⑲シシリーの場合
こんな婚約破棄はいかがでしょう。
「貴女との婚約は無かったことにしてもらいたい」
「えっ」
「え?」
「…あの」
「はい?」
「私達って婚約しているんですか?」
「…えっ」
「えっ?」
そうして顔を見合わせたのは、今日が初めましてとなる一組の男女だった。
「申し訳ありません!大変失礼なことを…!」
そうやってさっきからひたすら頭を下げているのが、私、シシリー・ホーン。
これでも歴とした男爵令嬢である。
「いいえとんでもありません。俺の方こそ、確認不足で申し訳ない」
その前に座り、ひたすら恐縮してくださっているのがクロード・ダナティス様。
左側に剣を携えた、短く刈った榛色の髪に精悍な顔つきの、二十代前半の若い騎士様である。
「いいえそんな、ダナティス様の所為ではありません!それもこれもすべて、あの父が悪いのです…!」
代々薬を商いにしているホーン家の、シシリーの父である男爵が、その商売先の一つである我が国の騎士団と懇意にしていることはよく知られている。
商品を届けるついでに飲みに行っては、べろべろになって騎士の皆様に送り届けていただくことが、恥ずかしながらホーン家の日常であった。
そんな父が、一人娘のシシリーの婚約を、勝手に酒の席で取り付けていたのだという。
その相手がクロード・ダナティス、先ごろ騎士爵を拝命したばかりの、将来を期待される若き騎士。
すなわち目の前に座る彼であった。
「どうやらうちの団長が、お父上であるホーン男爵と盛り上がったようでして。書面になっていたので、恥ずかしながら信じ込んでしまいました」
書面は酒宴に同席していた王宮の文官が、勝手に気を利かせたのだという。
「それは信じて当たり前ですよ!そんな、書面にまでなっているなんて、あのバカ親父…!」
普段はきちんと令嬢の皮を被っているシシリーも、思わず暴言が口をついて出てしまう。
まだ貴族院には提出されていなかったのが不幸中の幸いであった。
けれどその父が、翌朝全てを忘れ去っていた所為で、冒頭の問答になってしまったのだ。
酒好きの父がやらかした失態は数知れず。
ただ幸いなことに、命に関わったり家業を傾けるような失敗はなく、それどころか大口の発注を取り付けてきたりで、周囲も笑って大目に見ていたのだ。
しかし今回、シシリーが当事者とあっては、呑気に笑ってもいられないのであった。
とりあえず、自分を落ち着かせるために、侍女のミーナが淹れてくれた茶を勧める。
それをお互い口にしたところでクロードが、
「婚約がないと知って、返って幸いでした。どうぞホーン嬢もお気になさらずに。これで何の憂いもなくなりましたので」
「どうぞシシリーと。騎士爵を辞して、郷里にお帰りになられるということでしたね」
この若さで騎士爵を賜るなど、並大抵のことではない。
その上、近衛にも推薦されていたというから、その優秀さが窺える。
王家の身の回りを護衛する近衛には、剣の腕だけでなく、その見目も重視されることが多い。
クロードは、王都で流行りの線の細い美形ではないが、端正な顔立ちできっと見栄えがしただろう。
「では私のこともクロードと。最近また、野獣の活動が活発になっているようでして。あっちはいつでも人手不足ですから」
クロードの郷里であるという辺境は、この王都から、馬の足でも一月近くかかる場所にある。
その地で代々、領主の騎士を務める家の出身であるらしい。
騎士爵は基本的に一代限りで世襲制ではないため、こうして王都に出て来たのだと言う。
「そのまま、爵位をお持ちになったままでよろしいのではないですか?」
「そうですね、皆にもそう言われます。けれどこれもケジメですから」
近衛として勤められない以上は、ということらしい。
さっぱりとした物言いには未練などなく、心底そう思っているらしいことが窺える。
どうやら見た目通りの、真っ直ぐで爽やかな為人らしい。
(上司が酒の席で整えた婚約を、律儀に断りに来てくださるくらいだもの)
商人としては如才ない、あの父が惚れ込むわけである。
「クロード様、よろしければどうぞこちらをお持ちください」
騒がせて申し訳ない、と辞去しようとしたクロードを引き止めて、シシリーは手のひらよりも少し大きい、銀色の丸い缶を差し出した。
「これは?」
「いつも騎士団でご利用いただいている軟膏です。私が調合しているものなので、少し市販のものとは違いますが」
「ああ、あのホーン印の傷薬ですね。これには本当に、いつも助けられています」
騎士団にも数多く卸しているホーンの名を冠した軟膏は、傷にも打ち身にもよく効く自慢の逸品である。
さらにこれは、薬師でもあるシシリー自らが調合したオリジナルだった。
「良かったらこの調合のメモもお持ちください」
「いいのですか?このように貴重なものを」
「ええどうぞ。ご郷里では、出回る数にも限りがあると思いますし」
王都の品が届きにくい辺境では、そういった物資も品薄になりがちだろう。
ホーン家でもいくつかの商会に卸してはいるが、輸送費もかかるし、きっと割高になっているに違いない。
代々のレシピではないシシリーのオリジナルだから、きっと父も許してくれるはずだ。
「本当に、何よりの土産です」
胸に染み入るような声音に、こちらまで胸が熱くなるようだった。
きっと、色々な覚悟を持って、彼は郷里に帰るのだろう。
「いいえ…この国を守ってくださっているのは皆様ですから」
それはホーン家の薬師が、代々言われて育つ言葉だった。
父も祖父から、シシリーはその父から。
この地を守る兵士達へ、礼儀と尊敬を忘れてはならぬと。
だからこれは、辺境へ帰る一人の騎士へ、せめてもの餞であった。
「これは…何か花でしょうか、懐かしい匂いが」
缶の蓋を開けたクロードが、訝しげな顔をする。
「はい、フィラネルの花の花粉と花弁を混ぜたものです。いつものよりもよく効きますよ。レシピでは、花がなくても作れるようになっています」
「フィラネルですか、懐かしい。郷里ではよく、群生した花に飛び込んで遊んだものです」
「えっ」
「え?」
「えっ?あの、え、もう一度お願い出来ますか」
「…飛び込んで遊んだものです?」
「花に?」
「ええ、そうです」
「フィラネルの?」
「そうです、ダナティスの領地の一角に」
「群生してるんですか?!」
亜麻色の髪を乱しながら詰め寄って大声を上げたシシリーに、目の前のクロードが固まっている。
申し訳ないが、それどころではなかった。
「あの、すぐに場所を教えてください!!」
フィラネルは時に、金よりも高値がつくほどの貴重な素材である。
花弁、花粉、その葉や根も含めて、どこも捨てる所がない程素晴らしい材料でありながら、乾燥した物ですら滅多に市場に出回らない。
生のフィラネルは足が早く、自生場所も過酷な地が多いことから、半ば幻のように言われている花なのだった。
ホーン家でも過去、この王都の地で栽培を試みた文献が数多く残っており、その存在自体が悲願だった。
「ああ、どうしよう、とりあえずお父様に連絡だわ。ミーナ!お父様に早馬を。それからクロード様のご生家にも連絡を、その前に契約書が、」
「シシリー嬢、とりあえず、一旦落ち着いてください」
状況を把握したらしいクロードが、冷静に声をかけてくれる。
「申し訳、ありません」
とりあえずソファに座り直したものの、バクバクと動悸が収まらない。
「それほど貴重なものだったのですね。子供の頃から見慣れていたので、よもや、そのように貴重なものだとは」
「見慣れる程あるんですか…!あくまで私の体感ですが、普通の塗り薬の三倍は効くと思います」
「!そんなにですか」
「ええ、きっとホーン家を挙げて、調査隊を派遣することになると思います」
希少さ故、あまり注目されていない素材だが、その分まだまだ試してみたい処方が幾らでもある。
息巻くシシリーを見て、ふっと笑みを浮かべたクロードが言う。
「分かりました。詳細はホーン男爵にお伝えいたしますね」
「いえ直接私がお伺いいたします。多分、私が現地に参りますので」
「えっ?シシリー嬢が、辺境にですか?」
心底驚いた様子の彼に、
「実地調査の指揮を取らねばなりませんし、ずっと、ずっと実際の生育状態を見てみたいと思っていたのです。きっと、栽培のヒントが得られるのではないかと…!」
街道が以前よりも整備されてきたとは言え、領地を持たない貴族の中で、王都から出たがる者は滅多にいない。
ましてや行き先が辺境など、一生、その地を踏むことのない者の方が多いくらいだろう。
けれどフィラネルのためなら、どんな過酷な旅路でもきっと乗り越えて見せよう。
気合い十分なシシリーに、呆気に取られた顔のクロードが、思わずといった様子で呟く。
「どうしてそこまで…」
その静かな調子に、この数分の自分の慌てぶりを思い出し、にわかに恥ずかしくなってくる。
自覚したら、急に頬に熱が集まってきたような気がする。
「あの、ばあやの手が荒れていて、」
語る言葉が自分の事になると、恥ずかしさも一層で。
自然、視線も伏目がちになって、クロードの胸元の騎士章を見ながら続ける。
「フィラネルはすごくよく効くんです。でも貴重なので、優先的に王家や、騎士団でも特に重症者にのみ使われていると聞いています。でも本当は、もっと気軽に、使用人や孤児院の子供達でも手に取れる品になって欲しいんです」
ホーン家の定番の軟膏ですら、まだまだ貴族や騎士団など、限られた者達での使用にとどまっている。
けれど、かつて薬師であったホーン家の先祖が、国を守る兵士達への感謝から薬を作ってきたように。
その原料の畑で働く孤児の子供達や、シシリーの生活を支えてくれる身近な者達にこそ、本当は使って欲しいのだ。
「フィラネルの薬効なら、五倍、いえ十倍に薄めても十分に、その効力が感じられるはずです。手荒れやあかぎれ、冬のしもやけや、ちょっとした擦り傷にだって気軽に使える薬になるんです」
医者にかかることなど滅多にない、平民達のお守りのような存在にだってなれるだろう。
勿論、生傷の絶えない騎士達にも存分に使ってもらいたい。
話している内に段々と、声音に熱が籠っていく。
気付けば目の前のクロードを、睨みつける様にして語ってしまった。
「すみません、あの、勝手に語ってしまって」
今更のように我に返って慌てる自分を見て、ふっと息を吐くように笑ったクロードの笑みは美しかった。
「いいえ…私が騎士になったのも、自分の生まれたあの地を守りたかったからなんです。高貴な方や国を守るよりも本当は、共に遊んだ友人や、屋敷で働く使用人達、井戸端に集う町の者、そんな身近な誰かをこそ、守る剣でありたかった」
その青い瞳が見ているのは、きっと彼が生まれた辺境の地。
そこに住まう、彼の守るべき大切な者達なのだろう。
「それを今、貴女が思い出させてくれました」
ありがとう、と続いた感謝の言葉に、何故か分からない涙が溢れた。
立場も役目も、何もかもが違っているのに、けれど彼が目指すものは、シシリーのそれと地続きのように感じられて。
まるで同志が出来たような連帯感が、知らずにシシリーの心を熱くしたのだった。
そうして、ようやく叶ったシシリーが率いる調査団の出発の日。
護衛として現れたのは、疾うの昔に辺境に発ったはずのクロードだった。
その姿を認めて、驚きに口が開いたままのシシリーに、
「護衛を、探されていると聞いて志願しました」
「えっ」
聞けば一度辺境に帰り、そこからわざわざ迎えに来たのだと言う。
向こうですでに、独自の調査隊も組織して、後はシシリーの到着を待つばかりだとか。
「わざわざ、申し訳ありません」
今日のシシリーは色気のない、貴族令嬢とは気付かれないよう工夫した、簡素な男性服を纏っている。
旅の間中、現地に着いてからもきっと、この格好でクロードを伴うことになるだろう。
あの日の出会いからずっと、年頃の令嬢にあるまじき、恥ずかしい姿ばかり見せてしまっている気がする。
「いえ、この日を心待ちにしていました。貴女と、あのままお別れするのは惜しいと、そう思っていましたから」
そう言って柔らかに微笑む姿は、以前屋敷で向かい合った時よりも伸び伸びとして、きっとこれが本来の彼なのだろう。
まるで、初めて出会う青年のようで。
頬に熱が集まってきたのを感じて、思わず視線を彷徨わせるシシリーの耳に。
楽しそうなクロードの笑い声が、明るく響いたのだった。
婚約自体、未成立だったパターンでした。
パパはちゃんと分かってる。




