⑬エーデルハウトの場合
御伽話の王子様の物語。
「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」
それはシャルリアーヌへの、別れの言葉になるはずだった。
男爵領の冬は長い。
冬の初めに降り始めた雪が、止む事なく深々と降り続いていく。
この辺りに訪れる人が少ないのは、一つには観光資源が乏しい事もあるが、やはり大きくはこの長い雪の所為だろう。
白く染まっていく視界に、まるでこの屋敷だけが、全てから取り残されているような気がして来る。
雪の降る世界は静かなことを、エーデルハウトは、この場所に来て初めて知ったのだった。
腕の中で眠りに落ちた、シャルを起こさないように抱え直す。
彼女の足を枕にしていた猫のグリが、振動が伝わったのだろう、一度頭をもたげて抗議してから、体勢を変え、丸くなり直している。
さらりと、彼女の肩から陽に焼けた白金の髪が流れ落ちる。
シャルリアーヌだった頃には、腰の下まで伸びていた髪は、今は肩より少し下のあたりで切り揃えられている。
此処では毎日の手入れをしてくれる侍女もいないから、シャルになったばかりの頃に、彼女自身で切ってしまったのだった。
あの美しい白絹のような白金の髪。
人形のように美しい顔の、癇癪持ちの公爵家の我儘姫。
公爵令嬢シャルリアーヌは、この世界から、もう失われてしまった。
誰でもないエーデルハウトの所為で。
あの日、シャルリアーヌが婚約破棄を受け入れなかったことで、エーデルハウトはここに繋ぎ止められた。
彼女が手を離さないでくれたお陰で、エドとなった自分は、シャルまでもを失わずに済んだのだ。
その代わりに、彼女にはどれだけの代償を払わせただろう。
あの美しい髪だけではない。
大きな屋敷と何不自由ない生活、優しい家族、彼女を慕う使用人達。
公爵令嬢としての地位と身分、相応しいドレスと楽しみ。
あるはずだった輝かしい未来。
エーデルハイトはこの地に来る前に断種を願い出ている。
まだシャルには伝えられていない。
彼女がどう受け止めるのかを思うと正直とても怖い。
幼く見えて、茶会では年下の令嬢をいつも気にかけていた彼女のことだ、きっと良き母親になったことだろう。
家族を持ち、自分の子を抱く、そんな当たり前の幸福さえ、エーデルハウトには用意できないのだ。
今のエーデルハウトは、眠る墓のない亡霊のようなものだ。
エーデルハウトとして死んで、そして彷徨える亡霊となって、この世界にただ漂うだけの。
それをこの屋敷に、この世界に留めているのは、共にシャルと名を変えた、シャルリアーヌだけなのだ。
シャルリアーヌだけが、エーデルハウトを、この世界に繋ぎ止めているのだ。
国が無くなった。
エーデルハウトの祖国である国が、無くなってしまった。
正確には、王家の血が変わったのだ。
前王家の末席に連なるエーデルハウトは、他国の公爵家に預けられていた事が幸いし、一旦はその難を逃れたのだった。
そして、エーデルハウトの知らぬ間になされた家族の嘆願により、その命を失うことはなかった。
後は公爵家の力で、その存在は人知れず闇に葬られるはずだった。
多くを望まなければ命は取らないと、この国に来てから、ずっと息子のように面倒を見てくれた、シャルリアーヌの父であるレザン公爵に告げられたのだった。
だからあの日シャルリアーヌに、別れを告げるつもりだった。
もう爵位どころか身分も国すらも持たない自分が結婚できるはずもない。
それでもせめて最後に、黙って去るよりも別れを告げることを選んだのだった。
世間では我儘姫だと呼ばれているが、シャルリアーヌの我儘は、いつも誰かの為だった。
例外だったのは、そう、青豆をエーデルハウトに押し付ける時くらいで。
髪結のリボンを嫌がったのは、侍女が誤って解れさせてしまったのを、咎めない為だった。
クロワッサンを嫌がったのは、茶会の準備に忙しい料理人達に負担をかけない為だった。
読みかけの本を嫌がったのは、丁度、エーデルハウトの国について書かれた箇所だったからだ。
そんなシャルリアーヌがあの日、婚約破棄は嫌だと、初めて自分の為に我儘を言ったのだ。
けれどそれすらも、結局はエーデルハウトの為だったかもしれない。
自分にそんな価値があるのだろうか。
彼女のあの高潔さと、優しさに見合うだけの価値が。
この国で最も高貴な血に連なる姫君の、燦然と輝く未来に見合うだけのものが。
この手の中に、何一つ残っていない自分に。
「後悔に押し潰されそうだと思うなら、今の内に消えた方がいいだろう」
シャルリアーヌのことは任せておきなさい。
そう言った、老貴族達をも黙らせる、辣腕さで知られる若き公爵は、十は老けて見えた。
彼は愛妻家であり、娘を溺愛していることでも有名だった。
そんな彼に、その手で大事に慈しんできた娘を、永遠に失わせてしまうのだ。
そしてそのことが、病弱な彼女の母君にも、致命的な心痛を与えてしまうのではないかと思った。
けれど、そんなこちらの思いとは裏腹に、細く頼りなげな母親は止めなかった。
「あの子が一度言い出したら聞かないことは、分かっているではありませんか」
シャルリアーヌと同じ、透けるように白い白金の髪を揺らし、夫の悲痛な肩をそっと抱く。
細く白い顔に浮かべる笑みは、この世のものでないように美しい。
「譲ってはならない時を見極める、私たちの血ですわね、旦那様」
周囲の反対を押し切って結婚したという、淡く儚げな公爵夫人の強さを、垣間見た気がした。
生にしがみつきたい訳では無かった。
けれど、シャルリアーヌはあの時誓ったのだ、エーデルハウトの命のために。
本人がそれを、どれだけ自覚しているかは関係がない。
彼女はただ、公爵令嬢としての自分の価値と重みを知っていた。
そしてエーデルハウトのために、そのカードを、目の前で切って見せたのだ。
それなら自分も、この身を贖い、応えたいと、ただそれだけを思ったのだった。
シャルリアーヌの我儘を聞くのは、いつだってエーデルハウトの役目なのだから。
暗く沈んだ室内でも、シャルの白い髪はよくわかる。
窓際に立ち、外を見ている彼女の背に揺れる髪が、暮れてきた部屋の中でも白く眩い。
エーデルハウトが慣れない労働で疲れ、この屋敷に帰ってくる時、荒涼としたこの地の、暮れゆく高い空の下、門の側に立つシャルの髪だけが、ほの白く光っている。
日が落ちていく世界の中で、その輝きだけが、エーデルハウトの帰る場所を教えてくれるのだ。
彼女の手に淹れたばかりの温かいウイスキーティーを渡す。
ここに来てからシャルの好物になったこれは、寒い時だけのとっておきである。
「ありがとう、大好きよお兄様」
出会った時からずっと、よくそんな風にして、シャルリアーヌはエーデルハウトに、自分の好意を告げてくれていた。
まだ少年だった自分にとって、五つ下の幼い少女から向けられるその好意と言葉は、なんとも面映く、戯れのような気持ちで受け取っていた。
けれどその、無償で降り注がれていた純粋な思いは、エーデルハウトの中に、確実に降り積もっていたのだった。
誰かにそうして想われているということが、生まれた国から遠く離れた地で、一人生きるエーデルハウトにとって、遠くなった家族の愛や、家への思いよりもずっと確かに、その身の内でエーデルハウトを形作っていったのだ。
だから本当はあの時、自分は消えるべきだったのに。
泣くシャルを縛りつけてでも、自分だけが去るべきだったのに。
どうしてもこの身から彼女を、分つことなどできなかったのだった。
エーデルハウトだった頃の自分が、好意を言葉にしても、そこに彼女と同じだけの気持ちは載せられなかっただろう。
聡い彼女は、きっとそれに気付いたに違いない。
適当な言葉を返す事はしない、それがまだ幼かった自分なりの、せめてもの誠実さだった。
だからこそ今、あの頃の分まで伝えたいと思うのだ。
「好きだよシャル」
こちらを振りあおぐシャルの目が、楽しそうに笑んでいる。
「お兄様は私のどこが好きなの?」
「大きな青い目と、楽しそうによく笑っている口と。ウイスキーティーに喜ぶところも好きだし、それからこの白金の髪も」
「それは嘘ね、髪は長い方が好きでしょう?」
シャルリアーヌの長い髪が、魅力的だったことは確かだった。
シャル自身は、短い方が扱いやすく、軽くて楽だと言って気に入っている。
「そうだね、でも、今の髪はシャルに似合っていて好きだよ」
「どうかしら。きっとお兄様は、どちらでも似合うとしか言わないもの」
不満そうでいて、楽しそうに、頭を振って髪を揺らして見せる。
「もっとそうね、お兄様も我儘を言えばいいのよ、どちらがいいとか。いつも私ばかりじゃなくて」
あの美しい髪を維持するために、シャルリアーヌの侍女達が、どれほど心を砕いていたのかを知っている。
この地の長い冬の間、それをエーデルハウトが覚えて、彼女の髪を結ってやるのは楽しいかもしれない。
けれどそれよりも、
「そうだなぁ、私のことも、そろそろ名前で呼んで欲しいかな」
「っそれは、そうね…」
言葉を詰まらせて、気まずそうにシャルが情けない表情を浮かべる。
大丈夫だと言うように、笑ってその肩を優しく抱き寄せる。
「お兄様」という言葉の中には、きっと今でも「エーデルハウト」という響きが混ざっている。
その呼び名だけが、あの頃と変わらない唯一のもの。
シャルリアーヌが持っていたもので、唯一シャルに残っているものだった。
自分を「お兄様」と呼んで走っていた公爵家の廊下、犬のブランと駆け回った広い庭と、それを見守る美しい公爵夫妻の笑顔、あの幸福な匂いに包まれた長い髪のシャルリアーヌの全て。
あの頃の、幸福な時間と懐かしい思い出の全てが、その呼び名に籠っている。
だから無理をさせるつもりはない。
シャルが、シャルリアーヌに別れを告げる日が来るまで、ゆっくりと待つつもりでいる。
だってこれからずっと一緒にいるのだ。
“エド”の居場所は“シャル”のそばにしかないのだから。
部屋の中で、目を覚ましたグリの鳴き声がしている。
猫のくせにどこか鈍臭いグリが、ガサガサと何かを掻き分けて、鳴きながら近付いてくる気配がする。
自分はここにいるよと、小さな命が、二人を呼んでいる。
あの、婚約破棄を告げた日の朝、シャルリアーヌは用意されたドレスを嫌がったのだという。
あの日侍女が用意したのは、エーデルハウトの瞳の色を入れた黒のドレスだった。
いつも自分に会う時は、好んで着てくれていた色だった。
それなのに、あの日彼女が選んだのは、対極の白いドレスだった。
何も伝えてはいなかったし、気付いてもいなかっただろう。
最新の注意を払っていたし、公爵に抜かりがあったはずもない。
何かを感じていたのだろうか。
あの日、シャルリアーヌが見せた覚悟を示すような、そんな姿だった。
何者にも侵せない、シャルリアーヌの魂そのままのような、白く気高い光だった。
シャルリアーヌはエーデルハウトの瞳を、夜空のようだと言って昔から気に入っている。
自分が夜空なら、彼女は美しく輝く白い星のようだと思う。
だから二度と、自分から手を離すことはしない。
どんな暗闇の中でも決して見失わずにいよう。
それが“エーデルハウト”としての、最後の誓いだ。
どんなに暗い、星の見えない夜でも、必ずそこで光り続けてくれる。
エーデルハウトだけのポラリス。
エーデルハウト、エーデルハイト、アーデルハイドのゲシュタルト崩壊。
二人共に名前を連呼しているのは、かなり意識的にそうしました。




