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輪郭  作者:
16/18


「優しい人だね」と、私はこれまで何度も言われてきた。

その言葉を否定したいわけではない。

ただ、私はそれを鵜呑みにしない性分だった。


優しさとは何だろうか。

他者を慮ること、思いやること。

一般にはそう理解されているし、私自身も長くそう信じてきた。


ここから先は、私の極めて主観的な思索であり、

誰かに当てはめるつもりはない。

取り留めのない独白のようなものなので、

読み飛ばしてもらって構わない。



優しさとは、多くの場合、

自分にとって不利益となる選択を、

他者のためにあえて引き受ける行為だと思う。


それが可能なのは、

他者への共感があるからだろう。

私自身、誰かに優しくするとき、

確かに心が温まり、安心する。

そこに偽りはない。


ただ、私は次第に思うようになった。


この「優しさ」は、ときに

逃避的な性質を帯びてはいないだろうか、と。




自分自身の幸福のために何かを選びす取ることは、精神的に大きなリスクを伴う。


他人に後ろ指をさされるかもしれない恐怖。

自己中心的ではないかという自己疑念。

目標を掲げ、失敗した未来を想像する痛み。

幸福を目指し、届かなかったときの傷心。


幸福に向かうという行為そのものが、

人を不安定にする。


一方で、自分を削り、他者に差し出す行為はどうだろう。


そこには報われる保証こそないが、

少なくとも周囲から「間違った選択だ」とは言われにくい。


私欲を捨てたという自己評価。

尽くした相手の喜びへの共感。

周囲からの「優しい人だね」という言葉。


何らかの形で、

見返りが想定できてしまう。


つまり、自分を削るという行為は、

失うものが明確で、

なおかつ得られるものが予測可能な選択なのだ。



だが、自分を差し出すことで得られる幸福の総量は、

常に、自分の想像の範囲を超えない。


私は問う。


私は、リスクを負いたくないのだろうか。

変化を恐れ、立ち上がれずにいるのだろうか。


振り返ってみれば、

私は自分の幸福や、

選択に伴う恐怖を、

他者に預けてきただけだったのかもしれない。


では、自分の幸福を選ぶとは、どういうことなのだろうか。


少なくとも私にとってそれは、

「好きなことをする」という軽やかな言葉では説明できない。


幸福を選ぶという行為には、

必ず誰かの視線が付随する。


羨望、失望、失望を装った無関心、

あるいは沈黙という名の評価。


私は長いあいだ、

その視線を過剰に恐れてきた。


だから、幸福は

「選ばないもの」になった。


選ばなければ、

責められる理由が生まれない。


選ばなければ、

誰かの期待も裏切らない。


選ばなければ、

私は「安全な人間」でいられる。


だがそれは、

幸福を放棄する代わりに

無難さと、平穏を抱きしめる生き方だった。




幸福を選ぶとは、

自分の欲望を肯定することではない。


欲望はしばしば衝動的で、

刹那的で、

自己中心的だ。


私が言う「幸福を選ぶ」とは、

もっと鈍く、濃く、重たい。


それは、


自分の人生を、

自分の所有物だと認めることだ。




私はこれまで、

自分の人生を

「預かり物」のように扱ってきた。


親の期待。

配偶者の安心。

社会的役割。

「こうあるべき」という空気。


それらを壊さないように、

そっと持ち運ぶ。


落とさないように、傾けないように。


だが預かり物である限り、

私は勝手に置くことも、

勝手に選ぶこともできない。


幸福を選ぶというのは、

この預かり物の人生を、

自分名義に書き換える作業なのだと思う。



自分名義に書き換えるということは、

失敗の責任も

すべて引き受けるということだ。


誰かのせいにできない。

環境のせいにもできない。

「仕方なかった」という言葉が、

言い訳として使えなくなる。


私はこれが怖かった。


幸福そのものより、

幸福に失敗したときの

自分の顔を見るのが怖かった。


だから私は、

「誰かのために」という形にして

選択を行ってきた。


そうすれば、

たとえ失敗しても、

動機は清潔なままでいられるからだ。



だが、ここにひとつの歪みがある。


「誰かのために」という言葉は、

ときに

自分の人生を放棄する免罪符になる。


私はそれを使っていた。


他者を大切にしている、

という物語の中に身を置くことで、

自分の人生に向き合わずに済ませていた。


優しさは、

私にとって隠れ蓑だった。



幸福を選ぶとは、

誰かを踏み台にすることではない。


同時に、

誰も踏まないまま進める道でもない。


どんな選択にも、

必ず誰かの感情が触れる。


それを完全に避けられると信じること自体が、

すでに幻想なのだ。


だから本当の問いは、


「誰も傷つけないか」ではなく、

「傷が生まれる可能性を引き受ける覚悟があるか」


なのだと思う。



私は、

自分の幸福を選びたい。


だがそれは、

軽くなりたいからではない。


むしろ逆だ。


自分の人生の重さを、

自分の手に取り戻したい。




幸福を選ぶ人間は、

強いのではない。


覚悟しているだけだ。


覚悟とは、

うまくいかない未来を

あらかじめ想像したうえで、

それでも進むことだ。


私は今、

その入口に立っている。


まだ中には入っていない。


だが、

入口の存在を知ってしまった以上、

もう引き返すことはできない。



もしこの先、

私が幸福を選ぶなら。


それはきっと、

胸を張れる選択ではない。


綺麗でもない。

賞賛もされない。

理解されない可能性の方が高い。


それでも私は、


「私は自分の人生を生きた」


とだけは言える場所へ行きたい。


優しい人間であることより、

誠実な人間でありたい。


誠実とは、

他者だけでなく、

自分自身に対しても嘘をつかないことだ。




私はまだ、

何を選ぶのか決めていない。


だが、

「選ばないことで守られる自分」からは、

もう降りようとしている。


それだけは、

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