見せたこともない、真剣な眼差しで頼んだ。
「だから約束して。もし本当にもう駄目──ってなったら。アイツらなんて放っといて、盈秋を頴川まで連れて逃げて。無理矢理にでも!」
李鷹はまた笑むと、しっかと肯いた。
□
「姐様! ほんとに行ってしまうの?」
翌朝。いきなり聞かされて、盈秋はすっかり驚いてしまった。
まだ熱さを感じさせない朝日の下、この光を背負ってたつ姐分へと駆け寄り、手を握りあう。
「大したことじゃない。ちょっと報告にいくだけ。すぐ戻る。きっと味方を連れて」
そう、とは盈秋もいったが、少なからず不安はあるようで、それが表情にも現れている。
桃霞はやさしい笑みをひろげ、少々意地が悪いかと思いながらも、あえて問うた。
「······いちおう訊く。家にもどる気はない? 盈秋」
盈秋は一瞬はっと息を止めたが。
しかし、それでも。ふたたび顔をあげた時には、決然と焔を瞳にひらめかせていた。
「ううん、戻らないよ。ここで姐様をまってる」
ふっ、と諦めと呆れの息がきこえた。
桃霞は握りあった手を離すと、しずかに笑う。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
戦場にはいまだ明確な変化はない。だが水面下では、確実に血戦の足音が近づきつつある。
あらたなる予兆。それはいつも、実存の姿をもって現れる。
桃霞が戦陣をたってしばらく。
関西軍の陣営を訪れた者があった。
あやうく馬に轢かれて転生しちゃう所だった··· By盈秋
あーくそ、なかなか盛りあがんね。
(すいません愚痴です)
微修正いたしました。




