4. 判の行き先
五月六日、約束の照合室。連休明けの部屋には、閉め切った紙の匂いがこもっている。窓から入る光が机を照らし、樋渡部長の席だけが空いていた。誰もそこへ資料を置かない。
保全者の俺、受領を説明する塩見、廃棄指定と研修監督で立ち会う國枝。経理の係員が、机の中央で保全報告を開いた。俺の名の脇には受付日がある。
「四月三十日に残した受領控えを含め、照合が済みました。保全した範囲は、こちらで間違いありませんか?」
俺は鞄から控えを出す。
「はい。こちらの紙とも確かめてください。箱から出した資料は、引渡しの記録にすべて記入してあります。私が確かめた範囲も、そこに書いたとおりです」
塩見が原本の綴りを置いた。重なった紙が、机を低く鳴らす。
「受領の説明は俺がする。新人は、自分で確かめたところまで話せばいい。分からんところまで背負うな。そこは俺に回せ」
一度目、五月の配属横断研修で、講師役の塩見から聞いた。『品を受け取った印だ。金を戻すところには、立ち会っていない』。受講席の俺は、質問用紙を白いまま出す。あの声を助ける欄はないと、勝手に決めていた。質問を書く余白なら、目の前にあるのに。月末には、塩見の机ごと地方の倉庫へ移る辞令が出る。ずっと後になって、社内報の訃報欄でその名をもう一度だけ見た。
隣では、太い腕が綴りをそろえている。紙をめくる音、短い咳払い、ボールペンを鳴らす親指。俺はその手元から、なかなか目を離せなかった。生きている人は、こんなにも音を立てる。
受領原本は、いま手の届く所にある。俺は白紙の説明欄へペンを置いた。誰かが書いてくれるのを待つ余白には、もうしない。
「承知いたしました。受領の原本と、経理へ渡した控えの対応を先に確認します。私の説明に違うところがあれば、その場でおっしゃってください」
係員が返金の控えを並べる。
「二重払いの戻し金が、会社へ入っていません。昨年十一月から今年四月まで、六か月で二百四十万円です」
俺は返金欄へ身を乗り出した。数字の下に、金の行き先を示す記載がある。
「その戻し金を、誰が受け取ったのかまで確かめられましたか? 返送の記載とは、どうつながりますか? 品の動きと分けて、確認させてください」
係員は照会回答を開いた。先方の確認が付いた欄をこちらへ向ける。
「樋渡部長の受領は先方にも確認済みです。こちらでは営業企画課の販促品の返送として処理されていますが、品は倉庫にあります」
塩見が保管記録を隣へ出す。
「返送で外へ出た記録はありません。照会された品は、現物も確かめました。受領時の札も残っています。必要なら、保管場所もご案内します」
國枝の指が塩見の印に止まった。返送の紙を押しのけ、赤い印だけをこちらへ向ける。
「受領した課長の責任だろう。品を持っているのも資材課だ。判がある以上、知らんでは済まん!」
俺が係員の示した欄を追うと、國枝は写しを突き返した。紙の端が机からはみ出す。
「都合のいい写しで話を進めるな! 原本で説明しろ。抜けた紙があるんじゃないのか? 新人の説明だけで通ると思うな!」
写しをそろえ直す手が、途中で止まった。怒鳴り声のあとに口を開くのは、やはり怖い。俺は紙を机の内側へ戻し、係員へ向く。
「はい、指定された原本で確かめてください。ですが、資料が抜けているとおっしゃるなら、その箇所も確認をお願いします。すみません、保管中の原本を出していただけますか?」
係員が綴りを開く。その紙が落ち着くより早く、國枝が受領印を示した。
「ここに課長の判があるだろ! 写しでも原本でも同じだ。新人のお前にも見えるな? そこを飛ばして話すな!」
俺は受領欄と支払欄を並べる。朱肉の赤は似ていても、欄の名が違う。國枝の指のすぐ横へ、俺はペンの先を置いた。
「課長の判は、品物を受け取った判です。金を払った判ではありません」
國枝が俺の言葉を遮る。
「新人が判の責任を決めるな! 書類を並べて、上司をかばえば済むと思っているのか! お前が口を出す話じゃない!」
俺は原本の端を押さえた。声に押されてこの紙まで引っ込めたら、塩見の印だけが残る。
「決めつけないでください! この欄まで見てください。受領と支払を同じにしたら、誰が金を扱ったか消えてしまいます! 原本を出したのは、そこを確かめるためでしょう!」
國枝は紙から俺へ目を上げる。
「黙れ! 新人のお前が、俺に指図するな!」
肩が縮み、押さえた紙にしわが寄った。俺は力を緩める。ここで黙るために、この紙を残したわけじゃない。
「黙っていたら、受け取っていない金まで塩見課長の責任になります! 原本で説明しろとおっしゃったのは課長です。どうか、説明するところまで聞いてください!」
係員が捺印の欄を指した。國枝の前で、職掌の記載と合わせる。
「塩見課長の印は納品受領です。支払の承認と返金処理は樋渡部長の職掌で、この原本でも別の欄になっています」
國枝の指が受領印から離れた。紙の上にあった影も退く。
「……原本も、その区分なのか?」
係員は綴りを閉じずに答える。
「はい。要求された原本での確認です。品を受け取った印を、戻し金を受け取った根拠にはできません」
俺は紙を係員へ返した。端に残った浅いしわを伸ばし、手を離す。自分で残せたのはここまでだ。
「原本はお返しします。以後の調査もお願いいたします。私から説明できることがあれば、伺います。記録と食い違う点があれば、そちらも確認させてください」
係員が空席へ手を向ける。
「樋渡部長は本日付で出社停止です。今後の確認も担当が引き受けます。保全資料は経理で保管します」
五月十七日を待たずに、紙が動いた。この先に何が起きるか、俺の記憶にはない。空いた椅子を見ても、答えは出てこない。
塩見は受領の説明欄を埋め、ペンを置いた。その手で報告を係員のほうへ向ける。
「品と金の責任を分けた訂正報告にしてください。こちらの印で処理したとだけ残されたら、同じことになります。品を受け取った印だと、そこを省かないでください」
係員は報告欄を書き直す。塩見の前へ戻して、確認を求めた。
「この記載で、受領の責任は切り分けます。保全者の穂積さんの名も残し、確認済みの報告を社内報へ回します」
俺は係員へ控えを差し出す。
「受付を通した原本と控えにも、その訂正をお願いします。名前だけでなく、残した資料の範囲も。あとで読む人が、同じ紙に戻って確かめられるようにしてください」
係員が俺の控えを重ねる。
「分かりました。課長確認を受けて関係課へ回し、部長承認後に掲載へ送ります。控えも合わせます」
國枝は立会い欄を埋めて研修へ戻った。係員も原本を抱えて出る。空いた机で持ち帰る資料をそろえ、俺は塩見の分へ手を伸ばす。
「課長、こちらは私が持ちます。こういうものは若い者に任せるに限ります。倉庫へ戻ったら、保管札も照合済みに直します」
塩見の手が、綴りの上で止まった。俺の顔を見て、眉を寄せる。
「新人。若い者を呼びつける顔で言うな。お前が若い者だ」
俺は伸ばした手をそのままに、背筋を正す。
「承知いたしました。呼ぶ手間が省けて何よりです」
言ってから、自分でも口元が緩んだ。塩見は俺の資料まで持ち上げる。太い腕が差し出した束を受け取ろうとすると、塩見が口を開く。
「穂積。お前が残したのは、俺の席だ」
承知いたしました、と唇だけ動いた。返事なら、いくらでもしてきたはずだ。けれど、いつもの形に口を動かしても、声が出てこない。
窓の外で、昼のサイレンが鳴り始める。差し出された資料から、ファクスの紙の匂いが立った。俺はその束を受け取る。階段を駆け上がれる体が、椅子の脇から動かない。
俺の名を呼んだ口が、すぐそこにある。頬に落ちたものを手で拭って、ようやく涙だと分かった。塩見は紙を引っ張らず、待っている。急かす声も、困ったような笑いもない。
資料を抱え直すと、紙の角が腕に当たった。痛いほどではない。その小さな手触りを確かめてから、俺は顔を上げる。
「……その声で呼んでもらえるとは、思いませんでした」




