十五 空を穿って②
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乾いていた土も、しだいに泥濘と化しはじめた。
跳ねる泥が脚をとる。戦う者らは斑塗れになって、たがい死へと抗う。
多数の影鬼にかこまれ、桃霞はなお均衡をたもち続けていた。小柄な身を活かしてたち回り、武器の死角に滑り込んでは当たるを幸い薙ぎ払う。
とはいえ、これでは。
百か、千か。あまりに数が多すぎる。いくら何でもすべて片付ける前には力尽きてしまうだろう。かりにやり遂せたとしても、まだあの布帛が控えている。
まるで双頭の蛇を相手にしているようだ。
歯痒さに、桃霞は煮え立つ思いがした。
布帛を倒し切るためには、影鬼らを一体余さず消さねばならぬ。だがこれらは圧倒的な数をもって狙いを阻む。
ならばと影鬼らの連係を断とうとすれば、率いる布帛の首を挙げるしかない。そのためには影鬼を──と、まさに堂々巡りだ。
そもそも影鬼たちの総出が、ここに現れている限りであるという根拠もない。
なるべく一撃ですべてを。そう、李鷹がやってみせたように。
だがそんな都合のよい手段など、そうそう持ち合わせはない。
『ウオオオッッ!!』
焦れた獣の咆哮とともに、跳びあがった桃霞から蹴り足が放たれる。轟風のごとき一撃が、したたかに弾かれて仰け反っていた影鬼の手から青銅の手斧をもぎ取った。
「!!!」
手斧はそのまま、桃霞の予想外の抵抗に慎重をきして間合いを離していた布帛へと迫る。すんでのところを偃月刀が弾く。
「はっ! そんな手──」
続きを口にする暇はなかった。
間髪入れず飛来した次撃が胸を直撃し、上半身を吹き飛ばした。
『よしッッ! ザマ見ろッ!!』
しかし。水音をたてて倒れこんだ布帛の身体は、またしても無数の毛玉と変じて散らばった。ピタリと影鬼どもの動きが止まり、桃霞そっちのけで布帛の亡骸へと殺到していく。
だがその行動は折りこみ済みだ。
ここだ! ここで奴らが毛玉に食いつくのを阻んでしまえば······!!
馳走にありつこうと隙だらけの背を晒したところへ、容赦なく爪を振るう。一体、二体、三体。恨みの声をあげ、霞へと変じて消えていく。
これを受けて影鬼の動きが急に変わった。
それまで先を争っていたくせに、一部が毛玉肉に手を伸ばすのをやめ、壁となって桃霞へと立ちはだかってきたのだ。
強い手応えに押し返される。あきらかに摂食しようとする仲間を、身を張って庇っているのだ。
『コイツら、協力を──!?』
知恵をつけたような影鬼どもの連係に、桃霞は戦慄した。
やむを得ず強引に突破を試みるが、円陣となって守る者どもに抑えこまれた。
くそ邪魔だ、どけッ!あと少し、あと少しで! 届きそうなほど迫っているのに······!
ズルゥッ、と触れられていた顔や、腕がなにか生温いものに呑まれるような感覚がした。
まただ。黴臭い、あの青黒い流れが、影鬼どもの身体を通して自身を呑み込まんとしている。
『!』
ゾッとして、桃霞は遮二無二に暴れ、幾つもの腕からなんとか逃れた。
奮闘虚しく、毛玉肉を完食した影鬼どもは威圧感を増し、そのなかの一体がまた布帛となった。
「ざァんねんでした!」
『ウヌゥッ!!』
「駄目ッ! 姐様ッ!! ただやみくもに向かってもッ! 」
わかる、判ってる。苦しいのは! でもそれじゃ駄目なのッ、姐様っ·····!!
心情は盈秋とて同じだった。
焦りと不安が募ってたまらないが、それでも必死に圧し殺して呼びかける。
せっかく減らしたはずの精鋭が数を増し、ふたたび桃霞へと刃を向けた。
雨はいよいよ激しさを増し、桃霞の袍も、影鬼らの身体も、すでにぐっしょりと泥水に濡れていた。
体を捌くたび水飛沫が舞う。得物が雨を弾き、こまかく今と過去との境界を分かつ。
遠くで音までしてきた。雷だ。
それを知った盈秋は、無情な天を睨みつけ────
ようやく気づいた。
「姐様っ! 空だよッ!!」
盈秋は力の限り叫んだ。雨音に、騒音にかき消されぬように。
空? この危急の折に、空?
かわした影鬼の刃を足で踏みつけ、おおきくとび退った。苛立ちを隠せぬまま、桃霞は盈秋へと視線を走らせる。
じっとこちらを見つめていた盈秋の顔が、つと上を向く。つられて桃霞も天を仰いだ。
天からは、試練のように大粒のものが筋となって落ちてきていた。
鬱陶しい雨だ。勢いはとうぶん落ちることはなかろう。足元は緩むし、視界は煙る。音にも気が散った。この場において数少ない優位までも、天は奪っていくのか。そう、せめて──
『──せめて?』
唇から言葉が零れた。水煙に半眼となっていた、彼女特有のくりくりとした眼が見開かれる。
空──! そうか、空だ!
『ッッッ! 盈秋ゥウウウッッッ!!!』
離れて。声に出さない思いは、たがいの視えない絆にのって確かに届く。
盈秋はすべてを振りきって全力で駆けだす。後ろにしてきた黄河へと向かって。
「······はァ? なんだ? 何を······」
布帛が童女らの奇行に薄笑いを浮かべた時、
────ガォォォォオオオーーーーンッッッ!!!────
桃霞のふり絞るような咆哮が大気を震わせた。
当時に存ったものでしか傷つけられないというのなら。
一瞬。虎娘の全身が稲穂色に輝いたのかと思った。
いや、そうではない。突如雲間が裂け、陽光が降り注いだのだ。
一天を穿ち、あつい雨雲に覆われていたはずの太陽が、夏の熱照をふたたび地へと放射している。その輝きこそが、娘を照らした正体であったのだ。
そうだ。あるじゃないか······どう文句をつけようとも揺らがぬ、古来よりの絶対的な存在。
桃霞とは切っても切れぬ、絶対の縁をもつもの。それは一時、自身を永の孤独へと縛りもした。
われは天仙・桃霞。その基は、魃。
はるか太古。天帝の命をうけて天降り、日照をもたらせし天仙女。放逐されてより後、権能はいよいよつよく、ときに地を渇きの底へと墜し恐れられた者。その娘。
なんとも摩訶不思議な光景だった。荘厳とさえいっていい。自分たちの頭上だけが雨の世界と切り離されていた。
空にあいた孔。暗がりに煙る水の世界にあいた孔だ。
「なっ、太陽だ? ちょっと雲を割ったくらいでそれが何だと······」
はじめは、身体に纏わりついた雨水の蒸発する音だと思った。
いや、たとえそうだったとしても。その尋常ではない速度に気づくべきだったのだ。違う、そうではない。
さとった布帛は驚愕した。
これは······己の焦げる音だ!
いや、これは、そんな馬鹿な。光が、熱が、上がっていく。こんなの尋常じゃない。際限なく上がって、これでは!
──アォォォォ──
影鬼らが苦悶の形相を浮かべる。
武具をとり落として顔を抑え、ユラユラと逃げまどう。だが一帯は平坦で、身を隠せる場所などない。
数秒と待たず、濡れきった大地すら水気を奪われて乾燥し、砕けて乾風に舞う。
影鬼らの『刻の檻』すらも貫いて。
光熱はその身を灼き清め、ついにはあちこちで火柱があがった。続々と地に倒れこみ、靄と化していく。
布帛も熱気に灼かれた空気に、たまらず喉を抑え膝をつく。
抜かった。まだこんな······まずい、このままでは本当に。
「「くそっくそッ!クゾッッ!!俺が!こんなのに······ッッッ!!!」」
だが、もう遅かった。どんなに歯噛みしても、身体は動かない。
倒れこむと、衝撃で下半身が毛玉と化した。それすらもことごとく灰になっていく。
「──あ」
不意に。
身が砕けたか、軽くなった気がした。
ああ、おわったのだ、と実感した。
急激に膨張した熱気が、尾をひいて冷めていく。
周囲を雨の暗がりに囲まれていただけに一層眩く目を射抜いていた光は、ふたたび天へと吸いこまれ、そして消失した。
灰色の空間がもどり、強引に空に空けられた孔も、ゆるゆると曇雲で塞いがっていく。
すべてはまるで無かった事かのように。
また降りはじめた雨が、突然の熱傷にさらされた大地を冷まし、潤していく。
「姐様ッ!!」
眩さに目を細めていた盈秋は、やっと光が収まったのをみて、急いでとって返した。
桃霞はうつ伏せに倒れこんでいた。全身全霊を賭したのだろう。戦袍は解けて、普段の衣にもどっていた。
「姐様······ごめん、ごめんね、姐様っ············」
盈秋はただとりすがり、桃霞の背に顔を埋めて泣いた。
■
追跡者は、まんまと出し抜いたはずだった。
影鬼たちに自我はないにしても、阻む者がいない行程は、淀みなくうごく足が教えてくれていた。このまま隠密を極めて行けば、黄河へと西から注ぎこむ渭水も視界に入る。そこを渡りさえすれば······
関西軍の横腹を食い破り、戦は決着する。
はずだった。
──!──
正面に立ちはだかる者がいた。
どういうことか。置き去りにしてきた李鷹が、待ち構えていた。
濡れそぼる乱れた髪が、額に張りついている。ぐっしょりと濡れた袍からは雨粒が滴った。
視えている訳はない。にも関わらず、彼はまっすぐに潜む群衆を睨みつけている。
「視えぬ、と思ったのだろう? 生憎だった。この雨がすべてをさらけ出してくれたのさ」
急いで。今のうちに。そう零した理由がこれだった。
どれ程姿を透かそうとも、刻の檻までを無くすことは出来ない。
皮肉なことに、刻の流れを同じくしない雨粒によって、これを弾く薄膜が、白くぼんやりと浮かび上がっていたのだ。
もしもこれが、まったく不意打ちであったなら、あるいは結果も違ったろう。だが、そうと識って捜す李鷹の眼を逃れることはできなかった。
危機に瀕し、影鬼たちは秘かに得物を構えて戦闘に備える。
瞬時の間。
影鬼軍が襲いかかるのと、李鷹が宙空に跳びあがるのはほぼ同時だった。
刃は彼を掠めることなく空を切った。
『さよならだッ!』
逆さになりながら印を切る。李鷹の背から翠玉の翼がひろがると同時、眩い閃光が刹那、一帯を射抜いた。
光が去ると、そこにはもう何者もいなかった。
ビシリ、と、李鷹の二枚残った翼の一枚に亀裂が入る。わずかに顔を歪めたが、かるく肩を回し、翼を光へと返した。
はるか東方で、光の柱が空へ吸いこまれていくのがみえた。
「終わったか······」
◆
くしくも李鷹と布帛がおなじ結論に至った時点で、布帛の敗退は決していた。
だがそれは勝敗の帰趨までのこと。彼の命運に関しては、また別だった。
誰の目をも盗んで、ひそやかに進められた出来事があった。
布帛が意識を失ったあの瞬間。現の裏へ最後に隠していた影鬼が忽然とあらわれ、唯一燃え残っていた毛玉を抱えると、一目散に雲下をめざして駆けだした。
これを何処からともなく飛んできた杭のごとき太い針が刺し、猛烈に上空へとひき揚げる。その間に影鬼は毛玉肉を呑み下し、布帛の姿へと変じた。
「······危、なかった······感謝するよ、鍼欄······」
灼かれた喉で息も絶え絶えにいう。
鍼欄は弱った布帛を担ぎ、隠れ家へと飛翔する。
「けど······見たろう?」
「ええ」
鍼欄のみじかい肯きに、白い歯をみせ、弱々しくもニヤリとほくそ笑んだ。
「あの陽の輝き······アレは使える」
あがく彼らを書いているつもりが、いちばんあがいてるのは自分じゃないかと気付いた回でした···
ルビ振りを微追加しました。




