国家の要
地下基地が、人々から「奇跡の楽園」と崇められ呼ばれるようになってから、早くも一週間という穏やかな時が流れていた。
広々とした地下広場では、かつて冷たく暗いコンクリートの片隅で怯えていた子どもたちが、今日元気いっぱいに駆け回り、その弾けるような明るい笑い声が心地よく響き渡っている。
かつてはただの砕けた土だった場所に、青々と瑞々しい葉を繁らせて順調に生長する広大な畑。
石造りの厨房ゾーンからは、魔石コンロの強い火力によって炊き上げられた、食欲をそそる芳醇な香気と真っ白な湯気を勢いよく立ち上らせる出来立てのご飯。
そして、地上での狩りや素材採集を完璧に終え、誇らしげな表情を浮かべて帰還してくる精鋭部隊の頼もしい姿。
ほんの数週間前まで、生存者たちが明日の命すら見えずただただ絶望するしかなかったあの重苦しい地下基地とは、もはや完全に別世界といっても過言ではないほど、温もりと生命力に満ち溢れた光景がそこには広がっていた。
そんな陽気で穏やかな昼下がりのこと。
月詠霞は上層のバルコニーに配された豪華なソファーへと深く腰掛け、魔石で優雅に温められた紅茶のカップを可憐な手つきで傾けながら、静かにその美しい瞳を閉じていた。
「……ん?」
ふと、彼女が神としての絶対的な権能によって、世界全体へ網の目のようにどこまでも広く深く張り巡らせていた圧倒的な感知能力が、遠く離れた領域から極めて小さな違和感を確かに捉えた。
それは、現在の地下基地から数十キロメートルも離れた、遥か地下深くに存在する暗闇の底。
そこからかすかに、しかし確実に届いてくる数多くの生命の脈動、生きようとする微かな光であった。
一つや二つといった、ごくわずかな生存者の反応などでは決してない。
何百……
いや──優に数千の単位に及ぶ、途方もない人間の集団であった。
「へぇ……。」
霞の薄桃色の可憐な口元が、興味と歓喜に満ちた笑みを浮かべて楽しそうにゆるりと緩む。
「まだ、こんなにも大量の人間が、地上ではなく地下の奥深くに残っていたのね。」
その命の光の一つ一つは、極限状態の中で今にも消え入りそうなほどに弱々しく繊細ではあったものの、完全に潰えてしまうことなく必死に輝き続けていた。
長引く過酷な飢餓。
死と隣り合わせの日常に対する狂おしいほどの恐怖。
極限状態がもたらす極度の身体的肉体的な疲労。
そして、出口の見えない絶望。
それら全てに打ちのめされそうになりながらも、決して生きることを諦めず必死に呼吸を繋ごうとしている、無数の健気な命たち。
霞はさらにその圧倒的な神威と意識を、その違和感の源である地点へと一直線に集中させていく。
すると次の瞬間、彼女の脳裏には、遥か彼方に位置する巨大な地下複合施設の驚くべき全貌が、鮮明な立体映像のように克明に映し出された。
複雑極まりない幾重もの仕切りによって厳重に区切られた、果てしなく広大な地下空間。
数千人が長期間生き延びるために構築された巨大な食糧備蓄倉庫。
最新の設備を備えた広大な医療区画。
重厚な大出力の発電施設。
外部との連絡を試みるための特設通信室。
そして──。
「……あら?」
霞は意図せず、ほんの少しだけその美しい目を見開くこととなった。
その広大な施設の最深部。
何重もの防壁と頑丈な警備体制が敷かれた特別な会議室の中に、思いがけない人物たちが一堂に会していたからである。
そこには、国家の最高権力者である総理大臣をはじめ、官房長官、防衛大臣、そして各省庁を束ねるトップたち。
さらには自衛隊の統合運用を担う統合作戦司令官、陸・海・空自衛隊の最高幹部層、国家の治安を守る警察庁長官や消防庁長官。
それだけに留まらず、かつて日本を代表していた至高の科学者や、先端医療の研究者たちまでもが凄まじい密度で集結していたのだった。
いわば、かつての日本という国家の中枢機構そのもの。
その重要人物たちのほとんどが、崩壊の危機を逃れてその安全な地下施設へと一括して避難を果たしていたのである。
「なるほどね。」
霞はすべての状況を瞬時に理解し、クスリと楽しそうに小悪魔的な笑みを漏らす。
「日本という国は、まだ完全に滅び去って死んでいたわけじゃなかったってことね。」
しかしながら。
彼女の眼に映る彼らの現在の置かれた状況は、決して楽観視できるような甘いものでは一切なかった。
備蓄されていた食料の残量は、あと二十日前後で底をつくような極限状態。
施設を動かすための各種燃料もいよいよ枯渇しかけており、救援を呼ぶこともできない。
最新型の地下農業設備自体は施設内に存在するものの、大規模な停電と必要な専門資材の圧倒的な不足によって完全に機能停止に追い込まれていた。
怪我人や病人を治療するための重要な医薬品もすでに酷く不足している。
そして──何よりも致命的だったのは。
その巨大な地下施設の真上となる地上の領域に。
これまで霞や海斗たちが撃破してきた鋼殻獣などとはまるで比較にならないほど、絶大で禍々しい魔力反応がどっしりと居座っていたことであった。
「ふふ……。」
霞は優雅にソファーから立ち上がると、手にしていたカップを静かに置いた。
「思っていた以上に、面白そうな展開じゃない。」
その瞬間──。
上層バルコニーから放たれた霞の神気が一変したのを敏感に察知した海斗たち精鋭部隊は、異変を察して即座に広場へと駆け付けてきた。
「霞様!」
「何か緊急の事態でもございましたか!」
霞は彼らの緊張を受け流すように、可憐な指先で軽くパチンと音を鳴らした。
すると宙の空間に白銀の眩い光が集束していき、そこへ数十キロメートル離れた先にある巨大地下施設の詳細な立体地図が、煌々と映し出されていく。
「新しい人間の集団を見つけたのよ。」
「その人数は……。」
霞は映し出された生体反応を少しだけ目を細めて見つめた。
「ざっと見通して、五千人くらいかしらね。」
「ご、五千……!?」
海斗たちは思わず息を呑み、絶句した。
それは、現在この地下基地で暮らしている生存者数の十倍近くに及ぶ、桁違いの巨大な組織だったからである。
「しかもね。」
霞はどこか楽しそうに、自慢げな微笑を浮かべる。
「その地下深くに隠れている中身には、かつてこの国という巨大な仕組みを動かしていた、偉い人間たちがほとんど勢揃いしているみたいなの。」
その静かな一言が発せられた瞬間、場を包む緊張感と空気が一変した。
副隊長の圭が、あまりの衝撃に動揺を隠しきれない様子で問いかける。
「そう、総理大臣まで……生存されているのですか!?」
「ええ、その通りよ。」
霞は何でもないことのようにあっさりと大きく頷いてみせた。
「政治家も、軍の指揮官も、優れた学者も、最先端の研究者も、腕の立つ医師たちも、全員まとめて生き残っているわ。」
「この荒れ果てた世界で、私に捧げるための文明を再び興して生き残っていくには、これ以上ないほど申し分ない極上の人材ばかりじゃないかしら。」
海斗のキリッとした凛々しい表情がぐっと引き締まり、慎重な面持ちで口を開く。
「……ですが、霞様。」
「それほどの圧倒的な大所帯を、あの魔物の跋扈する地上を経由して無事に救出するとなると、決して生易しい作戦にはなりません。」
対する霞は、一切の不安も見せずに優雅に微笑んだ。
「もちろん、一筋縄ではいかないわ。」
「簡単じゃないからこそ、私にとってもやり甲斐があって面白いのよ。」
そして彼女は、立体地図の特定の一点──施設の真上に位置する地上エリアを、可憐な指先でぴしりと指し示した。
その場所だけが、血のようにどす黒く真っ赤な警戒色に染まり切っていた。
「一番の障害となる問題は、この巨大な子ね。」
そこに高精度で映し出されていたのは。
体長五十メートルを容易く超える、まるで強固な鋼鉄の城壁のごとき漆黒の超外殻を纏った、圧倒的な存在感を放つ超大型の魔物だった。
それ自体がまるで小さな山そのものであるかのように蠢く巨体。
そしてその周囲には、無数の鋼殻獣の群れが隙間なくひしめき合い、まるで王を守る兵隊のように周囲を警戒して徘徊していたのである。
霞はその圧倒的な脅威を前にしてもなお、楽しそうに目を細めてみせた。
「ふふ……。」
「どうやら今回は、私にとってもほんの少しばかりは遊び甲斐がありそうな相手ね。」
海斗をはじめとする精鋭部隊の面々は、その巨大な悪夢のような存在を前にしながらも、無意識のうちに己の武器の柄を強く強く握り締めた。
これまでに遭遇したどんな個体とも比べ物にならない、文字通り桁違いの凶悪な敵。
しかし、彼らの瞳の奥には誰一人として恐怖や諦めの色は存在しなかった。
なぜなら彼らの背後には、絶対的な力を持つ万能の神がついており、そしてその神から直接分け与えられた偉大な加護と力があるからだ。
「霞様。」
海斗は力強く、静かにその場に片膝をついて深々と頭を垂れた。
「どうか、我らにご命令を。」
霞は満足そうに、最高に可憐で自信に満ち溢れた笑みを浮かべた。
「まずは、その哀れに怯えている避難所の人たちを、私の下へ迎えに行きましょう。」
「この日本には、まだまだ私に感謝を捧げるべき救える命が、たくさん残されているのだから。」
その凛とした力強い宣言とともに、眩く煌めく白銀の神気が地下基地全体を優しく包み込み、新たな伝説となる巨大な遠征の幕開けを告げるように、静かに、そして力強く揺らめき輝いたのだった。
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