1. ゼロの数
二〇二六年三月二日、面談室。退職日の記された紙が机に置かれ、向かいから手が伸びてくる。
「穂積さん、長い間お疲れさまでした」
二〇二六年三月。俺の肩を叩いたのは、三十三年前の同じ日に入社した同期、常務の久保田誠司だった。
五十五歳、万年係長。
肩に残った手の重みは、書類一枚ぶんより軽い。引継ぎ用紙の相手先は空欄のまま。俺はそこへペンを向けた。埋める名前さえ決まれば、まだ仕事の話ができる。
「常務、引継ぎはどなたにいたしましょうか? 途中の仕事もありますので、直接お伝えしたいのですが。先方にご迷惑をかけないように」
久保田は書類を閉じた。机の上には、退職日だけが残る。
「人事へ渡しておいてください。必要があれば、こちらから連絡します。あとのことはこちらで進めますので」
三十三年、同じ廊下を歩いた男の声が、知らない人の声より遠い。まだ何か書くふりをして、俺はペンを握り直した。
三月二十七日。
自分で予約した店で、時計を見る。向かいの椅子を少し引いておいた。遅れて来ても、すぐ座れるように。
俺の書いた企画はいつも久保田の名前で上へ届き、最後の送別会には誰も来なかった。
閉店の明かりが空の皿を照らす。誰かが来たら最初に言うはずの、お疲れさまだけが口に残る。名前を呼ばれないまま、俺は目を閉じた。
◇
目を開けると、一九九三年四月一日。
皿がない。椅子が並び、正面には壇と社名の垂れ幕がある。整髪料と新しい革靴の匂いが、会場いっぱいに詰まっている。
菅生物産の入社式の朝だった。
窓に映る襟を直すと、寝癖の残る黒髪まで揺れる。素直な眉も、へこんでいない頬も、細身の体も俺のものだ。襟から手を離しても、窓の中の若い男は消えなかった。
胸ポケットにはポケベル、隣の席では二十二歳の久保田があくびをしている。
つやのある七三分けを崩さず、久保田は口を隠す。長い脚が椅子の下からはみ出していた。
俺は隣へ顔を向ける。
「久保田、これから式が始まるんだよな? 俺たち、まだ入社したばかりだよな? 今日は、その初日なんだよな?」
久保田が肩を揺らして笑う。
「何だよ、寝ぼけた? 社長の話、もう終わったじゃん。初日から大物だな、お前。挨拶の間くらい起きとけよ」
社長が壇を下りて退席し、経理部長の樋渡が礼をする。樋渡は配布資料を掲げた。
「給与の振込日と経費精算の締めは、こちらですね。申請は所属先を通してください」
紙のこすれる音に紛れて、久保田が高い鼻をこちらへ寄せ、薄い唇を動かす。
「経理のお偉いさんだってさ。金をもらう話くらい、ちゃんと聞いとこうぜ。俺、ここは寝ないで聞くわ」
俺は壇から目を離さずに答える。
「……ええ、存じています」
久保田が噴き出しかけて、肘で俺を突いた。
「誰に言ってんだよ。俺にまでそれ、やめろって。お前、入社した日に勤め上げた顔するなよ」
俺は式次第で口元を隠す。
「悪い、つい。相手を見て話すようにしないとな。口だけ先に勤めに出てる」
久保田が笑いをこらえるように鼻を鳴らした。
「口より先に目を覚ませよ。入社初日から寝ぼけてる同期の面倒まで、俺は見ないぞ。俺だって自分のことで精いっぱいだし」
樋渡が壇を下りる。式次第を遠ざける癖が出た。戻しても細字まで読める。三十年かけて遠くなった字が、手の届く所で黒々としている。紙を近づけたまま、俺はしばらく動けなかった。
顔を上げると、窓には眠気のない黒い目。研修連絡用の貸与品だというポケベルが震え、煙草の残り香が鼻に入る。俺は式次第を握り、声を絞り出す。
「……本当に、ここからか?」
久保田が通路から手招きした。
「置いてくぞ、穂積。研修の席まで寝ながら歩く気か? ほら、鞄も持てって」
穂積、と呼ばれただけで、鞄を持つ手が止まる。俺は式次第をしまいながら返した。
「悪い、今行く。呼んでくれると助かる。……置いていかれるのは、慣れてるんだ」
久保田が眉を寄せる。
「なに暗いこと言ってんだ、初日だぞ。慣れるの早すぎるだろ。まだ置いてってないじゃん。ほら、急げって」
俺は膝をかばわず立ち上がった。痛むはずのところが痛まない。鞄の重みだけを手に感じる。相場も競馬も浮かばないのに、会社のことだけは湧いてきた。三十三年、会社しか見てこなかった男の頭だ。俺は待っている同期の背を追い、研修室へ向かう。
◇
研修室では隣の同期が早くも舟をこいでいる。
俺は覚えている。五月に経理部長が会社から消えること。秋に大口の取引先が倒れること。そして、研修で居眠りしているあの同期が、三十年後の社長になること。
営業企画課長の國枝が、広い肩を揺らして原案を教卓へ置いた。角張った黒い角刈りの下で、太い眉が動く。講師が添付資料を配る。
「これは未承認の実務伝票です。来週発注する梱包テープの原案と、添付見積を照合してください」
一度目、四月五日の発注後、この研修席で講師の説明を聞いた。『百箱を千箱で出してしまいまして。照合を任された責任です』。教材の端を握る手まで覚えている。あの日の俺は、黙って教材をめくっていただけだ。
今の見積は、まだ原案に留めてある。めくりかけた紙を戻し、俺は手を上げた。
「國枝課長、数量を確認してもよろしいでしょうか? 添付の見積と違うようです。発注する前に、確認をお願いします」
國枝のつり上がる一重の目が向く。張った顎がこちらを指す。
「新人は黙って聞いてろ」
研修の課長に、俺は頭を下げて言った。
「はい。黙って申し上げます。来週の発注は、ゼロがひとつ多すぎます」
教室のどこかで、誰かが吹き出しかけて咳に変える。國枝が評価用紙を引き寄せた。
「初日から口答えか! 数字が読めればいいと思うな。ここはお前の発表の場じゃない。研修は態度も見るぞ!」
椅子へ戻りかけて、俺は机の縁をつかむ。講師の手の中で、添付の端がかすかに鳴った。ここで座れば、叱られずに済むのは俺だけだ。俺は机をつかんだまま声を張る。
「叱られるのは困ります……! ですが、間違ったまま出るほうが、もっと困ります。発注前に見積だけでも確かめてください。今なら直せます」
國枝は原案の確認印を叩いた。
「俺が見た原案だ! 間違いだと言うなら、講師の前で示せ。憶測で進行を止めるな!」
俺は添付をそろえる。紙の端がうまく合わない。若い手が、五十五歳の緊張に追いつかず、俺はそろえるのをやめて数量欄を指した。
「はい、今ここで確かめます。数量の話だけです。私の言葉ではなく、見積の数量欄を見てください!」
講師が原案と見積を並べ、計算を追う。
「千箱ではなく百箱です。単価二千円ですから、二百万円でなく二十万円。……助かりました」
國枝が訂正票を俺の机へ滑らせた。確認印の横に訂正者欄がある。國枝はその空欄を指す。
「言い出したのはお前だ。指摘した新人が書け。訂正理由と名前もだ。あとで訂正者を曖昧にするな」
俺は訂正票を引き寄せる。
「承知いたしました。穂積修と記入します。原本と控え、ともに残します。訂正した箇所も分かるようにします」
朱肉の蓋が開く。講師が署名入りの原本と控えを受付の女性へ渡し、俺に控えが戻った。受付日と課長確認印、その先には関係課と部長承認の欄が続く。
久保田が横から訂正票を覗き込む。笑うと細まる黒い目だ。
「初日から名前が回るじゃん。穂積、お前、えらく手慣れてるな。俺なんか、まだ課の名前も覚えてないぞ」
俺は訂正票から目を上げずに返した。
「念のため、数字は二度見る癖があってね。間違えたまま通すと、困る人が出る」
久保田が訂正票を指で弾く。
「癖ってお前、初日だぞ。……ま、俺の名前も隣に書いといてくれりゃよかったのに。だって、隣に座った仲じゃん」
紙がずれ、俺は控えの端をそろえた。
「名前は、自分で書くもんだよ。お前の分は、お前の手で。せっかくこれからなんだし」
講師は俺へ頭を下げる。
「ありがとうございます。発注する前で、本当によかった。こちらは訂正版で回しますね」
空の椅子を見つめていた目で、自分の名を読む。三十三年、訂正者の欄に自分の名を書いたことは一度もない。朱肉の匂いが、まだ手に残っていた。今度は、誰かが困る前の紙に俺の名前がある。
折り目をつけないよう、俺は控えを鞄へ収めた。向かいの講師の手は、もう震えていない。
國枝がペンを置く。
「新人のお前が、なぜそこを見れば分かる? まだ説明もしていないだろ?」
俺は若い背を伸ばす。
「すみません。三十三年ぶん、前例がありまして」




