絶望と救い
ちょうどその同じ時刻――。
月詠霞たちが支配する「楽園」と呼ばれる地下基地から、直線距離にしておよそ六十キロメートルほど遠く離れた、不気味な静寂が漂う地中の暗黒深部。
そこには、日本国政府がかつて国家存亡の危機と地上崩壊という最悪の事態を冷徹に想定し、巨額の国家予算を投じて極秘裏に建設を推し進めた日本最大規模の地下避難拠点――通称『中央シェルター』が存在していた。
地表から深々と穿たれた地下十五階層にも及ぶ巨大な防空構造物。
その総延床面積たるや広大な東京ドームが幾つもすっぽりと収まってしまうほどに途方もなく、かつては万が一の事態において行政・立法・司法を含むあらゆる国家中枢機能を完全に維持・継続させる目的のために設計された、まさに人工の地下巨大都市そのものであった。
しかしながら、世界を震撼させた魔物たちが地上に突如として出現してから三年という歳月が経過した現在。
その威風堂々たる地下都市の姿は、もはやかつての「国家最後の砦」という誇り高き名前で呼ぶにはあまりにも惨哀で、見る者の胸を痛めつけるほどに傷つき果ててしまっていた。
何とか点灯を保っている極めて薄暗い非常用照明だけが微かに壁面を照らし出す、冷気と湿気に満ちた薄暗い通路。
深刻な電力不足と節電対策のために完全に稼働を停止し、ただの階段と化した金属製のエスカレーター。
激しい振動や経年劣化によって亀裂が入った壁面のあちこちに、無骨に打ち付けられた補修用の重々しい鉄板の数々。
そして、その狭く殺風景な通路の奥にある命繋ぎの配給所へと向かって、絶望的な長さで延々と伸び続ける痛々しい人々の行列。
まだ分別もつかないような幼い子どもから、働き盛りの大人、そして腰の曲がった老人に至るまで、その場にいる全員が小さく錆びついた金属製の食器を愛おしそうに両手で抱え込み、ただ無言で自分の順番が巡ってくるのを静かに待ち続けていた。
ちなみに、本日彼らに与えられる予定の配給の内容とは。
指で簡単に砕けてしまうほどの乾燥クラッカーがたったの二枚。
そして、地上付近の瓦礫の隙間から命懸けで採取してきた野草を塩水で薄く煮込んだだけの、色のついたスープが小さなカップにたった一杯。
文字通り、ただそれだけの凄惨極まりない食糧事情であった。
「……また、昨日よりも目に見えて量が少なくなったな。」
「文句を言っても仕方ありませんよ……。」
「残された食料の全体備蓄自体が、いよいよ本当の限界を迎えているのですから。」
行列に並ぶ生存者の誰も、配給を担当する係員に対して不満や文句の声を荒らげるような真似は一切しなかった。
そんな怒りや文句をどれほどぶつけたところで、現状は何一つとして好転しないというあまりにも冷酷な事実を、彼らはこの絶望に満ちた三年間という長い年月の中で痛烈に理解させられていたからである。
しかし、どれほど大人たちが必死に感情を押し殺して耐え忍ぼうとも、何も知らない幼い子どもたちだけはそのお腹の空腹と身体の痛みを隠し通すことなど到底不可能であった。
「ねえ、お母さん……もうお腹が空いてペコペコだよ……。」
「あともう少し……あともう少しだけ我慢しようね、いい子だから。」
母親は我が子を少しでも安心させようと、痩せた顔に懸命に優しい笑顔を作って見せようと試みる。
だが、極度の栄養失調と疲労によって引きつったその母親の笑みは、痛々しいほどに儚く、そして今にも崩れ落ちてしまいそうなほど弱々しいものであった。
そんな胸を締め付けられるような絶望的な光景を、通路の遠く離れた陰から静かに見つめ続けている一人の老人がいた。
白髪の交じった短髪と、深く刻まれた刻印のようなシワが印象的な男性。
この崩壊した日本国において、最後の中枢を担う現・内閣総理大臣――神宮寺 隆一その人であった。
かつてはテレビ画面の向こうで威厳と自信に満ち溢れていたその頬は見る影もなく痩せ細り、かつての堂々たる最高権力者としての面影は大きく削ぎ落とされていた。
それでもなお、あらゆる苦難に晒されてきたその力強い瞳の奥底にある光だけは、決して未来を諦めて絶望に屈することなく鋭く輝き続けていた。
「……本当に、すまない。」
誰の耳にも届かないほどの、息のような小さな悔恨の声が彼の口元から掠れるように漏れ出す。
「私が……もしも私にもっと圧倒的な指導力と力のある総理大臣であったならば……こんなことには……。」
そのすぐ隣に影のようにピタリと寄り添って控えていた官房長官が、静かに、そしてゆっくりと首を横に振った。
「総理、どうかそのようなご自身を責めるようなお言葉はお控えください。誰も総理を責めてなどおりません。」
「いいや、違うのだよ。」
神宮寺総理は、自嘲気味に力なく苦笑いを浮かべた。
「この地獄のような三年間……私は国民をただひたすらに暗い地下へ逃げ込ませ、閉じ込めることしかできなかったのだからな。」
「地上は恐ろしい魔物たちによって完全に支配され尽くし。」
「蓄えていた大切な食料はいよいよ底を突きかけている。」
「病人や怪我人を救うための貴重な薬品も、施設を維持するための燃料も完全に尽きかけてしまっている。」
「一国の最高責任者たる国家のリーダーとして、私は完全に失格なのだよ。」
重く冷たい沈黙が、二人を包み込むように通路の空気を重く沈ませていく。
まさに、その重苦しい静寂が破られたのは次の瞬間のことであった。
「総理!」
厳しい表情を浮かべた一人の自衛官が、足音を激しく響かせながら一直線に駆け込んできた。
「間もなく、予定されております定例の統合作戦会議が執り行われます時間です!」
神宮寺総理は深々と一つ息を吐き出すと、静かに、そして力強く頷いた。
「……分かった、すぐに向かおう。」
中央シェルターの最深部。
何重もの防護扉によって遮断された中央作戦会議室。
そこには、崩壊の危機に瀕した日本という国家の生命線をかろうじて支え続けている、最後にして最高峰の知性たる頭脳陣が一堂に集結していた。
国の防衛を司る防衛大臣。
内閣の要である官房長官。
自衛隊の全軍指揮を執る統合作戦司令官。
陸上・海上・航空の各自衛隊の頂点に立つ幕僚長たち。
治安と防災の責任者である警察庁長官ならびに消防庁長官。
政府の危機管理を統括する内閣府危機管理監。
さらには、かつての日本が誇る最高峰の科学者や、高度な専門知識を持つ医療研究者、最先端の農業研究者、そして命綱となるエネルギー技術者たちまでもが、厳しい表情でそれぞれの席に着いていた。
会議室の正面に設置された巨大なメインスクリーンには、かつて美しかった日本列島の詳細な地図が映し出されていた。
しかし、その国土のほぼ全域と言っても過言ではないエリアが、生存絶望を示すおぞましい赤色によってべったりと染め上げられてしまっていた。
「現在の段階で、生存者および拠点の存在が確認できている地域は全国でわずか十九か所に過ぎません。」
統合作戦司令官が、重々しく抑調のない声で現状の報告を開始する。
「そして、その中で本日現在も双方の通信ラインが正常に機能している拠点となりますと……本日をもちまして、たったの七か所のみとなってしまいました。」
言葉の裏にある意味──また一つ、日本のどこかで人間たちの地下拠点が魔物に飲み込まれ、沈黙したという残酷な現実。
会議室に集まった誰もが口を開くことができず、ただ痛みに耐えるように黙り込む。
「続いて、最も深刻な食料の保有状況について報告いたします。」
そう言って立ち上がったのは、痩せこけた農業担当の専門研究者であった。
「現在備蓄されている主食用の米ですが、全体の保有残量はあと約十八日分となっております。」
「各種缶詰類の貯蔵分におきましては、あと十五日分。」
「最も保存が利く乾燥食品の類におかれましても、持ってあと二十二日分という壊滅的な状況です。」
「施設内に設置されている地下農業設備の稼働状況はどうなっているのかね?」
「慢性的な大出力の電力不足によりまして、現在は全てのシステムが完全に稼働を停止しております。」
「ただちにシステムを再起動させることは不可能なのか?」
「……極めて残念ながら、不可能です。」
「植物を育てるための特殊な肥料も完全に底を突いてしまっており。」
「植物育成用の特殊照射照明設備におきましても、長年の連続稼働によって製品としての寿命を迎えております。」
再び、息が詰まるほどの重苦しい沈黙と絶望が会議室全体を支配する。
続いて、白衣を纏った医療班のトップが重い口を開いた。
「怪我人や感染症治療に必要な各種抗生物質ですが。」
「こちらも残りわずか十一日分しか存在いたしません。」
「手術や懸命な救命処置に必要な輸血パックに関しましては。」
「残りたったの八日分という危機的状況です。」
「さらに、多くの腎不全患者の命を繋いでいる人工透析設備につきましても。」
「パーツの劣化と電力不足により、来月には完全にすべての稼働を停止せざるを得ません。」
一つ、また一つ。
提示される全てのデータと数値が、人類の未来に残された希望を容赦なく削り取っていくための残酷なカウントダウンに他ならなかった。
そして最後の議題として、統合作戦司令官が静かにメインスクリーンの表示画像を切り替えた。
そこに映し出されたのは、あまりにも巨大で不気味な、明滅する一つの真っ赤なアイコンであった。
「我々にとって最も致命的な大問題は、現在地上の真上に居座っているこれです。」
出席者全員の表情が一瞬にして極限まで険しく引きつる。
最新の衛星写真および地上観測センサーによって捉えられた衝撃的な映像。
そこに鮮明に映し出されていたのは。
この巨大地下避難施設の真上となる地上の領域にどっしりと鎮座している、まるで小高い山そのものが生きているかのような途方もない超巨大生物の姿であった。
全高はおよそ四十メートルを超え。
頭部から尻尾に至る全長は実に五十メートル以上。
その全身は、現行のいかなる兵器をも容易く弾き返してしまうであろう黒く輝く重厚な鋼鉄の装甲外殻によって隙間なく覆われた、正真正銘の化け物であった。
さらに恐ろしいことに、その超巨体の周囲には、数え切れないほど無数の鋼殻獣の群れが幾重にも群がり、まるで王を護衛する兵隊のように周囲の警戒にあたっていたのである。
「本個体に対する統合防衛省のコードネーム。」
司令官が、まるで死刑宣告を下すかのような低く重い厳粛な声で告げる。
「災害級特定指定魔物《黒鋼帝》。」
「現在までに人類が観測・確認してきたあらゆる魔物個体の中で、間違いなく最大最悪の破壊力を誇る最高危険度の個体です。」
メインスクリーンには、過去に人類がこの怪物と交戦した際の凄惨極まる戦闘記録データが次々と映し出されていく。
陸上自衛隊が誇る最新鋭の主力戦車。
強固な装甲を誇る装甲車隊。
遠距離から巨大な目標を狙い撃つ最新型の対戦車ミサイル群。
圧倒的な火力を誇る大口径の榴弾砲陣地。
航空自衛隊の戦闘機から投下された超重量級の大型航空爆弾。
それら人類が誇る科学技術の至宝たるあらゆる兵器の集中攻撃をもってしても。
その怪物の誇る黒鉄の外殻に対して、ただの一筋の擦り傷一つすら付けることすらできずに全滅という最悪の結果に終わっていたのである。
「今から三年前。」
「我が国が総力を結集して敢行した、史上最大規模の地上奪還・最後の大反攻作戦。」
「作戦に参加した精鋭部隊の総員、約一万二千名。」
「そして……その過酷な戦場からの生還者数は……。」
司令官はそこまで言うと、溢れ出そうになる激しい無念に耐えるかのように、静かにその目を閉じた。
「……生還者、ゼロ。」
作戦会議室内の空気が、まるで一瞬にして氷点下まで凍りついたかのように静まり返った。
その場にいる誰もが、痛いほどに理解していたのである。
あの地上に鎮座する圧倒的な怪物が目の前に居座り続けている限り。
人類にとって地上を再び奪還することなど、天地がひっくり返っても叶わない絵空事の夢物語に過ぎないのだということを。
一歩でも外の地上へ足を踏み出せば、即座にあの怪物とその群れによって惨殺される死。
かと言って、このまま安全な地下シェルターの中に閉じこもり続ければ、遠からず待っているのは緩やかな餓死。
どちらの道を選択したところで、彼らに残された未来など最初からどこにも存在していなかったのである。
その時、神宮寺総理大臣が静かに、しかし確固たる意志を込めて自らの足でしっかりと立ち上がった。
「……諸君。」
静寂に包まれていた会議室の中の全員が、弾かれたように一斉に顔を上げた。
「私は最後の瞬間まで、決して絶望して諦めるつもりはない。」
「たとえこの国の国民がたった一人であったとしても生き残っている限り。」
「日本という誇り高き国が終わりを迎えることなど決してあり得ないのだから。」
その力強い言葉と情熱に触れ、場にいた多くの者たちが悲痛な面に力なく、それでも確かに希望の灯火を宿したように深く頷いてみせた。
その――まさに、その一瞬の出来事であった。
ブゥゥゥゥゥゥッ!! ブゥゥゥゥゥゥッ!!
長年耳にしたことすらない、地下基地全体を激しく揺さぶるような爆音の超緊急警報が、会議室中に鋭く鳴り響いたのだった。
「な、何事だ!? 一体何が起きているというのだ!!」
モニターと対峙していたオペレーターの男性が、あまりの異常事態に悲鳴のような声を張り上げる。
「司令! 地上です! 地上の観測データに異常が発生しました!」
「かつて見たこともないような、圧倒的な超高エネルギー反応をダイレクトに観測!」
「反応のエネルギー規模があまりにも巨大すぎて……!」
「現在のシステムの計測限界値を遥かに突破……計測不能です!!」
メインスクリーンの映像が一瞬だけ激しいノイズとともに漆黑にブラックアウトし、そして次の瞬間。
言葉を失うほどに神々しく純白な白銀の光線が、地上一帯をまるごと覆い尽くしていく驚愕のリアルタイム映像が画面いっぱいに映し出された。
まるで世界そのものが再創生されるかのようなそのあまりにも神聖で美しい光景に、作戦会議室内にいた国家の中枢たる全員が息を呑み、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「……な、なんだというのだ……一体全体、これは何が起きているというのか……。」
誰一人として、その問いに対してまともな答えを返すことなどできるはずもなかった。
しかしそれは、これまでただ死と絶望しか知らなかった残された人類たちが、三年という途方もない暗闇の果てに初めてその目撃者となる――本物の「希望」が訪れた歴史的な瞬間であった。
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