㉒ダニエルの場合
さぁ今日も、婚約破棄のお時間です。
「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」
自身の婚約者が、その金髪の髪を揺らしながら自分にそう告げた時、ノリス子爵令嬢ダニエルは、
(これは……使えるわ……!)
と、そんなことを思っていた。
「自分の婚約破棄の最中にそんなことを思えるなんて、さすがは“アンリエッタ”大先生ね」
エレノアがその美しい顔に、呆れ混じりの笑みを浮かべてそんなことを言う。
“元”婚約者とはまた違った色の美しい金髪が、今日も艶々と光っていて麗しい。
「だってこんな小説みたいなこと、自分に起きるなんて思ってもみなかったんだもの……!」
そう答える自分の髪は、栗色でも榛色でもなく、焦茶としか形容出来ない、ひどく凡庸な色をしている。
ダニエル自身、十八年間見慣れてきた自分の容姿に、さして期待はしていないが、目の前の友人を見れば、時折、溜息は吐きたくなる。
目の前の少女のその白い肌、紅を塗ったわけでもないのに赤く色づいた唇、金色が眩しい豊かな髪。
こうして二人の場で見せる、お茶会の時よりも気楽なデイドレスを纏っていてもなお、物語の主人公かくやという容貌のエレノアは、それでもダニエルの自慢の友人だった。
「でもエレオノーラとシルヴィオは、二巻で想いを伝えあったのではなかったかしら?今さら婚約破棄なの?」
「大丈夫!二人はちゃんとハッピーエンドよ。だからこれは次作に活かすつもり」
「でもシルヴィオがこのまま幸せになるのは業腹ではあるわね。結婚した後、シルヴィオが謎の事故で命を落とすのはどう?」
「うーん、新婚の夫を殺すのはちょっと……」
自分達の主人の美しい顔から発される物騒な言葉にも、室内に控えるエレノアの侍女達はぴくりともしない。
「でも遂に終わりなのね……最終巻、楽しみにしていてよダニエル。一冊目は勿論私が買わせていただくわ」
「ありがとうエレノア。もう大体書き上げてあるの。あと少し手直ししたら完成よ」
子爵令嬢エレオノーラと侯爵令息シルヴィオ。
この二人は、ダニエルが“アンリエッタ・アシュバートン”名義で出している恋愛小説、「虐げられた令嬢の物憂げな溜息」の登場人物達である。
顔だけは素晴らしくよかった“元”婚約者をモデルとした侯爵令息シルヴィオが、周囲に虐げられていたヒロイン、エレオノーラを見初め、身分や困難を乗り越えて結ばれる、少女向けの物語だった。
王子様のような絶対に届かない存在ではなく、あくまで、美貌の“侯爵”令息であるところがポイントである。
実際には、王子どころか侯爵位の令息に見初められることだって、ほぼ有り得ない設定であるし、現実の婚約者は子爵家だったけれど、ちょっと夢が見られるくらいが丁度良いのだ。
すでに二巻まで発売されていて、最後の一巻が今度出版される予定だった。
「それでダニエル、貴女、自分のことはどうするつもりなの?」
本来学院でもクラスが分かれていて接点のない、侯爵令嬢であるエレノアと、子爵令嬢であるダニエルを結びつけたのもこの小説だった。
「今日この後、両親と今後について話し合う予定なの。多分だけど、遠縁のどこかに嫁ぐか、修道院か……どの道、一旦領地に帰ることになりそう」
名前から分かる通り、ヒロインである“エレオノーラ”のモデルは、この目の前の美しい侯爵令嬢エレノアその人だった。
たまたま、学院の図書室の机の上に、書きかけの小説を置いて資料を探していたところ、自分によく似た名前を見つけたエレノアが、そのノートを手に取ったのが交流の切っ掛けなのである。
『貴女、これ』
『大変っ申し訳ありませんっ、ヴィヴァルディ侯爵令嬢様……!』
まさか憧れの同級生本人に見られるとは思わず、全身から血の気が引いたダニエルが、見られたことへの照れも羞恥もぶっ飛んで、平謝りしようとしたところ、
『続きはあるのかしら?』
『えっ?』
そこから、侯爵家のしきたりや内情の情報提供から、侯爵家の事業の一つである出版社の紹介、そして謎の作家“アンリエッタ・アシュバートン” のファン第一号として、ずっとダニエルの執筆を後押ししてくれたのだった。
『貴女のペンネーム、“アンリエッタ”って随分仰々しい名前ね?』
『私の名前の“ダニエル”って男名でしょ、愛称だって昔から“ダン”だし。“エレノア”とか“リーシア”とか“ヴィオレッタ”とか、そういう綺麗な名前にずっと憧れていたの』
『“ダニエル”も十分、可愛らしいじゃない』
『ううん駄目よ、だって夢のある話を書くんだもの、女の子が憧れるような、ときめきの詰まった名前じゃなくっちゃ!』
そうして出した少女向けの小説は、お陰様で少ないながらもファンがつき、細々と書き続けられてきた。
それもこれも全て、目の前の美しい友人のお陰である。
「ダニエル、小説は書き続けるんでしょう?」
「うーんどうかしら、領地に戻ったらきっと、なんやかんや手伝いに駆り出されるし、領地持ちの方と結婚したら、きっと忙しくなるだろうし……難しいかもとは思ってるの」
元婚約者は子爵位だったが、領地を持たない貴族家だった。
だから結婚しても、治める領地が無い分、妻である自分の負担も少なく、住まいも、この王都の貴族街に住み続けることになっただろう。
そうであれば小説を書き続け、何かしら理由をつけて、こっそり出版社に行く機会を作ることだって可能だったはずだ。
最後まで心の通わない婚約者ではあったが、そもそも貴族の結婚とはそういうものであるし、何より、ダニエルには都合が良かったのだった。
婚約期間の五年間、素っ気ない手紙もおざなりの茶会も、小説のモデルとして十分に活用させていただいている。
けれどダニエルの新たな婚約相手が、領地持ちの貴族であればそうはいかないだろう。
(いっそ修道院だったら……小説を書く時間が取れないかしら)
地方の修道院に行ったとしても、書き上げたものをエレノアに送れば、喜んで仲介してくれるだろう。
エレノアはあと二ヶ月で学院を卒業したら、二つ上の侯爵家の令息を婿に迎えることになっている。
一度夜会で挨拶したことがあるが、美しい友人に似合いの、青い黒髪が美麗な落ち着いた青年だった。
(今までがきっと、恵まれていたのよね)
貴族家の一令嬢でしかない自分にとって、自分の行く末への希望など、単なる我儘に過ぎないことは分かっている。
(攫ってくれるヒーローだって、希望通りとは限らないわ。小説なんてくだらないって、“シルヴィオ”だって、現実には言いかねないもの)
現実は、小説のように甘くは無い。
けれどだからこそ、自分を支えてきてくれたのだと思うのだ。
「エレノア、私そろそろ帰らなきゃ。これから家族会議だし、最終話の続きも仕上げなくちゃ。いつもありがとう」
「ええ、ダニエル。困ったことがあったらいつでも連絡して頂戴。私が“アンリエッタ・アシュバートン”、貴女のファンだってこと、忘れては嫌よ」
「分かってる、アンリエッタのファン一号は永遠に貴女よ。“麗しのエレオノーラ”」
そう言って笑い合える友がいてくれることに心から感謝して、ダニエルは豪奢で壮麗な侯爵家の邸宅を後にしたのだった。
もう何度目かになる下町の大通りを、ダニエルは辻馬車に揺られながら、馴染みの出版社を目指していた。
同乗している侍女のポリーが毎度こっそりと手配してくれるこの馬車は、一番初めに利用した際に奮発した心付けが効いたのか、最近では同じ御者が担当してくれている。
昨晩は原稿の最後の見直しをしていた所為で、夜が遅くなってしまった。
ガタガタと石畳に揺れる馬車が、揺籠のように睡魔を誘ってくる。
随分と市街地の道の整備が進んでいるようだった。
以前は貴族街と比べ、石の凹凸が酷く、土が剥き出しの道が多かったものだが、第三王子殿下が進めている公共事業のお陰で、辻馬車の硬い座面でも、こうしてじっと座っていられる位の道になっている。
あまり功績を上げすぎても厄介だからその塩梅が難しい、とご本人が嘆いているらしいとは、王家の茶会に顔を出す機会があるエレノアの弁だった。
ダニエルなど、皆の暮らしが便利になればそれで良いと思うのだが、そこはやはり、高貴な方ならではの悩みがあるのだろう。
微睡みながらダニエルは、先日の両親との会話を思い出していた。
結論から言えば、ダニエルの処遇は保留ということになった。
一月後に学院を卒業した暁には、一旦領地に引っ込んで、その間に新たな婚姻相手を整えるという、状況的にはさして進展はしていない。
それでも両親は、どこかの成金の後妻に嫁げ、というようなことは言わなかった。
上手く関係を築くことの出来なかった前の婚約に対しても、ダニエルを責めるようなこともなかった。
それがどんなにか有難くて、そして少し苦しい。
元婚約者は早々に違約金を支払って、長らく懇意だったらしい伯爵令嬢と新たに婚約を結んでいるらしい。
両親はここしばらく部屋に篭りきりのダニエルを見て、前の婚約のそんな顛末に、傷付いていると思っているようだった。
そんな両親に、この五年間、不仲の婚約者をノッリノリで小説に書いていたなんて……そしてその執筆が佳境を迎えているなんて……とても言えやしない。
ましてや公に、書籍として出版しているだなんてこと。
(いっそバレたら、勘当からの修道院……いいえ駄目よダニエル、二人を悲しませるなんて)
一つ小さく溜息をついて、薄汚れたガラス窓から下町の通りを見つめる。
見慣れた街並みは、もうまもなく出版社のある通りに差し掛かるところだった。
手に抱えた原稿の入った封筒をそっとなぞって、ダニエルは、先の見えない自分の未来を、一旦引き出しに閉まっておくことにした。
仕切りの向こうから、来訪者を告げるベルの音、紙の擦れ合う音や行き交う人の足音が、絶えず聞こえてきている。
いつ来ても賑やかな編集室の片隅の、使い込まれた応接セットのソファに座って、ダニエルはお茶を飲んでいた。
ダニエルの本を担当してくれているのは、エレノアの縁戚の、父よりも少し若いくらいの夫人だった。
働いている女性自体がまだまだ珍しいこの国で、同性の彼女が自分についてくれたことも、この出版の幸運の一つだったと思う。
その彼女が、人を呼んでくると言って席を外してから、少し経った頃だった。
「あのっ、は、初めまして」
ガチガチに緊張した様子の、青年と呼ぶには幾分若い少年は、名をルカロ・ブレグリーと名乗った。
(ブレグリー……ブレグリー伯爵家と言えば、エレノアのヴィヴァルディ侯爵家の寄子、だったはず。あそこは確か、長子が女性で……ルカロ様は弟ね、齢は十六だったかしら)
貴族年鑑を頭の中で捲って、目当てのページを捻り出す。
登場人物の設定や名前の参考にする為、頻繁に父の執務室から拝借している所為で、父の補佐官には最近、些か不審な顔をされている。
「あの、不躾に申し訳ありません!実は、あの、プレスコット夫人にお願いして、このようなお時間をいただきました」
プレスコットというのが、ダニエルの担当である夫人の名前である。
出会った時から、親の庇護の下にある年若いダニエルを侮ることもなく、年長の者として親身になってくれる彼女が了承済みということは、この面談にも何かしら意味があるのだろう。
今日もさっき、ダニエルの婚約破棄に伴う“アンリエッタ”の行く末を、酷く残念に思ってくれているようだった。
「あの、実は私には姉がおりましてっ、その影響で小説を読ませていただきました!実はあの、アンリエッタ・アシュバートン先生のファンです!」
「!……そう、ですか、それはありがとう存じます」
年下の、それも異性だからと完全に油断していたところへの、思わぬ一撃だった。
実際に自分の小説を読んでくれたという読者に会うのは、エレノアを除けば初めてであった。
「『虐げられた令嬢の物憂げな溜息』の最終巻、本当に楽しみにしています!あと、あの、去年出された『瑠璃色の風と令嬢の、
「あああありがとうございます!あの、タイトル連呼はそのくらいで……!」
自分でつけたタイトルとはいえ、異性の声で音読される羞恥心は相当なものだった。
ファンレターではない、初めて聞く生の感想に、嬉しさと同時に恥ずかしさが込み上げてくる。
(……当たり前だけれど、男性にも読まれていることもあるのよね……!)
あの少女趣味全開な小説を、同じ歳くらいの異性に読まれているという事実が衝撃的で、受け止めるのに時間がかかりそうだった。
「すみません……!嬉しくて、あの、あの『瑠璃色の風』の主人公の悩みに、すごく共感するところがあって……あの、アシュバートン先生の、ノリス様の本は、恋愛だけじゃなくて、主人公達が皆一生懸命生きているところとか、夢に向かって頑張っているのが、すごく励ましてもらっていて、」
顔が赤いだろう自分にも負けないくらい、目の前のルカロ少年の顔も、真っ赤に染まっている。
そうして紡がれる言葉の一つ一つが、静かに、ダニエルの胸の奥に降り積もっていくようだった。
(こんな風に、思ってくれている人がいた)
侯爵令嬢であるエレノアとは、学院を卒業したら頻繁に会うことは出来なくなる。
五年間、手紙や茶会で必死にダニエルが話しかけても、その努力だけでは、自分の将来だってままならない。
階級も結婚も、この世界は、どうにもならないことばかり。
けれど現実が、どうしようもないからこそ、今を少しでも楽しめるようにしたい。
そう思って書いてきた自分だけの物語は、こうして誰かに届いているのだ。
「……こちらこそ、読んでくださって、ありがとうございます」
ルカロの悩みがどう言ったものかは分からないが、かつてダニエルが、婚約者にすっぽかされて空いた時間を、図書室の本に救われてきたように、何かしらが彼の心を温めたのならば。
自分の拙い物語も、この数年間も、その全てに、きっと意味があったのだ。
(書いて、良かった)
この先もう二度と書く時間を持てなくても。
きっとこの時のルカロの言葉と、この赤い顔が、自分の心をずっと温めてくれるだろう。
「すみませんっ、あの、本題はこれじゃなくて!いやこれもお伝えしたかったんですけれど」
ルカロの格好は、伯爵家の令息にしては簡素な様子で、どうやらここへは日頃から手伝いに来ているらしいというのが、ダニエルにも分かった。
先ほどまでとは違う雰囲気で言い淀む少年の様子に、
(今後の契約が取りやめとか……?)
仕事上の話だろうかと、ダニエルが内心、訝しんでいた時だった。
「あの、実はまだ、僕、婚約者がいないんです。姉が伯爵位を継ぐので、僕は男爵位を貰うんですけど、あの、でも領地がないのでその方が負担にならないんじゃないかなって思っていて!学院を卒業後は、この出版社で働くことになっていて、だからあの」
一気に喋って息が続かなくなったのだろう、苦しそうな彼の言葉が、唐突に終わった。
年頃の少女であるダニエルにも、いつか自分の伴侶に、人生で一度くらい、気の利いた愛の言葉を囁いて貰いたいという憧れはあった。
物語の中でヒーローは、いつだってヒロインに、スマートに愛の言葉を囁くものだった。
でも、自分に向けて、辿々しく紡がれた言葉が、こんなにも嬉しいとは知らなかった。
涙が滲みそうな気配がして、ぐっと唇の端を噛んで耐える。
今目の前にいる真っ赤な顔の少年を、不安にさせたくはない。
「あの、一度ノリス家で、父と母に会っていただけますか」
ぱっと弾かれるように顔を上げたルカロが、
「勿論です!ブレグリーとして、父とちゃんとご挨拶に伺います!」
破顔したルカロは年相応の、自分よりも年下の少年で。
けれどこちらを見つめるその青い瞳は、はっとする程美しかった。
運命の恋人に、目が合った瞬間に攫われる、そんなことは現実には起こらない。
実際のところは、手順を踏んで人柄を知って、その先にも、面倒な手続きや両家の顔合わせ、条件の擦り合わせや契約など、現実的なことが山のようにある。
それでもその先にだって、ロマンスはあるのかもしれない。
これで良い、ではなく。
これが良いという運命が。
誰にでも本当は、こうして待っているのかもしれない。
(まだ、恋になるかどうかも分からないけれど)
自分の中から、どうしようもなく込み上げてきた感情に突き動かされて、ダニエルは口を開く。
あの時、本当は元婚約者にも言えなかった言葉を。
「あの、すみませんブレグリー様。本当に、本当に申し訳ないのですが」
ダニエルの真剣な様子につられるようにして、目の前のルカロが、やや緊張した面持ちで、背を伸ばして座り直した。
その青い瞳が、自分を真っ直ぐに見つめている。
「は、はい、何でも言ってください!」
「メモを」
「はい?」
「メモを取らせてもらっても良いですか……!」
(この気持ちを、書き留めておかないと……!)
そうして猛然と、次回作のメモを認める少女と。
憧れの作家の創作を目の前にして、感無量の少年と。
側から見れば随分と、すでに似合いの二人だった。
この世は全てネタの宝庫。
「虐げられた令嬢の物憂げな溜息」を実作しようと試みて撃沈しました。




