十四 空を穿って①
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ジリジリと焼けるようだった背を冷ますように、にわかの雨が降り注いでいた。
夏のことだ、すぐに止むだろう。それでも自身の頭を冷やすぶんには役に立ってくれた。
曇天にまぎれ、李鷹はひとり、潼関を見下ろしていた。みる限り、陣内にそれらしい変化はない。してみると間にあったか。
謀られたと知った時、まず第一に己に念じたことは、落ち着け、という事だった。
よく考えろ。ようは馬超らの軍へ被害を加えられなければ良いのだ。
冷静さをとり戻した彼は、あえていちど、まず戻った。その判断は正しかったようだ。まだ奴らの脅威が及んではいない事は判ったのだ。一歩、劣勢を盛り返した。
もはや隠密を強いられることもない。
李鷹はみずからにくわえられた意匠たる鷹の翼で、遠慮なく空を舞う。
大黄河の河辺へと降りたった。ジッと波立つ水面に目を注ぐ。
上空から睨みつけて捜したが、やはり布帛が施した奇門遁甲の術によってか。軍兵はおし隠されていて、発見は困難だった。
それでも奴らには実体がある。である限り、この大河を徒歩で渡ってくるしかない······
影鬼どもの周囲は、いわば『時間の檻』とでもいうべき刻の異層によって覆われ、現世に存在を保っている。
この『檻』を破らぬ限り、奴らを還すことは出来ない訳だが、転じれば、これによって常世の理に縛られているともいえる。
やつらは魂魄のように、宙を自在に行き来することは出来ないのだ。
であれば。水面に不自然な変化を残さずに済ませることは出来ないのではないか。
むろんこれは憶測による。布帛の術の性質いかんによっては、正答も変わってくるだろう。
だがもし、奴の術がたんに見る者の視界を騙す、というだけのものであったなら? 必ずなにか痕跡を残すはず。さすがに水底に潜られたら難ありだが、浅瀬を渡るぶんを見逃すわけにはいくまい。
よし、見える範囲に変化ない。次だ。
迅速に捜しださねばならない。今ならば。今こそが好機なのだ。
李鷹は翔びたつと、北岸を目指した。
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「姐様ッ!!桃霞姐様ァッッ!!」
もう何度目かの呼びかけか。やっと肩がぴくりと震え、桃霞が身を起こした。
『だい······丈夫っ······心配しないでっ、盈秋······』
ずいぶんな一撃をくってしまった。
黒の戦袍は、腹をおおっていた部分がすっかり破れとんでいる。
桃霞の戦袍は、もうひとりの彼女ともいえる。それをこうも傷つけられたということは、みずからの片割れともいえる存在が、激しい損傷を負った証明だ。
口許についたものを拭い、桃霞はそれをした布帛を睨みつける。
「さぁ、奴を仕留めてしまえよッ!」
布帛の号令がとび、影鬼らが足並みを揃えて桃霞へと襲いかかる。
布帛の身体を喰った影鬼ども。戯れに布帛へと変じ、桃霞によって消された残りだ。それらは明らかに力を増していた。
動きはより滑らかに。鋭敏化し、間合いの図りや踏みこみにも無駄が減って、振るう力が倍増はした。さらに脅威を増す集団に、桃霞は気力をふり絞る。
──尸解仙、という言葉がある。
仙人になる際、昇仙時の現象をさす言葉のひとつだ。
これにもいくつか区分けがあって、その中でもまず第一等とされるのが、生きながら天へと昇ることだとされている。
反して尸解······つまり死した後天へと昇って昇仙することは、格のうえでは最下等とされていた。
桃霞自身、天仙界に学んで久しいのだ。正確な言葉そのものは忘れてしまったとしても、その現象についてはしかと記憶に残っていた。
そう。コイツはまさにそれ。死して後、不死をえた者。死に慣れし者。つまり······悪ければ何度でも蘇る······!
『ちっ!』
横薙ぎにきた戈をゴロゴロと地面に転がって躱した桃霞は、すぐに立ち上がるが、敵も息をつかせぬ。
対策へと気をまわす分、どうしても守勢にまわらざるを得ない。斬りつけてきた刃を爪で跳ねあげ、蹴り飛ばして囲みを逃れるのがやっとだ。
叶うならばもっと広く地形を使いたいが、そうもいかない。あまりに動き回ったあげく、盈秋から離れすぎてしまっては元も子もなくなる。
今のところ、自身が削りだした玉翼の効果か、影鬼らが積極的に盈秋へとむくことはない。だがそれも、布帛の気紛れひとつでどうとでも変じてしまうだろう。
苦心する彼女の思案を読んだか、布帛が嗤った。
「李鷹もお前も、ほんっと余所見が好きなんだな! ほらほら、もっと集中しないと! まずお前がさよならすることになるぜ!?」
「······っ!」
盈秋は唇をかむ。
明白だったことだ。けれど、思い知らされる。姐様にとって、自身がこうも足手まといになってしまうとは······
それでもおのれに問いつづけるしかない。ではどうするのだ、と。いま自分に出来ることは頭を働かせることだけだ。
仙人が不死の存在、というのは識っている。
そのなかでも、この布帛は一等とび抜けて違うようだ。
よしんばまた撃破したとしても、あの毛玉片を残す。これを影鬼らが喰らえば無限にその数を増やし、手に負えなくなる。
「──どうすれば······母様っ······!」
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丹念に、河辺を歩む。ただひたすら水面を注視しながら。李鷹の精神は集中を増していくとともに、ふかく想いに沈んでいった。
まったく、我ながらお笑い草だ。いまさら馬超らのため必死になっている己の滑稽さよ。
もしあの時、桃霞の問いに素直に応えていたなら。ふたりはどんな顔をしただろう。
あの男を初めて見た時から、懐かしさを感じた。
とりたてて誰にちかい、という訳ではない。
ただ、似ている、と。懐かしい故郷の香りを嗅いだ気がした。そう、碧陽の香りだ。
馬とともに生きる民族の末裔。只そこだけが共通しているに過ぎないのではないのか、とも考えた。
じじつ盈秋にも似た感覚をおぼえたものだ。貴重な協力者だ、便利な連中だと己には言い聞かせていても、そのじつ彼女のなかに和みを感じていたのだ。だからこそ放り出せないでいる。
彼女の祖は、匈奴と呼ばれる北方の騎馬民族であるという。
北からきた騎馬の民。もしやすると、碧陽城郭に住まいした民と流れを同じくするのかも知れぬが、事実は判りようもない。
そして、馬超らの祖の片割れにある者ら。羌族──と呼ばれし者らだという。
とはいえ、族名だけ聞いてもピンとはこないか······
まさかとっくに失望した者らのために。
身勝手にも、郷愁の念を抱いてしまったというのか。そんなもの未練でしかないというのに。
李鷹は立ち止まり、はるか東の対岸をみつめた。
ポチャリ、と不自然に波が切れる。
平べったい波紋が、ヌッペリとたしかに広がった。瞬き間に、疾い流れによって消し去られてしまったが。
いちど起こった後は、あちこちに同じものがたて続けに起こり、河縁にささやかな変化を起こしていた。
とても静かな変化だ。近辺にいた鳥や獣でさえも気づかなかったに相違ない。
あれ程李鷹が心を砕いたにもかかわらず。
それは彼の網を逃れ、下流で進行していた。
確実に。死を超えた軍隊が、関西軍陣営へと迫りつつあった。




