⑳???の場合
この連載も二十話を迎えました。
感謝の気持ちを皆様に。
「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」
眩い広間の灯りの下で、この日のために下ろした薄い水色のドレスのスカートをぎゅっと握りしめる。
向かいに立つ青い瞳の婚約者の隣には、ピンクブロンドが華やかな美少女が一人。
彼女の腰に回された手と、すがりつくように婚約者の肩にしなだれ掛かる様子から、否応なく、二人の親密さが伝わってくる。
婚約者として初めての夜会を、ずっと、ずっと楽しみにしていたのに。
よろめいた拍子に、側のテーブルにドレスの裾が当たって、溢れたグラスや皿がけたたましい音を立てた。
「痛っ」
尻餅をついた時に庇った手が、割れたガラスに掠ったのだろう、みるみる間に手のひらに血が滲んでいく。
その向こうに、こちらを伺う自分の家族の姿があった。
蔑むように向けられた視線は冷たく、優しさなど一欠片も感じられない。
数日前、噂になっていた婚約者の不貞を相談した時もそうだった。
「お前が、手綱を握れていないから悪いのだろう」
きっと今日のこの醜聞も、全て至らない自分が悪いのだ。
滲みそうになる涙を、下を向いて必死に耐える。
貴族の子女として、このような公の場で泣くなど許されることではなかった。
けれど、この煌びやかな広間のどこにも、自分が隠れるような場所などない。
遠巻きに自分を取り囲む貴族達の中に、味方など一人もいない。
恥ずかしさと、居た堪れなさに息が上がって、切った手だけではなく全身が痛む。
(このまま、消えてしまいたい)
そう、思った時だった。
「その婚約破棄、少しお待ちいただけますかしら」
涙で霞む視界の端に、栗色の髪と、美しいドレスの裾が翻った。
「それで?会場の様子はいかが?」
夜会用の豪奢なドレスを脱いで、簡素な日常着に戻って尋ねるリリアーヌの声は、どこか面白がるような響きを含んでいた。
「今は皆、次期公爵夫妻のダンスに夢中になっていますよ」
「まぁ、リュシーが踊るなんて珍しいこと」
この国唯一の公爵家の嫡男は、気まぐれで掴みどころのない青年で、こうして夜会に顔を出しているのも珍しい。
それというのも、娶ったばかりの新妻を着飾らせたいからだというのは、彼をよく知る者達の中では周知のことだった。
「ええ、目立つのがお嫌いなアデリア様がお誘いになられて。皆、見惚れておりました」
彼のその行動が頷けるほど、今宵の夫人も、元子爵令嬢とは思えぬほどの気品を漂わせ、美しく魅力的であった。
「あの気まぐれな弟が落ち着いたのは、本当に彼の方のお陰だわ」
彼と自分と同じ、金色の瞳を眇めてリリアーヌがゆったりと微笑む。
「フェアモントの方からも、この後、会場で茶を供したいと申し出がありました」
「そう、それは粋なこと。ヴィクトリア様にも礼をしなくてはね」
金色の髪が美しい侯爵家の令嬢は、夫を得て、益々その興盛を誇っている。
彼女の夫である伯爵が手がけるカフェは盛況で、その噂は王宮にまで届いていた。
滅多に表情を崩さないことで知られる彼女の父である侯爵が、娘夫婦の話になると、些か表情が緩むと専らの評判でもあった。
「会場の方は問題なさそうね」
「ええ、先ほどの一幕が、大きく取り沙汰されることはないでしょう」
満足そうに頷いたリリアーヌが、目の前に広げていた扇をパシリと閉じる。
「それで?今ご令嬢はどうされているのかしら」
「ご用意いただいた部屋で手当を受けています。最初に声をかけたラザフォードのご令嬢と妻が側に」
「そう、シエラもいるなら安心だわ。薬は届いていて?」
リリアーヌの侍女が、目の前に温かい湯気の立つカップを置いてくれる。
華やかな芳香の茶は、義兄嫁が気に入っているという茶園のものだろう。
アンデルセン商会の専売となってから、安定して手に入るようになったと喜んでいた。
「ええ、義姉上が届けてくれたホーン印の傷薬、あれはすごいですね。前に使っていたものと同じですか?あんなに即効性があった覚えがないのですが」
子供の頃、擦り傷を作る度に塗られていた、馴染みの軟膏を思い出す。
先ほど手当の場に居合わせたが、記憶のものよりも爽やかな花の香りのそれは、塗ったそばから血が止まり、今にも皮膚がくっつきそうだった。
「最近改良が進んでいるようよ。次期当主となるご息女が、ここと西の辺境を行き来して、研究を重ねていると聞いているわ」
「自ら辺境までですか。それは随分勇ましいことですね」
この王都周辺の治安は比較的安定しているが、まだまだ各地には危険な場所も多い。
ましてや辺境は、貴族家のご令嬢が気軽に行ける距離でもない。
「ふふ、以前近衛に推薦した騎士が、今は彼女の護衛を務めていますのよ」
楽しそうな表情のリリアーヌに、それだけではない事情を察するが、いずれその辺りも耳に入ってくるだろう。
「ご令嬢の家の皆様はどうしていて?」
「今別室で聞き取りを行っていますが、あれは駄目ですね。随分長い事、令嬢を虐げてきたようで。その自覚もない」
あの場で娘を庇うこともなく、今なお不出来な娘だと罵っていた様子を思い出し、不快な気持ちが込み上げてくる。
唯一の救いが、付き添いで来ていた令嬢の侍女だった。
こちらにも協力的で、その不遇な生育環境について、涙ながらに証言をしてくれている。
「そう。彼女は学院での成績もいいと聞いているのだけれど」
「ええ、教師の手伝いで進めている研究が、一定の成果を上げていると聞いています。このまま潰すには惜しいかと」
「では別の家に縁付かせるのが良さそうね。どこか当てがおありかしら?」
「そうですね、レザン侯爵家が後継とした養子の婚約者が、まだ決まっていなかったと記憶しています」
ある事情で一人娘を失った侯爵夫妻が、遠縁の優秀な令息を養子にしたのはもう随分前のことだった。
幸い後継者は優秀なようだから、早く身を固めさせ、その爵位を譲りたいだろう。
その後、病弱な細君のために、王都から遠く離れたどこかの田舎へ引っ込むのは、立場を退いた彼らの自由である。
「では彼女は、公爵家の養女に迎えさせましょう。丁度リュシーが落ち着いたお陰で両親も暇でしょうし。アンヌ、そのように連絡を」
リリアーヌの側に控えていた女官が、静かに頭を下げる。
優秀さで知られる義兄嫁の女官は、妻と同じ子爵位の出身で何度か顔を合わせている。
こちらに会釈し、侍女に何かを言い置いて、そのまま部屋を出ていった。
「婚姻については、出来れば本人に…」
「ええ、分かっているわ。彼女が望まぬ場合は、キールに働き口の相談をしましょう」
あの家族の様子を思えば、ある程度王権を使うことも吝かではないが、婚姻ともなれば別である。
そんなこちらの考えを汲み取って、美しい義兄嫁が笑っている。
「貴方も随分丸くなったこと。シエラの影響かしら?それとも子爵家そのものかしらね」
王家に比べれば庶民的な生活に慣れた自覚はあるので、ただ笑っておく。
「それにしてもラザフォードのメアリ様は珍しいこと。このような華やかな場では、いつも控えめでいらしたのに」
手当の場にも付き添っていた栗色の髪の令嬢の、親身な様子を思い出す。
義兄嫁のいう通り、公の場であったとはいえ、全く関係がない他家の婚約者同士の諍いに、自ら割り込んでいくようなタイプの女性ではなかった。
「そうですね。どうも、思うところがあったようですよ」
以前伯爵家と婚約していたはずの彼女が、気づいた時には、何かと話題のオーランド商会の若き会頭を婿に迎えていた。
今日も彼女の側に寄り添っていた金髪の夫君とは、事業の関係で先日も顔を合わせたばかりだった。
「では、後は仕上げね」
にこりと、その言葉とは裏腹に、義兄嫁が浮かべる笑みは美しい。
「確かヴォルフェンが野獣討伐のために兵を募っていたわね」
しばらく無沙汰になっている旧友の精悍な顔を思い出し、その言葉に頷いた。
「ええ、辺境で人手は常に不足していますから。ただあまり、足手纏いを送り込むのも気が引けます」
夜会の場を賑わせた張本人はひょろひょろとした優男で、とても武に長けているというタイプではなさそうだった。
しばらくは煩く騒いでいたようだが、伴っていたピンクの髪の少女と引き離され、今は部屋で震えているようだ。
「そうね、けれどあちらの妹姫なら、喜んで鍛え上げてくれるのではないかしら?後はそうね、オーランド商会が外海へ渡る商船の乗組員を募集しているようよ」
「どちらにしろ、迷惑をかけそうな話ですね。けれど義姉上、彼を追いやるだけの理由がありますか?」
公の場に恋人を伴い、婚約者を辱めたというだけでは、王家が介入するほどの醜聞ではあるまい。
王家の強権に、貴族家の中には反発する者もあるだろう。
そこへ、いつの間にか戻っていた義兄嫁の女官が、一通の書面を差し出してくれる。
「先ほど、アンデルセン商会の使いが参りました」
受け取ったリリアーヌがそれを広げ、
「その辺りは問題にならなさそうだわ。あの者が恋人と遊興に耽っていることは、市井では既に知れ渡っているようよ」
今日の夜会には、最近王都で勢いのある商人たちも招かれていた。
貴族家の令息が恋人と出入りする密会場所には、当然使用人や店の従業員だっているだろう。
王都に支店をいくつも持ち、街の者達とも関係の深いあの商会が証言するというのであれば、どれだけでも不貞の証拠が上がってくるに違いない。
知らせを受けて飛んできた令息の両親は、至極まともな感性を持っていたようだから、粛々と息子の処分を受け入れるだろう。
「どうかして?」
人知れず笑いが漏れていたらしい。
聞き咎めたリリアーヌに尋ねられる。
「いえ、メアリ嬢、フェアモント、アデリア様に、アンデルセン商会…随分と味方が多いものだと思いまして」
いずれもその趨勢に、勢いのある家々ばかりである。
そして皆一様に、似合いの伴侶を得て、幸せそうな者ばかり。
「あら、その筆頭が、エリオス様貴方ではなくて?」
わざわざ私のところに、ご自分からいらしたのではないの。
そう言ってにこやかに笑われる。
「まぁ否定はしません」
もう疾うに臣下となった自分が、恐れ多くも王太子妃であるリリアーヌに頼み、王宮の一室を借り受けて、令嬢の保護を願い出たのは事実だった。
あの時、エリオスの隣であの一幕を目にしていた、気遣わしげな妻の顔を思い出す。
もしこのまま、あの令息が王都にいても、きっとどこにもその居場所などないだろう。
令嬢が床に倒れた時、駆け寄ろうとしたのは妻やメアリ嬢だけではなかった。
既に未来の女王としての威厳を備えた義兄嫁が、今日一番美しい笑みで笑う。
「身勝手な婚約破棄など許されないことを、骨の髄まで叩き込んで差し上げなくてはね」
「ええ、肝に銘じていますよ、義姉上」
時系列などは若干飛ばしたゆるゆる設定です。
これ以上増えると多分収拾がつかないので、今回だけのお遊びで。
アンデルセン商会は、アマーリエの商会です。
ヴィクトリア単話版「婚約破棄は一杯の紅茶と」のおまけ話にて初出しています。




