⑪シャルリアーヌの場合
さぁ盛大にごねてみせよう。
ごねる人その1
「君との婚約は無かったことにしてもらいたい」
そう言うお兄様の声は固くひび割れて、瞳は悲しげに揺れている。
いつも必ず、シャルリアーヌと呼んでくれるその声が、今日は一度もその名を口にしてくれない。
いつもは目を合わせて話してくださるのに、きらきらと光を湛えて輝く夜空のような、シャルリアーヌの大好きな瞳も、すぐに逸らされてしまう。
お兄様との婚約が無くなる。
(お兄様の奥様になれない)
足元が冷たく冷えていく。
そんなの、そんなの絶対に、公爵家の我儘姫、シャルリアーヌは嫌だった。
「嫌ですお兄様、そんなの絶対に嫌です」
ドレスの色が嫌だと、朝そう言ったのと同じように、シャルリアーヌは口にする。
髪を結うリボンの色が嫌だと、クロワッサンではなく丸パンがいいと、読んでもらっている本が気に入らないと、シャルリアーヌがどんな我儘を言っても、いつもお兄様はそれを叶えてくれたのだ。
「もっと頑張るわ、青豆だって残さないし、ターンももっと綺麗に回れるようにする。もう我儘も言わないわ」
料理に添えて出される青豆はちょっと苦手で、いつもお兄様が代わりに食べてくれる。
ダンスがあまり得意ではないシャルリアーヌを、いつも上手くリードして踊らせてくれる。
どんな我儘を言っても、必ず叶えてくれるお兄様。
もしそれが、その我儘が駄目だったのなら、苦手な我慢だってしよう。
「だからお兄様の奥様にしてください」
いつもの癇癪を起こした時のように、シャルリアーヌの大きな青い瞳から、涙がこぼれ落ちてくる。
流れる涙をそのままに、必死で言葉を紡ぐ。
「婚約破棄なんて、絶対に嫌!」
いつもなら、仕方がないと言う顔で、シャルリアーヌの涙を拭ってくれるエーデルハウトは、それでも、悲しい目で首を振るだけだった。
その涙を見ると何でも叶えてあげたくなる、と困ったような優しい顔で言ってくれたのに。
いつもならすぐに差し伸べられる大きな手が、その横でぎゅっと握られたまま。
「お父様」
言葉が届かないエーデルハウトに焦れて、その横に立つ、自分達を見つめて黙っている父の方を見る。
いつも優しく二人を見守ってくれている父の表情も、白く硬い面のようだった。
家の中で、母やシャルリアーヌには見せることのない、仕事に向かう時の父のようだ。
「シャルリアーヌ、諦めなさい。これは仕方がないことなんだ」
「お父様、誕生日にくれる予定のポニーもいらないわ。お母様とお揃いのあの宝石も強請ったりしない。泣いて皆を困らせないし、婆やの言うことだってちゃんと聞きます」
シャルリアーヌの持っているものは皆、父から与えられたものだ。
だから提示できるものはあまりないけれど、父がいつも言う“とりひき”に使えそうなものを上げていく。
父はシャルリアーヌには甘い、婆やがいつもそうやって父を叱っている。
だからきっと、
「お願いお父様、お兄様との婚約がなくなるなんて嫌」
「可哀想だけれどね、諦めるんだよシャルリアーヌ」
そこには、シャルリアーヌの訴えを、いつもと同じ癇癪だと、優しくあしらう響きがあった。
そうではない、そうではないのだ。
彼らが真剣な事を、シャルリアーヌだって分かっている。
ここで退いたら、諌められたなら、本当に終わってしまうと分かっているのだ。
父の書斎で話を聞いていたので、目の前の机には様々な仕事道具が綺麗に並べてある。
光る銀のペーパーナイフに目に留めたのは一瞬で、素早くそれを掴むと、掴んだ一房の髪に思い切り滑らせた。
「シャルリアーヌ!!」
「止めなさい!!なんてことを」
駆け寄り手を伸ばしてくる二人から、必死に距離を取る。
切れ味が足りないのだろう、バッサリといく訳もなく、後ずさるシャルリーヌの足元に、幾本かの髪だけがパラパラと落ちていく。
シャルリアーヌの自慢の、お母様と同じ白金の髪だ。
「近寄らないで」
ナイフを髪に当てたまま、目を逸さずに父に向かい合う。
淑女にとって、髪は命とも言えるものである。
母と同じ髪を、殊更父が気に入って、慈しんでくれているのも知っている。
「お願いお父様、もう絶対、他に何もいらないから」
悲痛な顔をした父と、その横で真っ白な顔で絶句しているエーデルハウトに胸が痛む。
卑怯だとは思うが、シャルリアーヌが持てるカードは多くない。
子供の我儘だと、決して流させたりしない。
「シャルリアーヌ」
聞いたことのない、重い声で父が口を開く。
「本当かい?本当に何もいらないかい?綺麗なドレスも、豪華な食事も。…私や、母上もいらないかい?」
はくはくと、声にならず、息だけが漏れる。
そんな、そんなこと。
「シャルリアーヌ、よく聞くんだ。エーデルハウトと一緒になりたければ、他のものは全て諦めなければならない、それでもいいのかい?」
父や母をいらないなんて、そんなこと思えるはずもない。
比べることなんで出来るはずもない。
初めて見る、怖いほど真剣な父の声に、恐怖と戸惑いで、先程とは違う涙が止まらない。
言葉を紡げずに、口がから回る。
「わたし、っわたし、でも、」
「…公爵様、これ以上は」
そう言ったエーデルハウトは、さっきまでの、静かにシャルリアーヌに対峙していた彼では無かった。
隠しきれなくなったのだろう、何かを耐えるように苦しげに顔を歪め、涙はないのに、まるで泣いているようだった。
六歳の時に出会ってから今まで、五歳上の彼のそんな姿を、シャルリアーヌは見たことがなかった。
いつも落ち着いていて、大人で、優しく微笑んで見守っていてくれる。
そんな彼の姿しか見たことがなかったのだ。
それはまるで、あの雨の日に屋敷の庭で鳴いていた、見窄らしい仔犬のようだった。
「っお父様、私、」
「エーデルハウトを諦めたくはないんだね」
震える身体で、それだけは必死に頷く。
何故だか今、それを間違えてはいけないと、そのことだけに衝き動かされて。
「わたし、お兄様以外とは結婚しません。お兄様との婚約破棄は絶対に、嫌です。二度と我儘を言わないから」
シャルリアーヌにとって、お父様もお母様も婆やも、侍女のアビーも料理人のピノも、犬のブランだって大切だ。
それを失うなんて考えられない。
けれど、こちらを途方に暮れたような顔で見ている、一人の青年の姿を必死に見つめる。
けれど、お兄様には私しかいない。
こんなに大切なものに溢れたシャルリアーヌと違って、エーデルハウトは今、この世界に一人ぼっちなのだと、何故だかそれが分かったのだった。
手を伸ばして、お兄様の手に触れる。
ハッとした顔でシャルリアーヌの顔を見るエーデルハウトの夜の瞳に、自分の姿が映っている。
私が、お兄様の手を離したら駄目なのだと。
自分にしか、この可哀想な青年を掴めないのだと。
幼心に、それだけは強く、強く、そう思ったのだった。
五歳も歳が違うから、エーデルハウトにはきっと、二人の婚約は、ずっと子守のようなものだっただろう。
けれどシャルリアーヌはいつだって真剣だった。
「好きよお兄様」
「ありがとうシャルリアーヌ」
そう言うエーデルハウトは、いつだって嬉しそうに笑ってくれたけれど。
子供の戯言だと、そんな風に思われているだろうことが、シャルリアーヌには不満だった。
「本気にしていないでしょう?ちゃんと好きなのよ」
「うん、分かっているよ」
「分かっていないわお兄様。この好きはね、お兄様を幸せにしてあげたいっていう好きなのよ?」
大好きな父がいつも、美しく優しい、シャルリアーヌの自慢の母に言っている言葉だ。
相手の幸せを心から願うことこそが愛なのだと、いつもそう言って父は仕事に出掛けていく。
母とシャルリアーヌの為に頑張るよ、とそう言って。
だからシャルリアーヌも、大好きな父と母の為に、勉強も礼儀作法も頑張ろうと思っている。
けれどそれが、幸せにしてあげたい、と思うのとは違うことを、自分でもちゃんと分かっているのだ。
シャルリアーヌにとって、そう思うのはエーデルハウトだけなのだということを。
「では私も、シャルリアーヌを幸せに出来るように頑張るよ」
そう言って笑うエーデルハウトに、今はまだ届かなくても。
それでも届くまで、言い続けていけばいいと、シャルリアーヌは思っていた。
だってこれからずっと、彼のそばにいるのはシャルリアーヌなのだから。
木枯らしが吹き抜ける木立ちは、皆その葉を落として、殊更寒そうな姿に見える。
つい数日前までの、朗らかで暖かかった空気が急に冷え込んで、一気に冬の気配が感じられるようになってきた。
それでも、赤々と燃える暖炉の火の前は、春の日溜りのように暖かい。
公爵家にいた頃は、暖炉を灯すのは冬の間だけのことで、それだけでシャルリアーヌははしゃいだものだった。
この家では、秋の終わりにはもう火を入れなければ、夜の間に凍えてしまうだろう。
炊事も、部屋の火種も、全てこの居間にある暖炉の火で賄うのだ。
火の前でエーデルハウトに抱えられている今は、その寒さを感じることもない。
背中で直接感じる、彼の落ち着いた心音を聞いていれば、吹き荒ぶ木枯らしの音も、隙間風も気にならない。
二人は正式には、死んだことになっている。
だから名も変わった。
シャルとエド。
シャルは公爵家の遠縁の男爵家の養女になり、エドはそこの庭師の養子になっている。
男爵家の領地は、王都から遥か遠く、冬の厳しい寂しい土地である。
旅人ですら滅多に立ち寄ることもなく、ただ細々と痩せた土地を耕しながら、人々が静かに生きている。
男爵家は分家の者が継ぐことになっており、いずれ二人はこの家を出て、男爵家の所有する農園の一つで、管理人になることが決まっている。
ここには王都の物も人も噂も、何も届かない。
もう貴族として、表舞台に立つことのない二人は、このまま誰にも気付かれることはないだろう。
結局シャルは、詳しいことは何も知らない。
あの婚約破棄の理由も、二人が今ここにいる理由も。
エドがこうしてまだ生きている事には、様々な思惑があり、おそらくその血にも価値がある、それを分かっているだけだ。
そしてシャルが、その楔なのだということも。
どちらが利用されていて、命の鍵を握られているのはどちらなのか。
それを知りたいとも思わない。
知らないことだらけの中で、一つだけ確かなことがある。
あの時、シャルが我儘を言わなければ、今ここにエドはいなかっただろう。
我儘を言って、婚約を破棄しなかったから、この温もりを失わずに済んだのだ。
あの時の言葉は誓いだ。
だからシャルも、自分の言葉を違えない。
青豆も食べるし、ターンも美しく回れるようになった。
そして豪華な食事もドレスも、家族も、あの頃のシャルリアーヌのものを、シャルはもう何も持っていない。
唯一の例外は、犬のブランだった。
屋敷で涙の別れを告げた後、馬車の後ろを数里に渡って追いかけて来たのを、父が許してくれたのだった。
伸び伸びと、この広い土地を駆け回るブランは、自由で、楽しそうで。
農園に落ちた林檎を嬉しそうに齧っては、人間二人の戸惑いや寂しさを、いつも吹き飛ばしてくれていた。
けれどそんなブランも、去年死んでしまった。
エドが家を空ける時には、いつも寄り添うようにして、ずっとそばにいてくれた暖かさが、もうなくなってしまった。
けれど新しいものもある。
しばらく呆然と泣きながら日々を過ごしていたシャルに、エドがどこからか小さな仔猫を連れてきてくれたのだった。
村の集会所に捨てられていたのを、教会で保護していたらしい。
灰色の仔猫の白い腹の毛が、ブランの毛の色に似ていて、シャルはまた、泣いてしまった。
もう仔猫とは呼べないグリは、暖炉の火が気持ちよさそうに、あの頃よりも丸くなった頭を自分で抱えて、シャルの足元で寝息を立てている。
「私の手には、もう何も残らないと思ってたな」
上品な言葉遣いは大分崩れたけれど、一人称だけは変わらないお兄様。
シャルを抱え直しながら、足元に落ちた膝掛けをかけ直してくれる。
「あら、沢山残っているわ」
エドはシャルよりも大人だったから、この土地や今の自分に慣れることに、きっと苦労しただろう。
だからシャルは、エドが不安になる度に、ちゃんと言葉にして伝えていこうと思うのだ。
「ダンスを踊るのは上手だし、藍色の髪だって美しいままだし、相変わらず沢山のことを知っているし。それに、」
「それに?」
肩口にあるエドの顔を見上げて、分かるでしょと視線で言ってみる。
「ちゃんと言ってくれなくては嫌よ」
「そうだね、私にはシャルがいてくれる」
楽しげなエドの黒い瞳を暖炉の火が照らしている。
そこに浮かぶ不思議な金色の虹彩は、多分もう、彼だけが持つものだろう。
小さい頃、お兄様が見せてくれた地図にはあったはずの国の名が、この間、家庭教師が見せてくれた地図からは、綺麗に消えてしまっていた。
いつか子が生まれたら、その子がどうか、運命に翻弄されることがないように願う。
「そうよ、婚約破棄しなくてよかったでしょう?」
「うん、本当にね。ありがとうシャル」
「二度目はないわ、お兄様」
「心しておくよ」
あの日、二度と我儘を言わないと誓ったシャルに、我儘を言って欲しいとエドは言う。
それが、彼の胸に重くのし掛かる、後悔から出る言葉だと知っている。
シャルの短い髪を時折痛ましそうに見ながら、自分がどれだけの物を奪ったのかと、悔いている事も分かっている。
だからその身を、シャルに捧げるつもりでいることも。
髪も宝石も豪華な食事も、公爵令嬢としての身分も、お兄様がいるのなら、そんなものどうだって構わないのに。
それでもエドの気持ちが楽になるのなら、ほんの少し誓いを破って、彼だけの我儘姫でいよう。
勝手な自己犠牲の婚約破棄など、許してあげない。
私の気持ちはずっと本気なのだと、その身で思い知ってもらうのだ。
彼の抱えた後悔ごと、幸せになってみせよう。
公爵家の亡き我儘姫は、もう永遠に、お兄様だけのものなのだから。
少女の覚悟を舐めてはいけない。
婚約破棄からのこんな御伽話。




