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婚約破棄から始まるオムニバス  作者: m


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12/16

⑪シャルリアーヌの場合

さぁ盛大にごねてみせよう。


ごねる人その1


「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」



 そう言うお兄様の声は固くひび割れて、瞳は悲しげに揺れている。

 

 いつも必ず、シャルリアーヌと呼んでくれるその声が、今日は一度もその名を口にしてくれない。

 いつもは目を合わせて話してくださるのに、きらきらと光を湛えて輝く夜空のような、シャルリアーヌの大好きな瞳も、すぐに逸らされてしまう。


 お兄様との婚約が無くなる。


(お兄様の奥様になれない)


 足元が冷たく冷えていく。


 そんなの、そんなの絶対に、公爵家の我儘姫、シャルリアーヌは嫌だった。




「嫌ですお兄様、そんなの絶対に嫌です」


 ドレスの色が嫌だと、朝そう言ったのと同じように、シャルリアーヌは口にする。


 髪を結うリボンの色が嫌だと、クロワッサンではなく丸パンがいいと、読んでもらっている本が気に入らないと、シャルリアーヌがどんな我儘を言っても、いつもお兄様はそれを叶えてくれたのだ。


「もっと頑張るわ、青豆だって残さないし、ターンももっと綺麗に回れるようにする。もう我儘も言わないわ」


 料理に添えて出される青豆はちょっと苦手で、いつもお兄様が代わりに食べてくれる。

 ダンスがあまり得意ではないシャルリアーヌを、いつも上手くリードして踊らせてくれる。


 どんな我儘を言っても、必ず叶えてくれるお兄様。

 もしそれが、その我儘が駄目だったのなら、苦手な我慢だってしよう。


「だからお兄様の奥様にしてください」


 いつもの癇癪を起こした時のように、シャルリアーヌの大きな青い瞳から、涙がこぼれ落ちてくる。

 流れる涙をそのままに、必死で言葉を紡ぐ。


「婚約破棄なんて、絶対に嫌!」



 いつもなら、仕方がないと言う顔で、シャルリアーヌの涙を拭ってくれるエーデルハウトは、それでも、悲しい目で首を振るだけだった。


 その涙を見ると何でも叶えてあげたくなる、と困ったような優しい顔で言ってくれたのに。

 いつもならすぐに差し伸べられる大きな手が、その横でぎゅっと握られたまま。


「お父様」


 言葉が届かないエーデルハウトに焦れて、その横に立つ、自分達を見つめて黙っている父の方を見る。

 いつも優しく二人を見守ってくれている父の表情も、白く硬い面のようだった。

 家の中で、母やシャルリアーヌには見せることのない、仕事に向かう時の父のようだ。


「シャルリアーヌ、諦めなさい。これは仕方がないことなんだ」


「お父様、誕生日にくれる予定のポニーもいらないわ。お母様とお揃いのあの宝石も強請ったりしない。泣いて皆を困らせないし、婆やの言うことだってちゃんと聞きます」


 シャルリアーヌの持っているものは皆、父から与えられたものだ。

 だから提示できるものはあまりないけれど、父がいつも言う“とりひき”に使えそうなものを上げていく。


 父はシャルリアーヌには甘い、婆やがいつもそうやって父を叱っている。

 だからきっと、


「お願いお父様、お兄様との婚約がなくなるなんて嫌」


「可哀想だけれどね、諦めるんだよシャルリアーヌ」


 そこには、シャルリアーヌの訴えを、いつもと同じ癇癪だと、優しくあしらう響きがあった。


 そうではない、そうではないのだ。

 彼らが真剣な事を、シャルリアーヌだって分かっている。


 ここで退いたら、諌められたなら、本当に終わってしまうと分かっているのだ。


 父の書斎で話を聞いていたので、目の前の机には様々な仕事道具が綺麗に並べてある。

 光る銀のペーパーナイフに目に留めたのは一瞬で、素早くそれを掴むと、掴んだ一房の髪に思い切り滑らせた。


「シャルリアーヌ!!」


「止めなさい!!なんてことを」


 駆け寄り手を伸ばしてくる二人から、必死に距離を取る。


 切れ味が足りないのだろう、バッサリといく訳もなく、後ずさるシャルリーヌの足元に、幾本かの髪だけがパラパラと落ちていく。

 シャルリアーヌの自慢の、お母様と同じ白金の髪だ。


「近寄らないで」


 ナイフを髪に当てたまま、目を逸さずに父に向かい合う。

 淑女にとって、髪は命とも言えるものである。

 母と同じ髪を、殊更父が気に入って、慈しんでくれているのも知っている。


「お願いお父様、もう絶対、他に何もいらないから」


 悲痛な顔をした父と、その横で真っ白な顔で絶句しているエーデルハウトに胸が痛む。

 卑怯だとは思うが、シャルリアーヌが持てるカードは多くない。


 子供の我儘だと、決して流させたりしない。



「シャルリアーヌ」


 聞いたことのない、重い声で父が口を開く。


「本当かい?本当に何もいらないかい?綺麗なドレスも、豪華な食事も。…私や、母上もいらないかい?」


 はくはくと、声にならず、息だけが漏れる。

 そんな、そんなこと。


「シャルリアーヌ、よく聞くんだ。エーデルハウトと一緒になりたければ、他のものは全て諦めなければならない、それでもいいのかい?」


 父や母をいらないなんて、そんなこと思えるはずもない。

 比べることなんで出来るはずもない。


 初めて見る、怖いほど真剣な父の声に、恐怖と戸惑いで、先程とは違う涙が止まらない。

 言葉を紡げずに、口がから回る。


「わたし、っわたし、でも、」


「…公爵様、これ以上は」


 そう言ったエーデルハウトは、さっきまでの、静かにシャルリアーヌに対峙していた彼では無かった。

 隠しきれなくなったのだろう、何かを耐えるように苦しげに顔を歪め、涙はないのに、まるで泣いているようだった。


 六歳の時に出会ってから今まで、五歳上の彼のそんな姿を、シャルリアーヌは見たことがなかった。

 いつも落ち着いていて、大人で、優しく微笑んで見守っていてくれる。

 そんな彼の姿しか見たことがなかったのだ。


 それはまるで、あの雨の日に屋敷の庭で鳴いていた、見窄らしい仔犬のようだった。


「っお父様、私、」


「エーデルハウトを諦めたくはないんだね」


 震える身体で、それだけは必死に頷く。

 何故だか今、それを間違えてはいけないと、そのことだけに衝き動かされて。



「わたし、お兄様以外とは結婚しません。お兄様との婚約破棄は絶対に、嫌です。二度と我儘を言わないから」


 シャルリアーヌにとって、お父様もお母様も婆やも、侍女のアビーも料理人のピノも、犬のブランだって大切だ。

 それを失うなんて考えられない。


 けれど、こちらを途方に暮れたような顔で見ている、一人の青年の姿を必死に見つめる。


 けれど、お兄様には私しかいない。

 こんなに大切なものに溢れたシャルリアーヌと違って、エーデルハウトは今、この世界に一人ぼっちなのだと、何故だかそれが分かったのだった。


 手を伸ばして、お兄様の手に触れる。

 ハッとした顔でシャルリアーヌの顔を見るエーデルハウトの夜の瞳に、自分の姿が映っている。


 私が、お兄様の手を離したら駄目なのだと。

 自分にしか、この可哀想な青年を掴めないのだと。


 幼心に、それだけは強く、強く、そう思ったのだった。




 五歳も歳が違うから、エーデルハウトにはきっと、二人の婚約は、ずっと子守のようなものだっただろう。

 けれどシャルリアーヌはいつだって真剣だった。


「好きよお兄様」 


「ありがとうシャルリアーヌ」


 そう言うエーデルハウトは、いつだって嬉しそうに笑ってくれたけれど。

 子供の戯言だと、そんな風に思われているだろうことが、シャルリアーヌには不満だった。


「本気にしていないでしょう?ちゃんと好きなのよ」


「うん、分かっているよ」


「分かっていないわお兄様。この好きはね、お兄様を幸せにしてあげたいっていう好きなのよ?」


 大好きな父がいつも、美しく優しい、シャルリアーヌの自慢の母に言っている言葉だ。

 相手の幸せを心から願うことこそが愛なのだと、いつもそう言って父は仕事に出掛けていく。

 母とシャルリアーヌの為に頑張るよ、とそう言って。


 だからシャルリアーヌも、大好きな父と母の為に、勉強も礼儀作法も頑張ろうと思っている。

 けれどそれが、幸せにしてあげたい、と思うのとは違うことを、自分でもちゃんと分かっているのだ。


 シャルリアーヌにとって、そう思うのはエーデルハウトだけなのだということを。


「では私も、シャルリアーヌを幸せに出来るように頑張るよ」


 そう言って笑うエーデルハウトに、今はまだ届かなくても。

 それでも届くまで、言い続けていけばいいと、シャルリアーヌは思っていた。


 だってこれからずっと、彼のそばにいるのはシャルリアーヌなのだから。




 木枯らしが吹き抜ける木立ちは、皆その葉を落として、殊更寒そうな姿に見える。

 つい数日前までの、朗らかで暖かかった空気が急に冷え込んで、一気に冬の気配が感じられるようになってきた。


 それでも、赤々と燃える暖炉の火の前は、春の日溜りのように暖かい。

 公爵家にいた頃は、暖炉を灯すのは冬の間だけのことで、それだけでシャルリアーヌははしゃいだものだった。


 この家では、秋の終わりにはもう火を入れなければ、夜の間に凍えてしまうだろう。

 炊事も、部屋の火種も、全てこの居間にある暖炉の火で賄うのだ。


 火の前でエーデルハウトに抱えられている今は、その寒さを感じることもない。

 背中で直接感じる、彼の落ち着いた心音を聞いていれば、吹き荒ぶ木枯らしの音も、隙間風も気にならない。



 二人は正式には、死んだことになっている。


 だから名も変わった。

 シャルとエド。


 シャルは公爵家の遠縁の男爵家の養女になり、エドはそこの庭師の養子になっている。


 男爵家の領地は、王都から遥か遠く、冬の厳しい寂しい土地である。

 旅人ですら滅多に立ち寄ることもなく、ただ細々と痩せた土地を耕しながら、人々が静かに生きている。


 男爵家は分家の者が継ぐことになっており、いずれ二人はこの家を出て、男爵家の所有する農園の一つで、管理人になることが決まっている。


 ここには王都の物も人も噂も、何も届かない。

 もう貴族として、表舞台に立つことのない二人は、このまま誰にも気付かれることはないだろう。



 結局シャルは、詳しいことは何も知らない。

 あの婚約破棄の理由も、二人が今ここにいる理由も。


 エドがこうしてまだ生きている事には、様々な思惑があり、おそらくその血にも価値がある、それを分かっているだけだ。

 そしてシャルが、その楔なのだということも。


 どちらが利用されていて、命の鍵を握られているのはどちらなのか。

 それを知りたいとも思わない。


 知らないことだらけの中で、一つだけ確かなことがある。


 あの時、シャルが我儘を言わなければ、今ここにエドはいなかっただろう。

 我儘を言って、婚約を破棄しなかったから、この温もりを失わずに済んだのだ。



 あの時の言葉は誓いだ。

 だからシャルも、自分の言葉を違えない。


 青豆も食べるし、ターンも美しく回れるようになった。

 そして豪華な食事もドレスも、家族も、あの頃のシャルリアーヌのものを、シャルはもう何も持っていない。


 唯一の例外は、犬のブランだった。

 屋敷で涙の別れを告げた後、馬車の後ろを数里に渡って追いかけて来たのを、父が許してくれたのだった。


 伸び伸びと、この広い土地を駆け回るブランは、自由で、楽しそうで。

 農園に落ちた林檎を嬉しそうに齧っては、人間二人の戸惑いや寂しさを、いつも吹き飛ばしてくれていた。


 けれどそんなブランも、去年死んでしまった。

 エドが家を空ける時には、いつも寄り添うようにして、ずっとそばにいてくれた暖かさが、もうなくなってしまった。



 けれど新しいものもある。

 しばらく呆然と泣きながら日々を過ごしていたシャルに、エドがどこからか小さな仔猫を連れてきてくれたのだった。

 村の集会所に捨てられていたのを、教会で保護していたらしい。

 灰色の仔猫の白い腹の毛が、ブランの毛の色に似ていて、シャルはまた、泣いてしまった。


 もう仔猫とは呼べないグリは、暖炉の火が気持ちよさそうに、あの頃よりも丸くなった頭を自分で抱えて、シャルの足元で寝息を立てている。



「私の手には、もう何も残らないと思ってたな」


 上品な言葉遣いは大分崩れたけれど、一人称だけは変わらないお兄様。

 シャルを抱え直しながら、足元に落ちた膝掛けをかけ直してくれる。


 「あら、沢山残っているわ」


 エドはシャルよりも大人だったから、この土地や今の自分に慣れることに、きっと苦労しただろう。

 だからシャルは、エドが不安になる度に、ちゃんと言葉にして伝えていこうと思うのだ。


「ダンスを踊るのは上手だし、藍色の髪だって美しいままだし、相変わらず沢山のことを知っているし。それに、」


「それに?」


 肩口にあるエドの顔を見上げて、分かるでしょと視線で言ってみる。


「ちゃんと言ってくれなくては嫌よ」


「そうだね、私にはシャルがいてくれる」


 楽しげなエドの黒い瞳を暖炉の火が照らしている。

 そこに浮かぶ不思議な金色の虹彩は、多分もう、彼だけが持つものだろう。


 小さい頃、お兄様が見せてくれた地図にはあったはずの国の名が、この間、家庭教師が見せてくれた地図からは、綺麗に消えてしまっていた。

 いつか子が生まれたら、その子がどうか、運命に翻弄されることがないように願う。


「そうよ、婚約破棄しなくてよかったでしょう?」


「うん、本当にね。ありがとうシャル」


「二度目はないわ、お兄様」


「心しておくよ」



 あの日、二度と我儘を言わないと誓ったシャルに、我儘を言って欲しいとエドは言う。


 それが、彼の胸に重くのし掛かる、後悔から出る言葉だと知っている。

 シャルの短い髪を時折痛ましそうに見ながら、自分がどれだけの物を奪ったのかと、悔いている事も分かっている。

 だからその身を、シャルに捧げるつもりでいることも。


 髪も宝石も豪華な食事も、公爵令嬢としての身分も、お兄様がいるのなら、そんなものどうだって構わないのに。



 それでもエドの気持ちが楽になるのなら、ほんの少し誓いを破って、彼だけの我儘姫でいよう。


 勝手な自己犠牲の婚約破棄など、許してあげない。

 私の気持ちはずっと本気なのだと、その身で思い知ってもらうのだ。

 彼の抱えた後悔ごと、幸せになってみせよう。


 公爵家の亡き我儘姫は、もう永遠に、お兄様だけのものなのだから。



少女の覚悟を舐めてはいけない。


婚約破棄からのこんな御伽話。

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