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婚約破棄から始まるオムニバス  作者: m


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㉓エレオノーラの場合

例のあれです。


「貴方との婚約は無かったことにしていただきたいのです」



 そう、目の前の彼に告げる自分を、エレオノーラは誇らしく思う。

 

 これが私なのだ。

 これが私、エレオノーラ・ガドリエなのだと、今、世界中に叫びたいくらいだった。




 三歳の時に死んだ母のことは、もうあまりよく覚えていない。

 笑いかけてくれた顔の記憶も、実際に見たものなのか、もしかすると後年、屋敷の奥に眠る肖像画を見たからなのか、最早判別がつかなかった。


 父の再婚に伴って増えた、新しい家族の最初の印象も朧げだった。

 突然出来た義母と義兄、そして間も無く生まれた妹、そのどの出会いの瞬間も、エレオノーラの記憶には残っていない。

 

 淡い榛色の髪が美しい義母とその子供達は、ガドリエ子爵である父の栗色の髪とよく似た色をしていた。  

 まるで初めから、家族がこの形だったように。


 瞳の色も皆揃いの碧色で、特に義兄と妹の透けるような瞳の色は美しく、社交界でも評判になっていった。


 そんな家族の中で、亡き母譲りの黒髪と黒い瞳のエレオノーラだけが、ぽつりと、インク染みのついた紙のように異質なのだった。



 けれどもエレオノーラは決して、新しい家族に蔑ろにされたことはない。

 

 父から子供達を任されている義母は、血の繋がらないエレオノーラにも、実の子達と同じように接する節度を持っている人だった。

 教育は義兄と同じものが与えられたし、妹がドレスや装飾品を新調する時には、同じように誂えてもらったものだった。

 

 宮廷に出仕している忙しい父も、日に一度、夕餐の席で皆で食卓を囲む時には、他の兄妹と同じように、学院の様子や、勉強の進捗について聞いてくれた。

 

 巷では最近、義理の家族に虐められるヒロインを描いた少女小説が人気を博している。

 そこに描かれているような、食事を抜かれたり、使用人のように扱われたり、そんな風に虐げられたことは決してなかった。


 けれど、とエレオノーラは思う。


 そこにいてもいなくても同じような存在であるということは。

 それだって一つの、絶望なのではないかと思うのだ。



 

 ガタンと、馬車の車輪が石畳の凸凹の上を通過して少し揺れた。

 もう間も無く日没を迎える、暮れゆく西陽に照らされた貴族街の大通りを、エレオノーラは一人、王宮に向かっているところだった。


 今宵の夜会は、王太子殿下の婚約者がついに発表されるという噂もあって、今頃、王都中の貴族達が同じように馬車に揺られていることだろう。

 時折窓から、並走し、追い越していく他家の馬車が見えた。


 膝あたりのドレスの皺をそっと伸ばす。

 初めて袖を通したドレスは、不思議としっくりと、今までに着たどのドレスよりも自分の一部のように馴染んでいる気がする。



 エレオノーラはガドリエ家で、決して蔑ろにされていたわけではない。

 けれど、だから家族だったかと言えば……そうではなかったのだと、今になって初めて、それが分かったのだった。


 義兄の家庭教師をあてがわれた時も、妹と色違いのドレスを新調した時も、誰も、エレオノーラの希望を聞いてくれる者はいなかった。


 妹の白い肌に合わせて誂えられたドレスは、いつも淡い桃色や水色の、少女らしい可愛さを引き立てるもので。

 それはエレオノーラの整った容姿にも、確かに似合いはしていた。


「お姉様の黒髪が、淡い色を引き締めていて素敵だわ。ねぇお母様」


 素直で無邪気な愛らしい妹も、それを受けて微笑む優しい義母も、決してそこに悪意などないことが、幼いエレオノーラにも分かっていた。

 だからずっと、


「ありがとうミュリエル、とても可愛らしいドレスね。お義母、ありがとうございます」


 そう言って、微笑んできたのだった。



(それで良いと……私自身が思っていた)


 けれどそれはただ、諦めていただけだったのだと思う。

 

 自分の好みや希望、自分に似合うものが何かということや、それを伝えることを。

 あの柔らかな色合いの家族達の中で、いつからかずっと、諦めていたのだった。


 控えめで、淑やかなガドリエ家の長女。

 気が付けばそんな風に、エレオノーラは称されるようになっていた。

  


 王宮の門をくぐった馬車が、美しい薔薇園の中を抜けて、馬車留めへと滑り込む。

 何台もの馬車が列をなし、いつもよりも混み合っている様だった。

 少しばかり時間のかかりそうな様子に、侍女のジェーンが、ドレスの裾を整え直してくれる。


 溜め息をつきそうになって、ふとそんな自分にエレオノーラは気が付いた。


『君の溜め息は、本当に憂鬱そうだ』


 そう悪戯な笑みで、自分に告げた彼の笑い声が蘇ってくる。

 色々なものを飲み込んでばかりの自分にとって、溜め息はいつの間にか、癖になっていたようだった。



 

 王太子殿下の婚約者の、その最終候補にエレオノーラが残った時、周囲は初めて、ガドリエ家の長女の存在に気付いたのだった。


 社交界でも評判の、美しい青い瞳をした妖精のような兄妹……学院でもその優秀さで覚えめでたい長男と、花のように愛らしく美しい妹、そしてその間にいる控えめな長女。

 その長女が見初められたことに、誰もが驚きを隠さなかった。


 文武共に優秀だと評判の王太子殿下は、茶会の席でのエレオノーラの受け答えに、感銘を受けたのだと言う。

 

「流石は優秀さで知られる、ガドリエの妹君だな。我が国の施策にそこまで詳しいとは」


 王太子殿下によって選ばれた、婚約者候補の高位の令嬢達は皆、その見た目だけでなく、いずれも自分の意見を持ち、賢さをも備えた令嬢達だった。

 子爵位であるエレオノーラの肩身は狭かったが、けれど王太子自身は殊の外、エレオノーラを気に入ってくれているようだった。

 

 華やかな兄妹に比べ、いつも控えめなエレオノーラの様子に、何かを感じたのだろう、


「エレオノーラ、君はずっと子爵家で、肩身の狭い思いをしているのではないか?私がきっと、君を守ってみせよう」

 

 王宮の一流の庭師達の手によって見事に咲いた、白薔薇に囲まれた庭園で。

 自ら摘んだのだという白薔薇を手渡し、そっとエレオノーラの手を取って、金色の髪を持つ王子は、微笑んでくれたのだった。

 



 馬車の扉から、御者の手を借りて降り立ったエレオノーラの姿に、すぐそばに控えていた衛兵が息を呑む気配がした。

 滅多なことでは動揺を見せない彼らのその様に、緊張していた身体が、どこか高揚していくのを感じる。


 周囲の貴族達の視線も同様に、自分に集まっているのを肌で感じながら、ドレスの長い裾をジェーンが美しく整えてくれるのを待った。

 そして、特別に今日、エスコート役を務めてくれる父の待つ、控えの間へと歩を進める。


 到着するまでは、少しばかり恐れを感じていたそれらの視線が、今はむしろ自分に勇気を与えてくれるようだった。

 

(この姿を、どうぞその目に焼き付けてくださると嬉しいわ)


   


 王子から贈られたドレスは、薄いクリーム色のオーガンジーが幾重にも重なった、ふんわりと柔らかなドレスだった。

 側にはいつも通り、王宮のあの白薔薇の花が添えてある。


「素敵!月の妖精のようなドレスねお姉様!」


 散りばめられたダイヤのビーズがきらきらと、月の光を受けて輝く湖面のように煌めいていて美しい。

 薄いドレスの裾をふわりと浮かせながら、ミュリエルが義母と顔を見合わせて、嬉しそうに微笑んでいる。


 それを見ていた義兄のルーファスは、対照的な反応だった。


「どちらかといえば、ミュリエルに似合いそうなドレスだな」

 

「まぁお兄様ったら、お姉様の為に王太子殿下が選んでくださったのよ。きっとお姉様にだってお似合いになるわ」

 

 にこにこと笑う妹を優しく見つめる義兄は、いつからか、エレオノーラにはどこか冷淡な態度を示すようになっていた。

 

 初めは同乗していた学院に向かう馬車も別々になり、……義母や妹の前では、二人が悲しむからだろう、そんなそぶりは見せないけれど、こちらに一線を引いているのがよく分かった。


 自分よりも年長のルーファスにとって、ある日突然家族になった血の繋がらない義妹に、彼なりに思うところがあるのだろうと思う。


(でも確かに……お義兄様の言う通り) 


 ふんわりとしたAラインとシフォンの袖口は、可愛らしいミュリエルのような少女にこそ似合いそうだった。



 このドレスを着て夜会に参加すれば、エレオノーラは正式に、王太子の婚約者として周知されることになるだろう。

 そして彼の手を取れば、このガドリエの家からも正式に出ることが出来るのだ。


 あの聡明で優しい王子ならばきっと、王子妃教育に取り組むエレオノーラの支えにもなってくれるだろう。

 

 けれど、


(ガドリエの家族と殿下と……何が違うのかしら)


 王子の目の中にはいつも、エレオノーラを可哀想だと思う色が見えていた。

 それは紛れもなく、労りの籠った、愛情からくるものであるのかもしれない。


 彼がエレオノーラを愛しく思ってくれていることは、あの王子の髪色を溶かしたようなドレスからも感じられていた。


 エレオノーラが王太子妃に選ばれることを、妹や義母、そして屋敷の者達は皆、自分のことのように喜んでいる。

 いずれこの屋敷に嫁を迎え入れる義兄にとっても、エレオノーラの行く末が決まることは僥倖に違いないだろう。


 普段、夕餐の席以外ではほとんど顔を合わさない忙しい父は、様々な噂が聞こえる王宮に居てもなお、このことについても何も言ってこなかった。

 ただ、父は後継者である義兄と違い、エレオノーラについてはほとんど何も言わない為、これに限ったことではなかったが。

 


 あの淡いドレスを着て、エレオノーラが微笑めば。

 それで全てが、くるりと美しくまとまるのだ。


 今までずっと、そうして来たように。


 けれど、


(そんなもの……糞食らえだわ) 


 父の待つ控えの間の扉の前に立ち、エレオノーラは一つ、大きく息を吐きだした。




 彼と出会ったのは、学院の図書室だった。

 どこか居心地の悪い屋敷に帰りたくなくて、もう随分以前から、エレオノーラは放課後、図書室に通い詰めだった。

 

 王子からは評判だったが、実はさして、勉強も本も好きという訳ではない。

 ただ単に、有り余る時間を潰すのに、目の前に本があっただけのことだった。


 その日も確か、いつものように分厚い本を読みながら、あてもなく時間を潰していたのだった。

 もう何周目かになるその本は、シリーズで、いずれも時間のかかる分厚さが丁度良くて気に入っている。


 人気の少ない図書室の、いつもと同じ4人掛けのテーブル席を独り占めしていたエレオノーラがふと顔を上げると、目の前に、見慣れぬ美しい青年が座っていた。


(確か、隣国からの……)


「その本を実際に読んでいる者に会うのは初めてだな」


 そう言って楽しそうに笑う彼は、艶やかな黒髪に切れ長の目が美しい容姿と、その侯爵という身分も相まって、ここ最近、女生徒達の噂の的である青年だった。


 隣国から短期間、留学してきたという彼は、名をシルヴィオと名乗った。




 王宮の大広間に続く扉の前で、父と並んで入場の順番を待っている。

 子爵位であるガドリエが呼ばれるのは最初の方だから、控えの間で、父と言葉を交わす時間は殆ど無かった。


 父は、現れたエレオノーラの姿を見ても何も言わなかった。


 今宵の夜会で自分の娘が、王太子の婚約者として披露される予定であることを知っているだろうに、何も。


 それでいい、とエレオノーラは思う。


 父に何かを、家族として期待する気持ちは、エレオノーラの中にはもうない。

 それでもここまで、自分に金をかけ、学院に通わせ、育ててくれたことには感謝している。

 例えそこに愛や関心がなくとも。 


 歩み寄ろうとしなかったのは自分だって、同じだったのだから。



 扉が開かれ、扉の横に立つ官吏が、ガドリエの名を高らかに呼ぶ。

 まるで朝日が差し込むように、開いた扉の間から、広間の明かりが煌々と自分達を照らしている。

 父の腕に手を添えて、歩き出そうとした時だった。


「……お前は、」


 いつもと同じように疲れた顔の父が、そっと呟いた。

 それはこちらに聞かせようとしていると言うよりも、漏れてしまった、というような声音だった。

 

「お前は彼女の……アグネリアの、娘だったな」


 思わず、隣を振り仰いだエレオノーラを、父であるガドリエ子爵は見てはいなかった。

 そっと視線を前に戻し、これだけを告げる。


「ええ、そうですわ。私はお母様と……お父様の娘です」 


 この人の記憶に、かつての母の姿があったことを抱きしめて。


 ウエストラインを深く絞ったドレスを身に纏ったエレオノーラは、最後の夜会へと踏み出した。

 肖像画の母が着ていたのと同じ、深紅のドレスで。




 王太子殿下に婚約の辞退を告げたエレオノーラは、一人、人気のないバルコニーで夜風を浴びていた。


 赤いドレスを纏って現れたエレオノーラに、王子もその周囲も皆、驚きを隠せなかった。


『エレオノーラ……?その姿は……』


 そこにいるのは、優秀な兄妹の陰で控えめに微笑む淑女などではない。

 いつもは束ねている黒髪を緩やかに波打たせ、ドレスに負けない、赤く引いた紅で艶やかに微笑む、大輪の薔薇のような令嬢である。


 黒髪で浅黒い肌の自分の容姿は、こうして同じドレスを着るとなお、エレオノーラ自身も驚くほど、肖像画の母と瓜二つだった。


 視界の端で、ガドリエの家族達が、王子と同じような表情をしているのが見えていた。

 義兄のルーファスなど、驚きで目を見張った視線を隠さないものだから、エレオノーラは場違いにも、笑い出してしまいそうだった。


(後の処理はきっと、お父様が何とかするでしょう)


 王宮官吏であるし、それに、歴史の旧い子爵位を継いだ父の手腕は、名ばかりのものではないはずだった。

 きっと綺麗に、王太子妃の打診のことなど、初めから、なかったことになるだろう。



「エレオノーラ」


 若い青年の声に、エレオノーラは振り向く。

 いつもと違う雰囲気の自分に、それでも目の前の青年、シルヴィオは、迷いなくエレオノーラの手を取った。


「シルヴィオ様はどうして、私のことが分かるのでしょうか」


 先ほどの周囲の様子を思い出して、ふと漏らした言葉に、シルヴィオがその緑の目を瞬かせる。

 そしてごく当たり前のような調子でこう言った。


「それは勿論、君を見ているからだな」


 そして黒いジャケットの胸元から取り上げた赤薔薇を、エレオノーラの耳元に挿してくれる。


「思った通り。赤薔薇の方がずっと、君に似合う」


 かつてエレオノーラの溜め息を指摘したのと同じ、楽しそうな笑みで、シルヴィオがそう告げてくる。


「ええ、私も、赤薔薇の方がずっと好きですわ」 

 



 度々、女生徒を躱すシルヴィオと、図書室で顔を合わせるようになった頃のことだった。


 その時エレオノーラの手元には、午後に届けられたばかりの、王子からの手紙と白薔薇があった。

 それに目を眇めたシルヴィオは、近くの窓に寄ると、すぐ側まで迫っている蔓薔薇の茂みに手をやった。

 

 知らぬ間に握られていた小刀で、伸びた薔薇の蔓を刈り取ると、棘をさっと切り落とし、くるりと丸めて、器用に花冠を作ってみせた。


「君にはこの赤い野薔薇の方が似合う」


 差し出された蔓薔薇の赤い花は、あの母の肖像を思わせる色だった。

 目を瞬かせるエレオノーラに、そのままシルヴィオは脈絡なく、求婚の言葉を告げたのだ。

 

「ハーシャイマー戦記を淡々と捲る令嬢が、控えめな淑女などである訳がない。あれは小国が強国を打ち破るために、何代も知略を巡らせる話だろう。他者の理想に収まるなど、エレオノーラ、君が勿体無い」

 

 突然の申し出に驚く自分に、シルヴィオはいつになく真剣な表情でそう言った。


 その時初めて、エレオノーラは、自分の絶望が何かを知ったのだ。



(白薔薇が似合う淑女なんて、本当は初めから……いなかったのだわ)


 あの眩しいほどの王宮を後にして、暗い夜道を馬車に揺られながら、エレオノーラはその時のことを思い返していた。


 このまま馬車は、隣国を目指して国境を越える予定になっている。

 ずっと気にかけてくれていたジェーンを置いていくのは忍びなかったが、それはシルヴィオが、向こうに落ち着いた頃に、連絡できるように計らってくれると言っている。


 自室には、隣国へ行く旨の手紙と一緒に、ガドリエの籍を抜くための申請書を置いてきた。

 今日のあの父の様子なら、何となく、追っ手は寄越さないように感じている。


 この国を離れることに未練はないが、それでも他国へ渡ることに、恐れがないと言えば嘘になる。


(けれど)


 目の前でこちらを見ている、緑の瞳の青年が、目が合ってにやりと微笑んだ。

 侯爵令息にしてはやや粗野な印象の笑みは、どこか野生の獣を思わせるシルヴィオに、よく似合っている。


 彼が側にいる生活なら、おそらく、本を読んで時間を潰すような暇はないだろうという気がしている。



 この先、待ち受けているのが例え茨の道でも。


(好きでもない色を纏って、生きて行くくらいなら)


 自分の望む色を纏って微笑む方が。


 どんなにか幸福だろうと。

 深紅のドレスの裾をなぞって、エレオノーラはそう、思うのだ。



私的「虐げられた令嬢の物憂げな溜め息」


多分ダニエルが書いているものは、もっとロマンス色が強いはず。

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