⑫ヴィクトリアの場合
ごねる人その2。
さぁ盛大に却下して差し上げましょう。
「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」
そんなことをある日、婚約者に言われたら、貴女は納得出来まして?
「勿論、お断りいたします」
絶句されていらっしゃるけど、当たり前ではないかしら?
「そもそもの話、何故ご自分に、断りの権利があると思っていらっしゃるの?」
そのお綺麗な顔だけでなく、少しは頭を使って欲しい。
この婚約を成立させる為に、ヴィクトリアがどれだけ骨を折ったと思っているのだ。
「貴方のご実家であるハガード家が、我がフェアモントに負っている負債額をご存じ?」
目の前にいるネイサン・ハガードは、そう、身も蓋もなく言えば、借金の形である。
フェアモントが負債を肩代わりし、縁づくことで、ようやく体裁を整えたのだ。
(それをまぁ、無かったことに、とは)
「ハガード様のお気持ちはよく分かりましたわ」
手に持っていた扇をパシリと閉じる。
この音、特に殿方には有効な威圧なのである。
「一億五千万イル、耳を揃えてお支払いいただけるのでしたら、どうぞその後は、婚約破棄でも解消でも、お好きになさって構わないわ」
横から静かに、茶の注がれたカップがテーブルの上に供される。
会話の切れたタイミングの良さと、その香りに誘われて、ヴィクトリアはカップに手を伸ばした。
一口、口に含み、その香りに満足する。
勿論味も申し分ない。
独特の茶葉の香りが十分に引き出された、素晴らしい紅茶だった。
決して紅茶色の温かい水などではない。
最近王都では、随分カフェが増えてきている。
庶民向けの気安い店から、貴族向けの高級店まで、内装やメニューにそれぞれ趣向を凝らしてあって、なかなか面白いものである。
けれどこの間、ある店で飲んだ紅茶は、色付きのお湯としか言えないものだった。
(あれは悲しかったわ)
結局あの後、屋敷に帰って侍女のジーンに淹れ直してもらったのだった。
紅茶を味わうヴィクトリアの前で、最初の勢いはどこへやら、ネイサンが白い顔をして固まっている。
「いちおく…ごせんまん…」
ぶつぶつと何か言っているが、察するに、ハガード家はネイサンに何も説明していないらしい。
ネイサン・ハガード伯爵令息、ヴィクトリアの名目上の婚約者だ。
こうして当人に会うのは初めてだったろうか。
契約の場には同席していなかったし、今まで気にも留めていなかった。
あまりにも興味が無かったせいで、先触れで、婚約者が来ると知らせがあった時には、誰の婚約者かと訝しんだくらいだった。
そもそものこの状況の半分は、国の所為なのである。
伯爵家が潰れそうだからなんとかしてくれと、宰相である叔父が、我がフェアモント侯爵家に泣きついたのが二年前の事。
そこから方々に散らばった負債を取りまとめ、事業を精査し、不要なものは売却し、返済の道筋を立てさせ、担保として三男を貰い受ける。
その見通しを立てたのが、当時父の補佐を始めたばかりのヴィクトリアだったのである。
(まぁ父としては、私の“手慣らし”くらいに思っていたのでしょうけれど)
国としては、歴史だけはあるハガード家を潰すわけにはいかない、という事情もあるが、それ以上に、潰れたらその負債を取り立てられなくなるからである。
債権者が多岐に渡り、連座で他家にも影響が及びかねない状況だった。
潰れてハイ終わり、にできるような額と規模ではないのだ。
「ハガード様、ご用事はお済みかしら」
にこりと淑女の笑みを浮かべて、暗に、早く帰れと言ってやる。
帰ってから家族に泣きつくなり、事情を問い質すなり、そちらで好きにして貰いたい。
それで婚約を破棄したいなら、それでも全く構わない。
返してもらう物を返してもらえれば、ただ顔がいいだけの婚約者など、
(婚約破棄するほどの価値もないのだけれど)
辞去の挨拶もそこそこに、ネイサンが逃げるようにいなくなる。
(学院には同じ時期に通っていたはず…駄目だわ、全く記憶になくて)
そう言えば、婚約破棄の動機はなんだったのだろう。
その理由にまるで興味はないのだが、あの様子では、面倒なことになりそうな気配もする。
もういっそ、あれごとどこかへ売ってしまおうか。
父に相談せねばならないが、要は伯爵家が残れば良いのである。
幸い返済の方は滞りなく、次期伯爵となる長男が奮闘しているから、手綱を離したところで逃げ出すことはないだろう。
ネイサンはあれでなかなか綺麗な顔をしているし、仕出かす前なら使い道もある。
侯爵家の息のかかった商会に負債ごと売りつけて、その後、ハガードがどのように身を切るのかは、自由に選ばせてやればいい。
と、すでに売り払った気分で。
ヴィクトリアは、婚約者との最初で最後の面談を、すっぱり終わらせたのだった。
何にせよ、不毛な時間だったと思いながら。
こんな時、美味しいお茶ほど、疲れた気持ちを慰めてくれるものはない。
侍従が淹れ直してくれたお茶に口をつけて、人心地のついた気持ちになる。
今度の紅茶は香りが少し控えめで、砂糖が入っているのだろう、疲れた気持ちに甘い後味が染み入ってくる。
(この侍従、本当にお茶を淹れるのが上手いわ)
紅茶を淹れた後、部屋の隅に戻って、静かに控えている青年に目を遣る。
この腕前は、ヴィクトリアの専属侍女であるジーンにも引けを取らないだろう。
ジーンは腕前だけでなく、ヴィクトリアの気分や体調に合わせた茶の選び方が絶妙なのだが、今飲んでいるこの紅茶も、今の気分にぴったりの甘い味だった。
重要な商談の後や、気の重い仕事の終わりに、特に、疲れる相手と会った後には甘い紅茶が飲みたくなる。
普段はミルクも砂糖も入れず、ストレートで味や香りを楽しむヴィクトリアだが、この時だけはほんの少し、砂糖か蜂蜜を入れるのだ。
(…私、伝えたかしら)
彼は最近、よく父から借り受けている使用人だった。
名前は確か、ヒュー・グレイ。
使用人と言ったが、正確には雇用契約を結んでいるだけで、どちらかというと父の補佐官のような役目をしているようだ。
先程のように、面談相手が男の場合は、同性の使用人を立ち合わせることにしている。
女というだけで、ヴィクトリアを侮る相手が多いからである。
ヴィクトリアの容貌が、金色の髪に青い瞳の、一見嫋やかな令嬢然としているのも、相手を付け上がらせる一因らしい。
父が正式に紹介したにも関わらず、父の隣に座る幼いヴィクトリアを、視界に入れようともしない輩のなんと多かったことだろう。
それは当然、父の代理としてヴィクトリアが一人になってからは、より一層露骨なものに変わった。
ヴィクトリア自身はそれに思うところはない。
目の前にいる相手の真贋を見極められない程度の器だと、自ら喧伝しているようなものだからだ。
ただ、ヴィクトリアが連れている侍女というだけで、彼女達にも不快な思いをさせることが度々あった。
自分のことなら構わないが、目をかけている大事な彼女達を、そんな奴らの視界に入れるのは業腹である。
男の使用人を伴うことで、ヴィクトリアに立てられている不名誉な噂も知っている。
それはそれで、噂を間に受けて侮ってくるような奴を炙り出すのに都合が良く、試験紙代わりに放っておいている。
そんなことを言うと、ジーンにいつも、ヴィクトリア自身のことをもっと気にかけて欲しいと、怒られてしまうけれど。
ヴィクトリアにも父と同様、事務仕事を任せている者や、護衛という男手はある。
けれどあくまで彼らは事務官や護衛であって、従者の真似事はしない。
なのでつい、使い勝手のいいヒューを借りることが多くなっていた。
同じ部屋にいても、存在を感じさせない静かなところや、細々とした雑務をやらせても卒なくこなす。
(見目も整っているし、美しいというより男性的なところも望ましいわ)
ともすると舐められがちな、男性の場に伴うのに丁度いいのだった。
威圧感があるわけではなく、それでいて上背があって、どんな高位貴族が会する場でも、臆するような事もない。
そして何より、茶を淹れるのが上手い。
あんな不毛な時間の後には、何にも変え難いほどありがたいのだった。
(ヒュー・グレイ…グレイ、グレイ子爵家の次男)
その名前で、はたと思い当たる。
「ヒュー、貴方も、借財の担保だったわね」
数年前、家業を傾けたグレイ子爵家を立て直すにあたり、その寄親であったフェアモント家が、侯爵家預かりの奉公契約を結んだのが、確かこの青年だった。
まだその頃には、今のヴィクトリアよりも若いくらいの、ほんの少年だった記憶がある。
「はい、そうでございます」
「そうだったわね…そんなに畏まらなくてもいいわ、貴方の主人はお父様なのだから」
彼は確か、父が学院にも通わせていたはずだ。
貴族子息といえども、今は奉公人の立場の者を、と驚いた覚えがある。
(だから余程優秀なのだとは思っていたけれど。そうね、父が気に入る訳だわ)
丁度入れ違いでの入学だったので、ヴィクトリアとの接点はなかったのだった。
「不躾なことを聞いてもいいかしら?答えたくなかったら構わないわ」
黒い瞳がこちらを見返している。
了承の意だと受け取って、そのまま続ける。
「その立場から、逃げようとは思わなかったの?」
父であるフェアモント侯爵は厳しい人だ。
その後継として育てられたヴィクトリアは、誰よりも身に染みてそれを知っている。
目をかけられていたとはいえ、あの父が、奉公人に手心を加えるようなことは無かっただろう。
まだ成人前の貴族出の少年には、きっと過酷な環境だったに違いない。
「借りたものをお返しするのは当然かと」
「そうね、馬鹿なことを聞いてしまったわ」
ヒューならば、先ほどのネイサンと同じ立場でも、きっと同じように答えたのだろう。
涼やかな目元に動揺も見せず、淡々とそう告げる声は心地のいいアルト。
自分の果たすべき責任を知っている者の、偽りのない真っ直ぐな声音だった。
けれど彼が侯爵家に来てから、十年近い年月が経っている。
(グレイ家は少し前に、当主が代わっていたはず)
そのタイミングで、債務の返済も完了しているのではなかっただろうか。
「グレイ家の返済は、もう済んだのではないの?そうであれば、貴方の契約だって終了するはずよ」
父がどういう意図を持って彼に投資したのかは分からないが、それならばそれで雇用契約を見直す必要だってあるだろう。
「貴方ならグレイ家の持つ他の爵位をもらって、事業を起こすことも可能でしょう。貴方にならきっと、父も融資を渋らないわ。このまま侯爵家にいては、使用人と変わらないのではなくて?」
未来ある優秀な青年に、茶を淹れてもらって喜んでいる場合ではない。
なるべく早く過去の契約条件を見直し、父に進言しなくては。
「希望を申し上げてよろしいのですか」
「ええどうぞ」
彼の主人は父なので、次期当主といえど、今はただの娘であるヴィクトリアの越権行為にはなる。
けれど、彼の働きぶりと、そこにヴィクトリアの最近の成果を加味すれば、口添えは十分に可能だろう。
厳しくあれども、それに見合うものには報いなければならない、というのがフェアモント侯爵の信念である。
そしてそれは、ヴィクトリアにも受け継がれている。
「では、お嬢様が構わなければ、このまま、お側にお仕えしたいと思っております」
「私の専属になりたいということ?」
「はい、それが希望にございます」
おかしいとは思っていたのだ。
何人かいる父の従者の中で、未婚の令嬢であるヴィクトリアに歳の近い彼が、度々送られてくることに。
ヴィクトリアは、指名はしていなかったのだから。
「…ちょっと欲がなさすぎるんじゃないかしら」
了承すれば、そのまま従者として仕える、というような淡々とした口ぶりに、真意を測りかねてしまう。
「強欲さが身を滅ぼすという例を、幾つでも見てきましたから」
グレイ家の借金は、確か先代が慣れない事業に手を出した結果だったはずだ。
家の運命に付き合わされた彼の、この侯爵家での年月が言わせた言葉なのだろう。
けれど、とヴィクトリアは思う。
「私は自分の伴侶に、我慢を強いる趣味はなくてよ」
欲しいものがあれば、機を逃さない強欲さも時には必要だ。
侯爵家を共に背負い立つものならば尚更。
つまり、そういうことなのだろう。
二年前、ネイサンを婚約者に据えることができたのは、その時点でヴィクトリアの婚約が決まっていなかったからだった。
侯爵家の次期当主として立つことが決まっているヴィクトリアの婚約は、急ぐことは無かったとはいえ、それでも十六で婚約が成っていないのは、本来ならあり得ないことなのである。
それというのも、このフェアモント家が、王子殿下の降下先の候補になっていたからだった。
けれど必ずそうなる訳ではないし、あくまでも「候補」に過ぎない。
事実、第四王子殿下は先ごろ、子爵家へと降下する旨の発表があったばかりである。
家格として待たない訳にもいかず、さりとて待った分の補償が王家からある訳ではない。
とはいえ、王子達の今後が決まるまでは、ヴィクトリアの隣席は空けておかなければならなかった。
ネイサンには言わなかったが、いずれ破談にする事が前提の計画だったのである。
それを伝えてやらなかったのは、ちょっとした意趣返しだろうか。
ヴィクトリアの貴重な休日に、元々の予定には無かった面談を差し込んだのである。
あれくらいの土産は、持って帰ってもらわねば。
目の前のヒューはおそらく、ヴィクトリアよりも三、四歳年上だろう。
貴族の婚姻の年齢差としては一般的だ。
本人が望んだからと言って、ヴィクトリアに貸し出されるかどうか、決めるのは父である。
だから彼がここにいるのは、そう、父の意向なのだ。
王家からはこの数年分の補償などない。
降下時期は明言されていなかったから、ヴィクトリアの婚姻が宙に浮くことは、当然懸念されていただろう。
あの父が何も用意していなかった訳がないのだ。
「一年、いただけますか」
ヒューが逡巡したのは一瞬だった。
すぐにそう、ヴィクトリアに告げる。
「ええ、いいわ。私の婚約の後始末も、それくらいかかるでしょうから」
一年で爵位を得て求婚者の立場を整える。
そんなところだろうか。
ヴィクトリアを見つめる黒の瞳は真っ直ぐで、戸惑いや迷いの色は見えない。
残る第三王子殿下の身の振り方はまだ不明だが、もう十分にフェアモントはその役目を果たしただろう。
ハガードがやらかす前に、こちらも潮時だろうと、ヴィクトリアは思いを巡らせる。
けれど、その前に、
「一つ聞いてもいいかしら?」
紅茶道具の載ったワゴンを手に、退室しようとしていたヒューに呼びかける。
「恩義だけではないわね?」
ヴィクトリアは自分の婚姻に夢を見たことはない。
いずれ侯爵家を継ぐ自分の結婚はこのようなものだと、幼い頃からそう思ってきた。
けれど、借金の形で伴侶を手に入れたとあっては、少し味気ない。
「返すものを返したら、あとは好きにしてよろしいのですよね?」
それは確かに、さっきネイサンに告げた言葉だった。
先程までとは少し違う、楽しそうな響きでそう問うてくる。
黒い瞳が笑むと、年上の青年が、急に人懐っこい印象に変わった。
「そうね、勿論だわ」
だからこれは自分の意思だと、そういうことだろう。
従者でいい、という言葉に嘘は見えなかった。
爵位や地位に興味があるようにも見えないし、望むものは別のものだろう。
…ヴィクトリアの夫になりたいと、単純に、そう受け取っていいのだろうか。
扉が閉まる直前に見えたのは、満足そうな年上の男の笑みだった。
卒のない彼のことだ、きっと一年を待たずに、求婚者に相応しい立場を得て、ヴィクトリアの隣に難なく収まるに違いない。
まるで初めからそうだったような顔をして。
決定的な言葉をまだ何一つ口にしていない彼が、その時には何か、言ってくれるだろうか。
最後に見た、あの魅力的な笑みを思い出す。
フェアモント侯爵令嬢として判断がつかない時、ヴィクトリアは、ただのヴィクトリアとしての直感を信じるようにしている。
さっき飲んだ紅茶の甘さが、舌の上にまだ、わずかに残っている気がする。
あのお茶を淹れてくれる彼ならばきっと。
ヴィクトリアにとって、悪くない相手に違いないだろう。
欲はないけど、多分我慢はしないヒューと。
不要な我慢はしないさせないヴィクトリア。




