⑱リアムの場合
お待たせしました、初回の彼の登場です。
「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」
その言葉を聞いてリアムが感じたのは、うっすらとした、けれど紛れもない不快感だった。
美しい刺繍を紡ぐ優秀な職人の腕が、不当な値段で買い叩かれているのを見た時のような。
自分がその価値を認めたものが、見る目のない他人によって、不当に扱われた時に感じる怒り。
彼女の価値が分からない者に、そんな言葉を発する資格など、あるはずがないのに。
「すまない、少し良いだろうか」
煌びやかな光に満たされた広間で、リアムは自分を引き留める声に振り向いた。
今宵、隣国で開かれた夜会に参加したリアムは、丁度商談相手が立ち去り、飲み物でも貰おうかと思っていたところだった。
「…これはテオドール様。我が国の、元ファンネル伯爵令息様でいらっしゃいますね」
振り向いた先にいたのは、薄い茶色の髪をした一人の青年。
昨年、この隣国の伯爵家の令嬢に嫁いだはずのファンネル家の次男だった。
(メアリの、元婚約者)
そして彼女に、婚約破棄を告げた男でもある。
「突然すまない。貴殿は、我が国の商人だったと記憶している。何度か夜会でも目にしたことがあったはずだ」
「はい、オーランド商会の者にございます。テオドール様の婚家である伯爵家様にも、懇意にしていただいております」
「っ、そうか、…実は折り入って頼みがあるのだ」
一瞬何かに怯んだようなテオドールが、きょろきょろと落ち着かない様子で周囲を気にしながら、それでも言葉を続けてくる。
煌々と炊かれた広間の灯りに照らされた髪が、金色に透けて美しい。
けれどその顔色と言葉の端々には、何か切迫した様子が感じられた。
「頼む、私をこの国から連れ帰ってくれ…!」
青い顔で告げられた言葉は思いもよらぬもの。
「テオドール様は確か、一年前にこちらへ、婿入りされたと記憶しておりますが」
「そうだ、しかしそれが間違いだったのだ。こんな事になるとは…思っていなかった」
語尾が萎れていく様子は、相当参っているようだった。
見れば、整った貌のその目の下には、くっきりと濃い隈ができている。
色艶のいい頬や髪、見るからに手を掛けられていることがわかる様子とは、どこか歪な印象だった。
「もう耐えられないのだ、こんな生活には」
「テオドール様?」
「この国にはもう居たくないのだ…こんな、こんな…!妻に夫が、五人もいる生活など…!」
それは悲痛な、何かを振り絞るような声音だった。
テオドールの悲痛な叫びを聞きながら、リアムは緑の目をそっと眇める。
そう、この国では、一人の妻が複数の男性を娶るのは珍しくない。
その逆もまた然りで、複数の妻を持つ男性も多いのだった。
先ほどのテオドールの言葉を聞く限り、そのことを知らなかったのだろう。
(国が違えば、文化も慣習も違うのは当然だろうに…きっとそんな事、思いもよらなかったのだろうな)
かつて、メアリのラザフォード子爵家との婚約を一方的に破棄し、この隣国の伯爵家に乗り換えた時も、相手の爵位が上がった、くらいに思っていたに違いない。
「頼む、帰る時に俺も一緒に」
「それは難しい相談でございますね」
「…!そんなことを言わずに、頼む!」
「テオドール様、この隣国では、婿や嫁はその家の所有物とみなされます。それを勝手に国外へ持ち出したとあっては、我がオーランドが罰せられます」
テオドールの身を飾る豪奢な刺繍入りの衣装や、以前よりふっくらとした顔つきを見れば、金をかけられていることは明白だった。
その内情がどうであれ、見た目には、恵まれた婿にしか見えない。
「…では、貴殿は誰か、あの国で私の知り合いを知らないか?その者に手紙を届けてくれるだけでもいい」
「残念ながら、ファンネル家とはお付き合いがございませんでしたので」
商談用の笑みを浮かべながら、ゆったりと言葉を返すリアムに、自分の焦燥が伝わっていないと感じたのだろう、テオドールは焦れてきた様子だった。
手入れされた茶色の髪をかき乱しながら、小さく唸り声を上げて、
「そうだ、確かメアリと、ラザフォード子爵家と取引があっただろう、彼女に手紙を届けて欲しい!」
その言葉を聞いた瞬間の感情に、どう名前をつけようか。
自分では何も変化したつもりはなかったのだが、僅かに、目の前のテオドールが怯んだようだった。
捲し立てていた言葉を噛んで、一瞬黙り込む。
「テオドール」
その隙をついたように、鈴のような声が、その背後から聞こえてきた。
「…っ!」
びくりと、大の男が身体を震わせるには、不釣り合いなほど可愛らしい声だった。
見れば、眩い白金の髪に暗い肌色の少女が、しゃらしゃらと身に付けた装身具を鳴らしながら、こちらへ近付いてくるところだった。
「あら、オーランド商会の貴方でしたの。この間の香油、大変よろしかったわ」
テオドールよりも年上のはずの彼女は、どこから見てもほんの少女にしか見えない。
まさかに、五人の夫を持つ夫人であるなどとは。
「いつもご贔屓にありがとうございます」
「あれと同じものをまた届けてくださる?出来れば早いほうが良いわね」
自らの夫のそばに寄って、その腕にするりと腕を絡ませて、赤い瞳が歌うように告げてくる。
広間の片隅とは言え、このような公の場での堂々とした様子に、内心苦笑が漏れてしまう。
彼女が口にした香油とは、オーランド商会でも人気の商品だった。
夫婦や恋人達、花街にも卸すことの多い特別な一品である。
此処は隣国、何事をも“秘めることが美徳”とされる我が国とは違うのだ。
「そういえばオーランドの貴方、最近、妻を娶られたとか。おめでたい事ですわね」
「ありがとうございます、流石お耳が早くていらっしゃる」
隣国へ来る少し前に婚姻したばかりのリアムの情報を、違わずに把握しているのは流石だった。
「お相手はお国の方かしら?」
「ええ。妻は先ごろ、七年続いた別の婚約を失いまして。私は運が良かったのです」
「まぁ物語のようね、お熱いこと」
「伯爵様の、夫君との出会いの物語には負けてしまいます」
ころころと楽しそうに笑う、若き美貌の伯爵の横で、国を超えて運命の出会いを果たしたと評判の四番目の夫は、一言も発さずに佇んでいる。
テオドールの表情の抜けた顔は、青さを通り越して真っ白であった。
「いつもながらお上手だわ。けれど貴方も、奥様を愛していらっしゃるのね」
その言葉に、自然と唇の端が上がるのが自分でも分かった。
「ええ、私にとっては。メアリは、誰よりも得難い女性です」
(さして面白い見物ではなかったが)
煌びやかな夜会を辞し、泊まる場所へ向かう馬車に揺られながら、リアムは先ほどの一幕を思い出していた。
憐れなテオドールは、最後にリアムが呟いた名前にも反応することなく、妻に手を引かれて広間の中心へと戻っていった。
何番目かの夫や妻を伴った高貴な者達に囲まれて、きらきらと眩いあの場所から、戻ってくることはきっとないだろう。
婚約中、一度メアリに聞いたことがあった。
「元婚約者に、一泡吹かせたいと思ったことはない?」
「いいえ?全くないわ。どうして?」
そう答える栗色の髪の彼女は、本当に不思議そうだった。
禍根も未練もなく、その存在ですら今思い出したという顔で。
あの未熟なテオドールが、この少女の心に波紋を起こしたくなった気持ちが、少しだけ理解できてしまった。
メアリは自分のことを、さして魅力のない普通の令嬢だと思っている節がある。
けれどリアムは、彼女と初めて言葉を交わした日のことを、今でも鮮明に覚えている。
自領の品を売り込むための方策を相談したいと、彼女は一人で商会を訪ねてきたのだった。
先に別の商談があったリアムが遅れて部屋に入った時、彼女は茶器を頭上に掲げて、カップの裏を覗いていたのだった。
「っ、申し訳ありません、無作法な振る舞いをいたしまして」
慌てて手を下げて詫びる少女に、リアムは暖かな気持ちが湧いてくるのを感じていた。
「いいえ、実は私も、よくやってしまいます」
カップや皿の裏には、その器を製造した工房の名が記されていることが多い。
少女の顔が一瞬きょとんとして、そして恥ずかしそうに微笑んだ。
笑みの形をとった黒い瞳が、勝気な印象から、少女らしい可愛らしさに変わった。
「…カタログの図版でしか見たことがなかったので、とても嬉しくて。美しい模様ですね」
「そうなんです、私も気に入っています。一つ一つ手で転写していくところなど見事ですよ」
「まぁ、工房に行かれた事がおありなのですか?」
「ええ、父について何度か。引き継がれた技術だけでなく、最近では、」
そこから本題に入るまで、ひとしきり気に入りの工房や、茶の話、そして好きな雑貨の話で盛り上がってしまったのだった。
商会で遊びながら育ってきたリアムにとって、商売は半分以上、もはや趣味のようなものだった。
国の内外を巡り、まだ見ぬ新しいもの、面白いものを見つけること。
これ以上の仕事には、きっとこの先も出会うことはないだろう。
取り扱っている商品の良さを語っている時が、自分にとっては何よりも楽しい。
そしてそれ以上に楽しいのは、その良さが伝わる相手と、それを語り合う事だった。
メアリ・ラザフォード子爵令嬢。
彼女は間違いなく、その最上の相手の一人だったのだ。
リアムが、ファンネル家との婚約を失ったメアリに求婚し、今はラザフォードとなったことを、あの様子では、テオドールが知る日は来ないかもしれない。
別に知らせるつもりは無かった。
自分にはさして、他者が墜ちていく様を見て悦ぶ趣味はない。
意味のない他者に拘うよりも、この世界の良きものを見つける方が、ずっと有意義だと思っている。
それはきっと国で待つ、新妻のメアリも同じだろう。
それでも、最後に彼女の名前を出したのは、ちょっとした意趣返しには違いなかった。
自分が良いと思ったものを、見る目のない者に侮られるなど。
(一泡吹かせたかったのは、俺か)
いずれ大陸の覇権を握ると囁かれている、オーランド商会の若き会頭。
今はリアム・ラザフォード子爵夫君となった自分の目利きに。
リアムは、自信を持っているのだ。
多分、今後出てくるR15もこのくらいになる予感です。
ちなみにルークは全然降りて来ないので、登場時期は未定です。




