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婚約破棄から始まるオムニバス  作者: m


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15/16

⑭ジーンの場合

侍女は語る。


「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」



 その言葉を聞いた時は、腑が煮え繰り返る思いでした。


 そう語る令嬢、ジーン・アボットの話に、どうぞ皆様、少しばかりのお付き合いを。




 私ジーン・アボットは、フェルモント侯爵家で、ヴィクトリアお嬢様の専属侍女として働かせていただいております。


 アボット家は元は子爵位を頂戴しておりましたが、今は没落しております。

 まだ没落前、家の窮状に際して働き始めた頃、下級メイドだった私を取り立ててくださったのが、まだ幼いヴィクトリアお嬢様でございました。


 そのお陰で、爵位こそありませんが、家族皆、今でも無事に暮らしております。

両親など、苦手な社交や気にする体面がなくなって、かえって気楽に暮らしているようです。


 全てヴィクトリアお嬢様のお陰です。

 金色の髪に青い目が美しいヴィクトリアお嬢様は、私の自慢の主人なのです。


 そんなお嬢様の為に、日々、心を尽くしてお支えすることこそが、専属侍女たる私の務めと心得ております。


 ですから、その為にも目下、私が取り組むべき課題が「これ」なのです。



「こんな時間に呼び出すなんて、何かなジーン叔母さん」


「用事があるから呼んだのよヒュー坊や」


 深夜の調理場に現れた痩身の青年はヒュー・グレイ。

 フェルモント伯爵様の従者である彼は、公言はしていませんが、私の実の甥なのです。


「その呼び方は止めてくださいますか、アボット嬢」


「貴方が始めたんでしょう?グレイ殿」


「わかったよ、悪かったジーン」


「相変わらずねヒュー。もう、疲れさせないで頂戴」


 ヒュー坊やは、ジーンの両親が呼んでいる呼び名です。

 出会った頃は天使のように可愛らしい少年だったのですが、今や見上げるほどの背の、立派な青年になっています。

 美少年からそのまま、端正な顔の青年になっても、憎まれ口は相変わらずのようです。


「それで?屋敷では話しかけないんじゃなかった?」


 そう、普段は話しかけることは愚か、目線を合わすこともありません。

 ヒューがこの屋敷に来た時から、暗黙の内に二人、そういう了解ができていました。

 幸いなことに、侯爵家の屋敷は広大な上、異なる仕事場で働く私達に接点はなく、すれ違うことすら殆どありません。


 けれど、そうは言っていられなくなったのです。


「ヒュー、貴方、今度またお嬢様の仕事に着いて行くそうね?」


 ヴィクトリアお嬢様は、男性相手のお仕事の場合、男性の従者を連れて行かれます。

 とはいえ、未婚であるお嬢様付きの従者は、普段は私をはじめ女性しかおりません。


 ですから今までは家付の従僕や、お父様であるフェルモント侯爵様の従者を借り受けていらっしゃいました。

 その多くは妻帯者か、お嬢様より年嵩のベテランの者たちです。


 けれどここしばらく、このヒュー・グレイが選ばれることが多くなっていました。

 叔母と呼ばれていますが、ヒューは私の一つ下、お嬢様とは数歳しか離れていない未婚の青年です。


 旦那様にはきっとお考えがあるのでしょう。

 未婚の令嬢に、年若い従者を付ける意味が。

 それを邪推するような真似をするつもりはありません。


 けれど、譲れないこともまたあるのです。


「ヒュー、貴方にはこの数日の内に、美味しいお茶を淹れられるようになってもらうわ」


「は?」


 さぁ、特訓の時間です。




 数年前、お嬢様が初めてお一人で商談に臨まれた日のことです。


 勿論、その場には補佐官や護衛、私も付いておりますが、あくまでも主は、侯爵代理を任されたお嬢様なのです。

 デビュタントを終え、学院に入学されて、そして侯爵様のお仕事に随伴されるようになり、暫く経ってからの事でした。


 その日の相手は、少し年嵩の伯爵家当主様だったと記憶しております。


 自分の今日の相手が、年若い金髪の少女だとお認めになった時からでしょうか、明らかにその態度が不遜なものになりました。

 不躾な視線、下卑た笑い、それだけでも淑女に対して無礼千万な振る舞いですが、あろうことかその男は、言葉でもお嬢様を愚弄したのです。


 ここでは到底書けないような、下卑た言葉を浴びせかけ、そしてそれは、隅に控えておりました、私へも向けられたのでございます。


 それまでお偉くも、毅然とし、微笑みを絶やさなかったお嬢様も、流石に二言三言、相手の男に諌めるような言葉をお掛けになられました。


 けれどそれは、私が標的になったその時だけでした。

 それ以外の間は終始、男のどんな不遜な言葉にも怯むことなく、嫋やかな笑みが崩れることはなかったのです。

 見ていた私ですら、握った手に爪が食い込み、怒りで体が震えるような、ありえない暴言の数々を正面から受け止めても尚、最後まで優雅な態度で商談を終えられたのでした。


 そして辞去の為に立ち上がられたお嬢様は、


「大変有意義なお話をありがとうございました。本日のお話につきましては、一言一句、仔細漏らさずに、父である侯爵にも伝えさせていただきますわ」


 その言葉に、途端慌て出し、何事かを言い募ろうとした男を、視線とその日一番の鮮やかな笑みで制されて、


「こう見えて私もフェルモント、一度口に出した言葉を違えるようなことは、決して致しませんわ。二度とお目にかかることはございませんでしょう」


 止めとなったのは、美しい笑みと、最上級のカーテシーでございました。



 そして馬車に乗り込もうとした時でしょうか。

 滅多にないことですが、お嬢様がお手元から、扇を落とされたのでございます。

 その時に、初めて気がついたのです。


 拾い上げた扇をお渡ししたお嬢様の手が、小さく震えていることに。


「ありがとうジーン」


 礼を述べられて、護衛の手を借りて馬車へ乗り込み、座席に座られたお嬢様は、何事もなかったかのように、ただ、そのまま馬車に揺られておいででした。



 まだほんの十代の少女が。


 相手の男にとっては、ただの揶揄いの言葉だったかもしれません。

 けれど、自分の親よりも年嵩の、体格の大きな男性に、面と向かってそのようなことを言われるのです。

 爵位は下だとは言え、相手は当主、まだ何の爵位も持たない貴族令嬢とは身分も違うのです。


 それを暴力と呼ばずに何と言うのでしょうか。


 隣に補佐官がいても、主はお嬢様、主人達の会話に口を挟むことは出来ません。

 護衛も主人の指示なくば、他家でその剣を抜くことは叶いません。


 ただ、言葉で蹂躙される年端のない少女を、私達は見守ることしか出来なかった。

 そしてお嬢様は気丈にも、私を庇ってさえくださったのです。


 それが恐ろしくなかった訳がないでしょう。

 保護者のいない場で、いつその態度が豹変するかもわからない大人の男を前にして。

 恐怖や苦しみを全て、優雅な笑みの下に隠して、ただお一人で耐えていらっしゃったのです。



 目の前で静かに外を見つめるお嬢様を見ながら、そのお手を取って差し上げたい衝動を抱えて。

 けれど、私はその時、母の言葉を思い出していたのです。



 丁度、甥姪達がアボットの領地に遊びに来ていた時のことでした。

 彼らの面倒を見ながら私は、その頃お世話を始めたばかりのお嬢様のことを考えていたのです。


 その頃にはすでに、お嬢様の生活は、同じ年頃の甥姪達とはまるで違っていました。

 学院前の貴族子女としての基礎学習、礼儀作法をはじめとする淑女教育、そして当主教育と侯爵様の補佐、一分単位で区切られたスケジュールは、大人でも音を上げてしまうような忙しさでした。

 そして一度だってそれに、不満を漏らすようなこともないのです。


 野原を駆け回る、目の前の彼らと同じ年頃の子供の生活だとは、とても思えませんでした。

 そしてそれを、とても不憫に思ったのです。

 まだ我儘を言って泣きたい時もあるだろうにと。


 それを側にいた母に、ぽろりと溢したのでした。


 母は、私が最後に生まれた遅い子供だということもあって、年齢的にも祖母に近い人でした。

 そんな母が私を見つめて、


「お嬢様を可哀想だと思うお前の気持ちは、優しいお前の、尊く良い所だと私は思うよ。けれどねジーン」


 そして子爵夫人としては荒れた手で、私の手をそっと握って言ったのです。


「その気持ちは仕舞っておきなさい。お前がお支えするお嬢様を、お前が見くびってはいけないよ」


 母の言葉が最初は理解出来ませんでした。

 私がお嬢様を見くびっていると言うのでしょうか。


「お嬢様の肩には、数多の者達の生活がかかっているんだよ。屋敷に使える使用人達、そして領地で生きる領民達、寄子の貴族家…付き合いのある商人や野菜を下ろす農家もそうだね。屋敷を守る護衛や騎士達も。そして私達のように、その者達の家族や親戚もいる」


「ええ、そうね。…すごい数だわ」


「それがいずれ自分が背負うものだと、きっと分かっていらっしゃるんだろう。だからその為に学ばれているのだと思うよ。人は確かに皆、同じだ。こうして手を握れば同じように温かい。でもねジーン、その身に背負うものは決して同じではないんだよ」


 何となく母が言いたいことがわかるような気がしました。

 何故か私の目から、知らずに涙がこぼれていきます。


「その努力と覚悟を、他者が見くびってはいけない。ましてやお前は、そんなお嬢様をお支えする役目にあるのだから。彼の方のその気高い矜持を、お前が蔑ろにしてはいけないよ」



 お嬢様にだって、きっと私と同じように、泣いたり、苦しんだり、仕事を面倒に感じたり、時にはその全てを、投げ出したくなる時だってあるでしょう。

 目の前で震えを隠すお嬢様は、確かに、まだ幼い少女でしかないのです。


 けれど、それをお側にいる私達にすら見せずに、一人で立とうとするお嬢様は、決してか弱い令嬢などでは無い。

 無礼な男を笑顔で制してみせた、その覚悟と矜持を、可哀相だなどと見くびってはいけないのだと。


 私はずっと、お嬢様が生まれながらに背負う物を、勝手に重荷だと決めつけておりました。

 けれど、それを決めるのはお嬢様自身なのだと、その時、初めて分かったのです。


 ヴィクトリア様はすでに、この侯爵家を継ぐ覚悟をとうに決められて、ただ自身の道を歩んでおられるのだという事を。



 屋敷に戻られたお嬢様は、着替えられた後、しばらく自室のソファにじっと座っていらっしゃいました。

 部屋の中に、使用人は私一人を残して、何をするでもなくただじっと、いつもよりも長い時間、座っておいででした。

 その後しばらくしてから、お茶の用意をと告げられました。


 お茶の準備をしながら、ふと思いついたことがありました。


「お嬢様、よろしければ、いつもより少し甘い紅茶はいかがでしょうか」


 普段はこのように私の方から話しかけることは殆どありません。


「甘い紅茶?」


「はい、お砂糖かはちみつを、ほんのひと匙お入れします。それに合わせて、少し香りの優しいお茶でご用意いたします」


 いつもはお嬢様のお好みで、香りが華やかなお茶を、そのまま何も入れずにご用意することが多いのです。


「そうね、じゃあお砂糖を」


 珍しく申し出た私に、気を遣ってくださったのかもしれません。

 それでも少し気が惹かれたのでしょうか。

 支度の様子を、いつになくじっと見ておいででした。



 お嬢様は、お渡しした紅茶を、ゆっくりと味わっていらっしゃいました。


「美味しいわジーン。ありがとう」


 そして、綻ぶように笑ってくださいました。



「どうして甘いお茶なの?」


 幸いにもお気に召したようで、二杯目をお淹れしている時に、そう尋ねられました。


「拙母が、『甘いお茶を飲めば、大抵のことはなんとかなる』と、いつも申しておりまして」


 口に出してみると、子供の戯言のようで、なんとも恥ずかしいものです。

 少しきょとんとした顔をされたお嬢様は、


「そうね、ほっとする味だわ」


 そう言って微笑まれました。


「美味しかったわジーン。今度から仕事の後はこれにしてちょうだい」


 お母様にも、ありがとうとお伝えしてね。


 そう言って先ほどまでよりも、幾分すっきりとしたお顔で、ヴィクトリアお嬢様は美しく笑ってくださったのでした。



 その時に決めたのです。

 お嬢様が一時でも、こうして微笑まれる様な、そんなお茶をお淹れしようと。


 羽を休めた鳥が、再び羽ばたく為の、その安らぎになるように。

 この一杯のお茶が、お嬢様の命の水となるように。


 この方の覚悟と矜持に報いるくらいに、心を込めて、いつでもこの一杯をお淹れしようと。


 そう心に誓ったのです。




 それを今目の前にいるヒューに言うつもりはありません。

 これはあくまでジーン・アボットの決意なのですから。


 けれどお嬢様のお近くで働く以上、お好みのお茶くらい、淹れられるようになってもらわなければ困ります。


「お湯はちゃんと一度沸かしてから、それから注ぐ様にね」


 優秀な補佐官だという噂は本当のようで、初めは釈然としない様子でしたが、それでも手順を見せ始めると、どこからか取り出したメモに書き付けながら、真剣な顔で聞いています。


 昔から要領のいい甥っ子のことです。

 手順を覚え、忠実になぞってみせるくらいの事は卒なくやるでしょう。

 けれど、それだけでは足りない。


「お嬢様は味の好みがはっきりしていらっしゃるけど、そうね、それが完璧に分かるのは私だけかしら」


 ヒューの目が興味深そうにこちらを見つめたのが分かります。


 昔からそうでした。

 ヒューよりも高い木に登ったと言えば、必ず次の時には、それよりも高い木に登ってみせたヒュー坊や。


 だからこれは、魔法の言葉。

 こう言えば必ず、ヒューは私を越えようとするでしょう。

 それくらいのやる気を見せて貰ってこそ、教え甲斐があると言うものです。



 グレイ家の借財はとうに清算されているにも関わらず、こうして侯爵家にいるヒューの、彼の意図が何であろうと、それを止めるつもりはありません。

 彼がお嬢様に近付く思惑がどんなものであっても、それを阻むようなこともいたしません。


 何故なら、それを判断するのはお嬢様なのですから。


 彼の方は、周りが悪意を精査し、排除して差し上げなければいけないような、深窓の姫君ではないのです。

自分に侍る者が要か不要か、それをご自分で選べる方なのです。


 それが、私ジーン・アボットがお支えするただ一人、ヴィクトリア・フェアモント侯爵令嬢様なのですから。


 けれどそれもそれ、これはこれです。


 ヒュー・グレイが、お嬢様に近付こうと思うならば。

 相応に、覚悟はしていただきたいと思っております。


 一杯のお茶くらい、お嬢様の望むままに、淹れて差し上げられるくらいになってみせろと。


 私が言いたいのは、要はそういうことでございます。




「分かったわ」


 仕事の合間、そろそろお茶を差し上げようかと思っていた時、唐突に、お嬢様がそう仰いました。


「ヒューにお茶の淹れ方を教えたのは貴方ね、ジーン」


 どうして気付かなかったのかしら。


 と、頬に手を当てながら不満げに、けれど満足そうな笑みを浮かべておられます。


 そのお手元に重なる書類の多くは、ハガード家に纏わるもの。


 お嬢様は先ごろ、漸くネイサン・ハガードとの婚約を解消され、それに纏わる諸々の雑事が、ようやっと落ち着き始めておりました。


 そのネイサンがかつてお嬢様に、不遜にも、婚約破棄を告げたと聞いた時には、持っていたカップの柄を握り壊す所でございました。

 この度、無事に縁が切れたようで何よりでございます。


 そしてその後、婚約者にはあのヒューが収まっていたのです。


 彼は今、この侯爵家の屋敷を出て、フェルモント家の爵位の一つである伯爵位を貰い受け、ヒュー・グレイ伯爵となっています。

 フェルモント侯爵様からの援助を受けて幾つかの事業を興し、今では若き青年実業家として、忙しい毎日を送っているようです。


 そしてその合間には、足繁くこの屋敷に通ってきております。


 小さい頃、兄姉達に、贈り物や食べ物をことごとく先に取られていて、なのにいつも、けろりとした顔をしていたグレイ家の末っ子。

 そんな飄々とした彼が、本当に欲しいものだけは、決して誰にも譲らなかったのを覚えています。

 そんなヒューが本気になったのであれば。


 お二人にお茶を淹れる毎日も、そう遠いことでは無いでしょう。



 それでも今はまだ。


「色々尋ねたいけれど、とりあえず、お茶が飲みたいわジーン」


「はい、お嬢様」


 お嬢様の為に、今日も最高の一杯を。

 心を込めて、お淹れいたしましょう。




 これにて、ジーン・アボットの語りは終幕にございます。

 またいずれ、別の機会にて。


 それでは皆様、ごきげんよう。



親父さんに続いて、ものすごく楽しかったです。


チャッピー、第三者目線が楽しい理由を要約して。

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