2. 窓際を選ぶ
家を出る前、いってらっしゃい、と台所から母の声が届く。靴を履く手が止まった。二〇二六年の俺には、もう二度と聞けない声だ。返事をしようとすると、喉の奥が熱くなる。味噌汁の湯気が玄関まで追ってきた。振り向けば、まだそこにいる。それを確かめたいだけなのに、靴ひもを結び直すふりが要る。いつもより大きく返事をして、俺は家を出た。
四月二日。会社の階段の踊り場に、昨日の煙草の匂いが残っている。三十三年、段を数えて上った階段を、今朝は数えずに来た。掛け声だけが古い。俺は口元を押さえる。
「よっこいしょ……は、いらないんだな」
踊り場を見回した。誰もいない。窓の外で、まだ新しい社旗が風に鳴っている。いまの久保田は、まだ何も奪っていない。俺は誰もいない場所で、自分に言い聞かせる。
「まだ何もしていない奴は責めない。返すのは、今ここで打たれた手だけだ」
五十五歳の俺が、二十二歳の俺に掛けておく鍵だ。その言葉を持って控室へ入り、配属案内を読む久保田の隣に座った。俺は開かれたままの資料を見る。
「久保田は、どこを希望するんだ? さっきから同じ所を読んでるぞ。迷ってるのか?」
久保田が資料を裏返す。
「上へ行ける所。親父が職をなくしてさ。家に帰るといるんだよ。会社へ行く時間なのに。だって、会社に残れなきゃ何にもならないじゃん」
軽い語尾のあとに、紙を折る音がした。俺は冗談を返さず、久保田へ向き直る。
「……家でも、心配してるだろうな。お前まで無理をしてないか? 駄目になるまで我慢することはないぞ」
久保田の薄い唇が笑いの形になりかけて、止まった。
「親父に、俺まで駄目だったなんて言えない」
一度目、三十年のあいだ、こいつの口からこの話を聞いたことはない。伏せられた資料の角が、久保田の手の中で曲がっている。俺はその紙から、面談の順番へ目を移す。
「俺も出世したい。だから希望は自分で言おう。あとで、言えばよかったって残るのは嫌だ。お前も、言う前から駄目だと決めるなよ」
久保田が顔を上げ、呆れたように笑った。
「……お前、変わってるな。まだ給料も出てないのに、話し方だけ退職金もらってるぞ」
俺は思わず襟を直す。
「説教じゃない。……自分に言ってるんだ。ついでに聞いてくれると助かる」
資料を抱え直す設楽の、肩にそろえた黒い髪が襟を払った。姿勢よく歩く彼女に呼ばれ、仁木が額に落ちる黒い前髪を揺らして顔を上げる。設楽がその肩を資料の角でつつく。
「仁木さん、寝るのはあと。返事だけ起きてても駄目だよ。穂積さん、見学の集合場所、ここで合ってるよね?」
俺は案内を開いた。
「合ってるよ。面談が済んだら、一緒に倉庫へ行こう。俺の希望先も見ておきたい。足元が汚れてもいい格好で、だそうだ」
仁木が前髪の下で、ゆっくり瞬きをする。
「倉庫って、静かなのかな。……いや、サボれそうとかじゃないよ、仕事に集中できそうっていう意味で」
呼ばれて入った面談室で、人事部長が白紙の希望票を渡した。昨日の訂正票も机にある。
「訂正版は関係課へ回りました。営業の人気部署にも推薦できますよ。希望はありますか?」
一度目、一九九八年三月、営業の廃棄立会いで倉庫へ来た。古参が品を拭きながら『まだ使えるのに、まとめて捨てろだとさ』とこぼす。俺は処分の欄だけ埋め、品を見なかった。
今の白紙を膝に置く。推薦の紙へ伸びかける手を戻した。空いた希望欄へ向けて、俺は言う。
「資材課を希望します。会社の品物を、捨てずに使いたいので」
人事部長は推薦の書類を閉じる。
「その希望なら、この推薦は回しません。現場を見てから、今日中に希望票を出してください」
俺は白紙の票を持ち直した。
「はい。倉庫を見て、必ず今日中にお持ちします。現場の方にも、お話をうかがってきます」
人気部署への道が、紙の音で閉じる。選んだのは俺なのに、その音には肩が縮んだ。希望票はまだ白い。鞄に収め、控室の設楽と仁木を迎えに行く。
久保田を次の面談へ残し、倉庫へ着いた。油と段ボールと埃の匂いがする。天井の蛍光灯が一本、瞬きをくり返す下で、塩見課長が棚下の品を引き出している。白髪交じりの短い髪に埃がつく。
「足元を見て入れ、新人。紙を読むのは、荷につまずかない所へ立ってからだ。品もお前も、転んでからじゃ遅いぞ」
仁木は長い手足を畳んで台帳へ顔を寄せた。眠たげな奥二重の目をこすり、面長の顔を上げる。
「僕、ここで読んでいいですか? 棚卸の記録と、この札がつながるんですね。棚だけ見ても、分からないんだ」
俺も棚卸の台帳を開いた。整理中の古参の横で、國枝が処分指示を示す。
「その棚は営業企画の指定だ。まとめて片づけろ。見学が済んだら搬出するぞ。新人、作業の邪魔をするな」
金具に錆はなく、包みも乾いている。俺は品へ手を添えた。
「待ってください。まだ売れる品ではありませんか? 処分を止めて、使い道を探せませんか? これだけきれいな物を、このまま捨てるのは……」
塩見が太い腕で品を遠ざける。四角い顔が俺へ向いた。
「売れないんじゃない。売っちゃいけない品なんだ!」
品に触れていた手が宙に残る。俺は引っ込めながら、言葉をつなぐ。
「売れれば助かると思いまして……。傷みもないので、捨てるよりはと。まだ使える物ですし」
塩見が所有者欄を叩いた。
「客の預り品だ! きれいなら売っていいのか? お前は持ち主に聞いたのか?」
知っているのは古参の嘆きだけ。売れる在庫だとは、誰も言っていない。顔が熱くなった。俺は品から手を離し、塩見に向き直る。
「すみません、確かめずに決めました! でも、売れないなら捨ててよいことにもなりません。捨てていいかは、確かめさせてください」
塩見が台帳を俺へ押す。
「なら、捨てられない根拠を探せ! 気に入った品だけ抱えていても、倉庫の仕事にはならん。残したいなら、そこを読め!」
俺は台帳のある机へ戻った。逃げるように伏せかけた顔を、塩見へ上げる。
「はい、教えてください。残せる品は残したいです。知っているつもりで口を出して、すみません。今度は持ち主の記録から見ます」
設楽がまっすぐな黒い目を俺へ向けた。張った眉の下に、笑いはない。
「今の見立ては、何を確かめたものなの? 使えることと、売っていいことは違うよね? 残したいなら、そこを曖昧にしないでください」
俺は設楽へ頭を下げる。
「そうだね。すまない、外側しか見てなかった。契約も知らない。指示票と並べてくれる? 俺の思い込みがあったら、また言ってほしい」
古参が預りの記載を開いた。
「持ち主への確認はまだだよ。ここが空欄だろ? 捨てていい返事は、もらってないんだ」
設楽の置いた指示票と所有者欄を追う。処分対象は棚ごと、所有者は品ごとに違う。塩見が紙と現物を見比べ、搬出する品の前に立った。
「國枝課長、この一括指定では預り品まで出ます。資材課の確認は出せません。処分は保留です」
國枝は指示票を引き取る。紙を折る音が、やけに大きい。國枝が俺を見る。
「……資材課の確認が出ないなら、今日は出さん。だが新人、今日の顔は覚えておくぞ」
國枝の靴音が遠ざかった。古参の手元に、品が残る。俺が売れると思った品も、まだ棚の前にある。
会社の金と物は、最後には必ずこの倉庫を通る。資材課へ回されてからの俺は、それを窓際から見ていただけだ。窓際の机へ希望票を広げる。今度は、ここから見る。分からない物を、分からないまま通さない。俺は希望欄に資材課と書き、穂積修と署名する。
今度の人生、手柄は自分の名前で出す。
控えを取ってから、票を差し出した。ペンを置いた塩見へ、俺は頭を下げる。
「間違えたところから覚えたいです。塩見課長、ここで品の見方を教えていただけませんか? 品と一緒に、持ち主のことも」
下がり気味の黒い目が、希望欄から俺へ動く。塩見は票を机に置いた。
「ここで品から覚えろ。売る話は、そのあとだ。……その紙、控えも取っておけ」
俺は背を伸ばす。
「はい! 控えは、もう取ってあります。そこだけは、お手数をかけずに済みます」
塩見の口の端が、わずかに上がった。
「ふっ、手の早い新人だ」
受入れ欄に判がつく。署名したばかりの名の向こうで、古参が金具を磨き始めた。捨てる欄を書くばかりだった手で、俺も棚へ品を戻す。手を離しても、品はそこにある。
控えを鞄に残し、人事へ原本を届けた。倉庫へ戻ると、まだ古参の布が動いている。磨かれた金具が、窓の光を返す。
棚の奥には、経理の回収を待つ伝票箱が積んである。五月に会社から消える男の判も、あの中に眠っているはずだ。




