3. 捨てる前に
四月三十日。入社から四週間、胸の名札は四月十九日付で資材課になった。週二日の新人研修と倉庫を往復するうち、袖が埃の色を覚えている。昼休みには、古参の隣で段ボールに腰を下ろす。握り飯を包みから出すだけで腹が鳴った。肩書きの話などしなくても、隣で飯を食える。頬張った握り飯が、三十三年でいちばん旨い。
預り品の保留札は、まだ棚にある。今日の廃棄対象は伝票類の整理箱だ。古参の持つ箱の隣に、樋渡部長の回収指示が付いた別箱を見つけた。蓋の隙間に紙の見出しが覗く。足を止めた俺を、國枝が通路へ押しやる。
「研修中の新人が作業を止めるな! 営業企画の処分指定だ。お前が考えることじゃない。運ぶ方を手伝え」
俺は古参の箱の底を支えた。腕に重さを受け止めてから、國枝を見る。
「運ぶ前に、搬出票と中身を確かめさせてください。こちらの回収箱にも、同じ綴りの紙が見えます。蓋を開ける間だけ、お待ちいただけませんか?」
樋渡が札を覗き、頭頂の薄い撫でつけ髪を照明へ向けた。薄い肩をかがめても、俺より背が高い。
「回収箱は経理で引き取ります。担当外のものには触らないように。君の確認を待つ必要はありません。仕分けは済んでいるでしょう?」
戸口でモップが止まる。逆立つ白髪頭の小柄な老人が、大きな鼻をこちらへ向けた。掃除仲間に源さんと呼ばれている人だ。
「兄ちゃん、掃除より先に揉め事を拾ったな」
國枝が廃棄箱の蓋を閉じる。俺の目の前で見出しが隠れ、國枝の声が重なる。
「指定した数を出せばいい。受領控え二束を含めて処分だ。余計な相談を始めるな。新人の都合で仕事を増やすな!」
一度目、五月十七日、営業の席に横領の照会が来た。帳簿と照らす受領控えが足りず、経理の係員は『廃棄済みでは確かめられません』と言う。机を探しても、引出しの冷たい取っ手ばかりが手に残った。何かできないかと顔を上げては、誰とも目を合わせず、また下を向く。紙も、それを確かめたいという人の声も、俺は残せなかった。
今の回収箱には、控えの見出しが覗く。遠ざけなくても、小さな字まで読める。だが、金を取った証拠はここにない。皆の前で名を挙げる言葉が、口の中に留まった。戸口の縁なし眼鏡の奥の目は箱へ向いている。
樋渡は腕時計を見て、細い顎を引き、経理へ戻る。源さんの笑い皺に埋もれた目が、捨てられる紙を追う。
俺は源さんのそばへ寄った。箱から離れる足が、戸口でためらう。
「源さん、廊下で少しお話ししてもよろしいですか? ここでは、まだ言えないことです」
源さんはモップを持って出る。俺も続き、後ろ手に戸を閉めた。廊下の窓から、午後の光が差している。漂う埃の向こうで、モップの先が床を擦る。俺は声を落とす。
「経理部長の横領を疑っています。まだ証拠はありません」
源さんがモップにもたれる。
「だったら、紙を捨てる手を止めな。名前より先に紙だ」
戸の向こうで箱が鳴った。俺は取っ手へ手を戻す。今こうしている間にも、運ばれてしまう。
「止めたいんです! でも、新人が口を出すなで終わってしまう。疑いだけでは、作業を止める理由にできません。証拠もなく人を悪者にはできないんです」
源さんが喉の奥で笑う。
「へっ、偉そうな言葉を使うわりに、困った顔する兄ちゃんだな。その取っ手まで丁寧につかむか。戸にまでお伺いを立ててるぞ」
俺は源さんへ向き直った。腹の底から出かかった声を、閉じた戸の前で抑える。
「笑い事じゃありません! 運んだ古参まで困るんです。言われたとおりに働いた人が、あとで説明を求められる。中身を確かめられなくなってからでは、何も言ってあげられません!」
源さんは笑いを収め切らずに、モップの柄を叩く。
「怒られても人の箱へ戻るのか。いいねえ! その顔を戸に見せても、戸は困るだけだ。戻せたら菓子はおれ持ちだ。ほら、行きな」
解き方は教えてくれない。俺は取っ手を押し下げた。倉庫にはまだ箱がある。古参もその隣にいる。搬出票に並ぶ國枝の字を、俺は上から追う。
「國枝課長、指定数を守るために数え直します。搬出票には受領控え二束とあります。中身が違っていたら、このまま出してはいけませんね?」
國枝が搬出票の指定欄を叩いた。紙がへこむほど押さえ、そのまま俺を見据える。
「その数でなければ出すな! 確認しろと言ったろ。余計なものまで運ばせるな」
源さんは戸口の掃除を再開する。俺と古参で蓋を開けた。廃棄箱の控えは一束しかない。紙の端を持ち上げても、その下に続きはなかった。古参が回収箱の見出しを指す。
「こっちに残りがある。束の続きだよ。でも、これは経理へ渡せという札だな。勝手に戻すわけにもいかんよ」
俺は箱を動かさず、搬出票を國枝へ向ける。
「はい。回収へ出すと指定数に足りません。廃棄へ戻すと樋渡部長の指示と違います。どちらへも動かせません。指定を照会するまで、保留してください」
國枝も束をめくった。誰が移したのかは、この紙からは分からない。俺は言葉を足さずに待つ。國枝が紙を箱へ戻した。
「……双方そのまま置け。指定の照会が済むまで出すな。勝手に束を崩すんじゃないぞ」
俺は壁の内線へ目をやる。
「承知いたしました。保管の確認をいただくため、塩見課長を呼びます。照会の間に運び出されないよう、置き場所も決めていただきます」
内線で呼ぶと、塩見は経理の係員を伴って来る。箱と搬出票を見せる俺の声は、まだ少し上ずっていた。塩見が控えの表紙を押さえる。
「勝手に動かすな。受領の控えは経理の照合に回す。新人、残した範囲を報告に書け」
俺は搬出票を塩見へ渡す。
「はい。回収指定と搬出指定、どちらも添えます。箱を止めた理由が分かるように書きます。現物を確かめた方の名前も残してよろしいですか?」
係員が対象を書き留めた。続いて照合室の予定を開く。
「五月六日、照合室で結果を報告します。帳簿と受領控え、それに返金の記録も確認します」
俺は係員から保全報告の用紙を受け取る。
「私も保全者として伺います。足りない資料があれば、資材課へ知らせてください。保管した箱から、すぐ確かめられるようにしておきます」
塩見の確認を受けた報告に、國枝も指定との相違を書き入れる。俺は署名済みの原本と控えを課内受付へ渡した。日付を受け、関係課へ回す紙の端がそろう。穂積修。自分の名が、残した物のそばにある。
箱の中で紙の角が鳴った。古参が片側を持ち、俺はもう片側へ手をかける。腰をかばおうとして、支えが要らないことに気づいた。箱は重い。それでも、抱えたまま置き場所まで運べる。倉庫の窓から夕方の光が斜めに差し、古参が笑って棚を空ける。
「これで、中身を確かめてから片づけられる。ありがとな。運んじまったら、戻すのも難儀だ」
俺は箱の縁から手を離した。礼を言われると、うまく顔を上げられない。箱の角を棚にそろえながら、俺は答える。
「こちらこそ。箱を支えてくださって、助かりました。まだ何も確かめ終わってはいませんけど。……確かめられるところには、置けましたね」
係員は照合資料を経理へ運び、塩見は保管場所を確保する。國枝も搬出変更の連絡へ向かった。俺と古参で箱の向きを直す。棚に触れる紙の音が、手を離してもしばらく耳に残る。
ビルを掃除している「源さん」だけが、なぜか面白そうに俺を見ているけれど。
古参が奥の棚へ行くと、源さんが寄ってきた。深い皺を寄せ、空の懐を叩く。
「あーあ、菓子の賭けはおれの負けだな。兄ちゃん、遠慮して高いのは選ぶなよ。安いのなら、遠慮はいらんぞ」
俺は報告の控えをしまう。紙の端を折らないように押さえてから、源さんを見る。
「ありがとうございます。……でも、菓子代は源さん持ちという話でしたよね? 俺、何も賭けてませんが。念のため、そこは確認させてください」
源さんはモップを担いだ。戸口を空けながら、声を張る。
「細かいな! 口だけ先に定年を迎えるぞ。買いに行くのは若い方だ。おれの気が変わらないうちに、早く行こうぜ」




