十 喰われもの①
黄河北岸に、正体不明の集団が出没している。
馬超がそんな報告を受けたのは、六月を迎えた頃だった。季節はすっかり夏となり、黄河沿岸にも容赦ない陽射しがふり注いでいた。
何者だ? やはり曹軍の尖兵か? だとするなら西岸への渡河を窺っている?
そうであれば、これは由々しき事態といえた。相手にもういちど渡河を許せば、それは潼関の背後へ回られることを意味する。
この機を待っていた曹操は、全力を挙げてくるだろう。
兵の数とてこちらの倍は見積もっておくべきで、そうであるなら、背後をとられるばかりではない。後方と分断され、確実に潰される。
「どういうことだ、しかし。その軍勢が曹軍であれば、すでに渡河を許しているということになる」
馬超を喚びよせた関西軍都督・韓遂が、わずかに焦りをのぞかせて訊ねた。
すでに暑気は、地面へ陽炎を生むほどに濃い。こうして関内にいればまだ凌げるが、天幕に籠もっていてはじっとりと汗が滲む。
「曹洪の手配ではありますまい」
馬超は答えた。
「我らに抜かりはありませんでした。動きがあれば、すぐにこちらへと伝わった筈です」
「ならば突如、その軍は沸いて出たとでも申されるのか。······いずれの軍であろう」
「さて。配下によると、どうも規律だったもののようではない、と。あるいは、何処かの胡賊でも手懐けたのかもしれませぬ」
じつは関西軍も蜂起に際し、羌族の一部から援護を受けている。自分達もやっていること。ならば、それは充分に考えられることだった。
「うむ······探らねばならぬな」
「······弟よ」
馬超は、傍らに控えていた馬岱へとむき直った。
「ただちに適材をそろえよ。人選はまかせる」
関西軍、馬超陣内。
昨夜から姿がみえない李鷹を気遣って探していた盈秋は、そのことを馬岱からきいて初めて知った。
「え、李鷹が?······叔父はみずから志願したのですか?」
「ああ······そうか、奴はなにも言ってなかったか」
馬岱はすこし気の毒そうに答える。
すこし意外に思った。抜けのなさそうなあの男のことだ。危地におもむくに際し、万が一にそなえて、姪らになにがしか知恵を含めるくらいはやって行くだろう。そう思っていた。
むろんこの捜索には、自軍のなかでもこれは、という者を選んだ。奴のみに任せきりにするということではない。
それでも機をえた際、もっとも見咎められずに潜りこめる者はといえば、上辺こそ妙に調子のよいあの男なのではないか······
ただ勘に過ぎないのだが、何となくそう思えてしまった。だから容れたのだが。悪いことをしてしまったか。
「······代わりにお前達のことは気を遣っておくと約束した。なにかあったら言うがいい」
ありがとうございます、と盈秋は頭を下げたものの、腹の底ではすこし怒っていた。
なんなの。助けてあげてる私達になにも言わずに行っちゃうだなんて······
そうと知れれば大人しく待っている気はない。
「仕度を急がなくちゃ······」
盈秋は、暑さでうだっている姐分のもとへと駆けて戻った。
潼関以東、黄河北岸の一点。
あたりは深遠の闇に呑まれ、一寸の先を見通すことさえおぼつかない。人家などあるはずもなく、明かりといえば空に霞む月くらいのものだ。
いや、ひとつある。
ポツリと火が灯っている。ささやかな野営の火だ。
蒸すなかにわざわざ薪を焚べおこした、頼りない火の赤い粉がはかなく散る様を、李鷹はじっとみつめた。
この探索は、みずから志願したものだった。
道楽商売にあちこちと歩き回っているうちに、わずかに兵らが話しているのを小耳に挟んだ。だから馬岱に言ってやったのだ。
『たまには違うものでも仕入れてきましょうか?』
と。
突っぱねられても構わない、程度のつもりで言ったのだが。予想に反してというか、受け入れられた。
パチリ、と音をたてた薪に、李鷹は茫洋とさせていた焦点をもどす。そうして深々と溜め息をついた。
「で、結局こうなってしまう、と······?」
いうまでもなく、彼の正面には焚き火がある。
問題は、その向こう側。満足げな盈秋と、桃霞の笑み顔が浮かんでいた。
「ひとりだけ抜け駆けしようだなんて。水臭い」
「やれやれ。······で? お嬢が得意気な顔をしているのはまあ良しとして。なぜ君まで」
「お前の邪魔できた。わたしはそれだけで満足」
ムフー、と桃霞は鼻息をつよくする。
置いてきたのは至極真っ当な判断だった。今にして、李鷹は心底そう思った。
またいつぞやのような事態になれば、今度こそ庇いきれぬかも知れないというのに······
そんなせっかくの配慮を。まさか、自分で跳び出してきてしまうか。
もうすこし利口だと踏んでいたのだが、この娘は意外と······
いや。あるいは『らしくない』というべきなのか。
隣も隣で、この先もし件の者共が待ち受けているのだとしたら、抗う手段がないのはおなじであるのに。
「それにしても······まさか志願するだなんて。よく聞き届けてもらえたね」
盈秋が、素直に疑問を口にする。李鷹は胸に手をあてた、戯けた素振りで答えてみせる。
「なぁに、これでも私には信用があるんだよ。馬弟殿に持ちかけたら一発だったさ」
ほんとうかなぁ、と盈秋は苦笑い半分にこぼす。
「······それに。気になるだろう? 忽然と現れる謎の軍勢なんて。いかにも我々の追っている存在に合致すると思わないか?」
「それは······まあ······そうかも」
盈秋は思いかえす。
あの時、影鬼どもは、たしかに戦の流れを理解し、迎合するような動きを見せていた。そうであれば可能性はかなり高い。
たんなる便乗か。それともまさか、不可解にも曹軍に協力する気になったのか。
鍼欄たちの狙いも含めて探れる機会ではある。
「······イヤに熱心」
ポツリ、と桃霞の唇から、沈黙の合間を射すような言葉がこぼれた。
「みょうに孟起たちに肩入れしてる」
窺いたげな瞳に、李鷹はしずかな笑みをうかべた。
「······当然さ。やってみて、私は商売というものかまったく気に入った。できればもう少し続けたい。せっかく貰えた活躍の場を潰されてなるものかね」
彼は、そんなもっともらしい言葉を返したが。
「そ、そんなことないよ」
なぜか盈秋からも返答がとんできたことに、今度は桃霞と李鷹、ふたりの視線が集中する。
「······もしかして盈秋。ウチに帰りたくないから、やる気になってる?」
「──もうっ、姐様っ!」
そんな訳ないでしょっ、と盈秋は追及を振りきった。
「ホラ、さっさと寝よう? 明日も捜索しなきゃ。きちんと調べないと帰れないもの」
いって、コロンと麻のうえに伏せてしまった。しばらくして、しずかな寝息をたて始める。
「ふふん······?」
李鷹が袖に手を突っこみながら、したり顔で漏らした。
「やはりこれは、アレだね。······いや。まだ憧憬、という程度に過ぎないのだろうけど」
「なに」
「いわゆる、心のもつれ。お年頃、というやつさ。
······うむ。キミにもまだ早いかな」
「······なにをいう。私だって解る。──そっか、盈秋もお年頃、お年頃······」
頷きながら自身も身を伏せた桃霞に、李鷹は吹きだした。
夜が明けた。三人となった一行は、捜索を再開していた。
こうして目視で捜すというのは、まことに割を食った行為だ。
地平線と地面の間で視界を往復させずとも、高所からみるのが一番だろう、というのは、まず間違いないところだろう。
だが捜しているものがもし見当通りの者らであるのなら、翔びなどすればたちまち見つかってしまう。
三人には、李鷹の感覚と桃霞の鼻をたよりに、あちこちと歩きまわるしかなかった。
だが得られたのは、相も変わらぬ徒労感と、ごくささやかな、ほんのわずかな痕跡だけであった。
「う〜ん、わからん」
地面をさすりながら、桃霞がまるい眉毛を寄せる。
そもそも河傍のことだ。臭跡は沈滞しやすい反面、容易に混じりあい、溜まってしまう。
さらには季節も悪い。特有の熱気にあおられ、万物はいまを盛りと活動をはげしくしている。そんな諸々の臭いがひと塊となるのだ。まったく混沌と化していた。
ただ、わすかに。発見した足跡などからみて、最近この辺りを、多数の人間が通ったことだけは確かだと知れた。
「李鷹は? どう?」
桃霞とともにしゃがみ込んでいた盈秋は、問うて李鷹を仰ぐ。これも額に指を当てながら、うーむ、と渋い顔をみせた。
「駄目だね、よく混ざって判らないよ」
じっさい、こちらの感知し得ないなにか未知のものが混ざり込んで、捜索をを阻害しているような。そういう気配があった。
「そう」
盈秋はたち上がると、手指についた砂を払い落とす。
このふたりがこうまで迷うのなら、例の集団ではないのかもしれない。ただ曹軍であった、と考える方がはるかに単純だ。
もちろん楽観できる状況ではない。けれど、あの厄介な連中に比べれば、それでもまともだ。さらなる異常な事態は防げそうである。
盈秋が、そんなあまい思案を浮かべていた時。
「──いや待て。······そうか、なるほどね」
なにか腑に落ちた、という表情をみせて顔をあげたのは李鷹だった。
そのまま黙って歩み出した。迷いのない足取りに、ふたりも顔を見合わせ、後に続いた。
しばらく行く。と、なにもない荒野のただ中に、ポツンとひとつ、くろい影がみえた。
誰か石のうえへ座っている。
「······やあ、李鷹」
「······布帛」
ゆらりと腰をあげた青年をみた瞬間。盈秋の背を、ゾクリとしたものか走った。
にじむ蒼空を負った彼から、なぜか視線が離せない。吸い込まれるような感覚に恐怖すら覚えた。
毛氈帽をかぶり、革の具足をまとった細身の男──
茶まじりの髪は、盈秋ら当代のものにとっては不自然なほどに短い。背丈は李鷹とどっとこいだが、より優男にみえる。
なんてことはないはずの男。それが待ち受けていた青年の印象だった。
だのに······この切迫感は、なに?
李鷹と布帛は無言で立ち尽くしていた。やはり顔見知りらしいふたりの間には、剣呑な雰囲気が漂う。
はばかり気味に、盈秋は小声で訊ねた。
「鍼欄、じゃない、よね······じゃあ別の?」
「······ああ。名は、布帛。鍼欄の三人いる一党のひとりさ」
「三人······」
桃霞が苦々しげに顔を顰める。そんなにいるのか、という反応だ。
「······ここは。任せてくれ」
いって李鷹は、ひとり近寄っていった。
「······やはり起きていたな。ということは、のこりのふたりもすでに揃っている訳か」
「数千年ぶりというのにはご挨拶だねー。いちばんの寝坊助は君だったんだよ?」
「──話では、影どもも連れてきているだろうということだったんだが。意外だった。寂しがりの君が独りとは」
「憶えていてくれたのかい。
ああそうさ? その通り······」
「──気をつけてふたり共!!」
桃霞が警告を発するとほぼ同時。
それまで現を映していたはずの空間が剥がれ落ち、虚から青黒い例の霧が噴出した。
そこから次々と現れいずるのは。
あのおぞましい影鬼どもではないか!
現れた、というよりも、今までそこに立っていたのに気付けなかったものが、出し抜けに視えるようになったというか。
もし姿を透かす布というものがあったとして、集団に被せていたそれを一気にとっ払った。
そういった方がしっくりくる。
布帛とよばれた青年は、噛んで含めるような、聴きようによっては小馬鹿にしているような口調で諭す。
「ねぇ、李鷹ぉ。いくら付き合いがあるといったって、僕らについて君が知らないことなんて、まだまだあるんだよ?」
その左手に超重量の薙刀をあらわし、砂利を踏んで。
青年はこちらへ堂々と正対する。
「奇門遁甲······俺の術。集団のすべてを。音も、気配も、まるごとおし包む。
さあ······裏切り者に裁きの刻だ」
布帛がつかめず、苦戦しております···




