死人と獣 捌
消えかけの蝋燭の炎のような力なく小さな声で呟いた彼女は意識があるのだろうか?
目の前にいる"元"旦那の姿は見えているのだろうか?
血に染まり、闇に眼光を灯す異形の姿になったとしても彼女は愛した人の面影を投影出来ているのだろうか?
そんな俺の下らなく小さな疑問も意に介せず婆さんは続けた。
「ありがとう、会えてよかったわ、今日はとても清々しくて気分がいいの、でもごめんなさい、私はそろそろいかないといけないみたい、先に旅立つことを許してね、きっとあっちで貴方の事を待っていますから、いつまでもいつまでも…、あまり苛々してはだめですよ、私が先に逝っても悲しんでばかりいないでちゃんとご飯は食べなきゃだめですよ、貴方は落ち込むと何も手につかなくなる人だから、近所の子供達にもよろしくお願いします、ミコの御世話もしっかりお願いしますね。それから…えっと、えっと…。」
俺は二人、いや一匹と一人がよく見える場所へ悟られぬようにそっと移動して見守る事にした、
いや、見守る事しか出来なかった、
俺にはどうしても今、猫が目の前の彼女を手に掛けるとは思えなかったからだ、
そして少し間が空き、
彼女はポロポロと涙をながしながら優しくもあり申し訳なさそうでもある笑顔を見せて最後の力を振り絞るようにぽつりぽつりと少しずつだが再び口を開いた。
「私ったら駄目ね、本当はもっともっと伝えたい事、言いたい事があってもっともっと貴方とお話がしたいのに…、なんででしょう、何も纏まらないわ、でもこれだけは考えなくても心の底から湧き出る泉のように伝える事が出来るの、いつもなら今更恥ずかしくて言えないけれど…、貴方…私と一緒になってくれてありがとう、色んなお話や沢山の思い出をありがとう、私は本当に、本当に幸せでした、……さようなら、心から…愛しています。」
そう言い終るとほぼ同時に彼女をつなぐ医療機から心停止を告げる電子音が静かに、冷たく鳴った、
猫はそれをただ黙って見ていた、
振り上げていた腕と指先から伸びていた鋭利な爪も収められている、
暗くてよくは見えないが猫の眼光に反射してキラリと一筋涙が頬を伝ったのが見えた。
「ああ、わしもお前さんを心から愛している。」
そう聞こえたかと思うとドアが勢いよく開き医者達がバタバタとやってきた、
その時にはもう猫の姿は病室から消えていた。
あの涙、
あの言葉が果たして猫のものだったのか、
それとももう死んでしまった爺さんの魂がほんの少しだけ戻ったのか…
その真相は俺にはよくわからない、
二人が思いあう愛の力がそんな奇跡を起こしたとか言う人もいるかもしれない、
だが生憎俺は愛というものをそこまで高尚に思っていない、
そんなもので奇跡が起こるのであれば世の中は奇跡だらけになってしまう、そうなったら奇跡はもう奇跡ではなくなり誰もが安易に手を伸ばすだろう、俺は手を伸ばしても奇跡は起こらなかった。
…話がそれてしまったが、
まるで自分に言い聞かせるようにだらだらと話してしまったが、
ようするにあの涙が何を意味しているのか誰の意図なのかわからないというだけである、
もしかしたら本当に愛の力が爺さんの魂を呼び起こしたのかもしれないし、
そんなことより俺はこの状況を芦屋に報告しなければならない、
それが先決だ、
俺は慌ただしい病室を離れ芦屋に電話をかけ、
今起こった出来事をなるべく詳しく報告した。
「ちっ、また俺様のいない時にかよ、まあ分かった、とりあえずお前は爺さんを探せ、行きそうな所を片っ端からだ!今の話だと爺さんの意識がどこかに残ってるのかもしれない、無意識に思いでの場所とかへ向かってる可能性もある、とりあえず急げ、俺様も探す。」
「分かった、とりあえず一回家に戻ってから探してみる………あ、それと芦屋。」
「一回家に?まあいい、なんだよ、まだなんかあんのか?早くいえウスノロ。」
急いでいる芦屋に俺はどうでもいい疑問をぶつけてみた、
こんなときに。
「ああ、少し、忘れ物って所だ、そうそう、さっきの奴の涙は結局どちらの涙だったと思う?あと愛が呼び起こす奇跡をお前は信じるか?。」
俺の質問を聞いて芦屋は短く舌打ちをして即答した。
「知らねえよ、どっちの涙かなんてどうでもいい、奇跡?下らん、そんなもの俺様に今さら"もう"必要ねえ、馬鹿言ってないでさっさと探せ。」
芦屋はそういってぶつりと電話は切れた。




