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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
続けていける形

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09 ここにいて

 

 病院の裏手は、夜になると音が減る。

 救急の足音も、病棟のナースコールも、厚い壁の向こうに引っ込んでいく。


 残るのは、街灯の電気の音と、遠くの車の走る音と、風が植え込みを擦る音。

 それから、二人分の足音だけだ。


 一ノ瀬さんが先に歩いて、俺が半歩遅れてついていく。

 病棟ではありえない距離だ。病棟なら、医者が先に行って、看護師が後ろから支える。

 今は逆で、彼女が先に行って、俺が勝手に追いかけている。


「ここ、夜は静かですね」


 俺が言うと、一ノ瀬さんは前を向いたまま頷いた。


「静かすぎると、余計なことを考えます」


「……確かに」


 静かだと、思い出す。

 教授室の匂い。乾いた紙の匂い。蛍光灯が薄い廊下。

 あの声。あの目。あの“今月中”という言葉。


 病院は湿っている。人の体温がある。

 大学は乾いている。決定の匂いがする。


 俺の頭は勝手に、そこを行ったり来たりしていた。


 一ノ瀬さんが立ち止まった。

 水路沿いの柵のところ。街灯の光が、二人の影を少し長く伸ばす場所。


「先生」


「はい」


「先生、いなくなりますか」


 言い方がまっすぐで、逃げ道がなかった。

 “異動の話”の体裁を取っていない。人に向ける言葉の形だ。


「……まだ決めてない」


 言うと、自分の声が少し遅い。遅いのが情けない。

 でも早口で誤魔化すよりはましだ。


「決めてない、は分かります」


 一ノ瀬さんは頷いた。

 その頷きが、承認じゃなくて“理解”に見える。理解されると、次が怖い。


「でも」


 一ノ瀬さんは、そこで一拍置いた。

 呼吸の間。言葉を選ぶ間。


「先生が“消える”のは嫌です」


 消える。


 異動の話を消えると言われると、急に現実になる。

 “職場が変わる”じゃない。“いなくなる”。


「嫌って言われても……」


 言いかけて、自分で自分の言い方が腹立たしかった。

 嫌だと言う人に対して、返す言葉として最悪だ。


 一ノ瀬さんは、容赦なく言い切った。


「嫌です」


 即答だった。

 看護師の即答じゃない。紗夜の即答だ。


 夜の風が少し冷たくて、頬が痛い。

 痛いのに、目は逸らせなかった。


「……笹川さんのこと、まだ引きずってますよね」


 俺が言うと、一ノ瀬さんは視線を外さずに答えた。


「引きずってます」


 あっさり言った。あっさり言えるほど、あっさりじゃないはずなのに。


「私、あの人がいなくなったの、まだ慣れてないです」


 慣れてない。

 そう言い切るのは、この人にしては珍しい。普段なら“面倒”の袋に入れてしまう。


 今日は入れない。入れたくない顔をしている。


「慣れてないのに、普通に仕事してる」


 俺が言うと、一ノ瀬さんは小さく首を振った。


「普通に見えるようにしてるだけです」


 それが本音だった。

 見えるようにして、見えないところで何かを抱える。吸血鬼としてじゃなく、看護師として、たぶんずっと。


「先生も、同じです」


 一ノ瀬さんが続けた。


「病棟では平気な顔してる。でも、今は顔が戻ってない」


 戻ってない。

 まるで、大学の廊下に置き忘れてきたみたいに言う。


「……戻ってない」


 俺が認めると、一ノ瀬さんは少しだけ息を吐いた。


「先生、怖いんですよね」


「……怖い」


「大学に戻るのも」


「うん」


「戻らないのも」


「……うん」


 どっちも怖い。

 選択肢が増えるほど、正解を探す癖が顔を出す。

 正解なんて、たぶんないのに。


 一ノ瀬さんは言った。


「先生が怖い顔をしてると、私が困ります」


「困る?」


「はい。先生が困ってると、病棟が困ります。私も困ります」


 病棟の“困る”と、私の“困る”を一緒に言う。

 そこに、彼女の線引きがある。線引きがあるのに、線をまたいでくる。


 一ノ瀬さんが、ほんの少しだけ声を落とした。


「だから」


 一拍置いて、言った。


「一緒にいてほしいです」


 大きな声じゃない。

 でも、言い直さない声だった。


 告白みたいな言葉なのに、この人が言うと“生活の要請”になる。

 泣きそうだから、逃げないで、ここにいて。

 そういう種類の言葉だ。


 俺は喉の奥が詰まって、返事が遅れた。


「……今、ここにいる」


 言ってみて、すぐに分かる。これはズルい返事だ。

 今ここにいる、は、誰でも言える。

 今だけなら、誰でもできる。


 一ノ瀬さんは即答した。


「今、じゃないです」


「……ですよね」


 俺が小さく笑うと、一ノ瀬さんは笑わない。

 笑えない夜だということを、きちんと知っている。


「先生、期限を取りましたよね」


「取った」


「今月中に方向性。年末までに最終判断」


「……うん」


「期限は期限です」


 淡々と言う。淡々と言うほど、そこに痛みがある。


「期限があるってことは、終わりもあるってことです」


 終わり。

 笹川さんの病室の匂いが、胸の奥に戻ってくる。


 俺は、逃げない返事を探した。

 逃げない返事は、いつも短くて不格好だ。


「……俺が消えそうになったら、止めてください」


 一ノ瀬さんが目を細める。


「止める、って」


「引っ張ってください。病棟に戻すみたいに」


 言いながら、自分で自分の比喩が病院過ぎると思った。

 でも病院の言葉しか持っていないのも事実だ。


 一ノ瀬さんは、少しだけ口角を上げた。


「先生、今、すごく医者です」


「医者しかできないので」


「じゃあ、依頼ですね」


「依頼です」


 一ノ瀬さんは小さく頷いた。


「分かりました。引っ張ります」


 短いのに、頼もしい。

 頼もしいのに、彼女の肩の力が少しだけ抜けた。


「それと」


 一ノ瀬さんが続けた。


「先生、もう一つ」


「はい」


「先生がどこかに行くとしても、“消えない”でください」


 消えない。

 つまり、黙っていなくなるな、ということだ。


 俺は頷いた。


「……消えない。連絡する。逃げない」


「逃げない、は」


「今月中に方向性を返すまで」


 自分で期限を口にすると、少しだけ背筋が伸びる。

 固い線は、守るためにある。


 一ノ瀬さんは、少しだけ息を吐いた。


「それでいいです」


 風が冷たい。

 冷たいのに、現実がちゃんと肌に触れている感じがして、悪くなかった。


 一ノ瀬さんが、さっきより歩く速度を落として言った。


「先生」


「はい」


「私、長いので」


 また、その言い方だ。長命種の言い方。


「私の中では、年末ってすぐです。でも先生にとっては、たぶん重い」


「重いです」


「重いなら、重いままでいいです」


 一ノ瀬さんが言った。


「怖くないふりをすると、先生は余計なことを言って、面倒が増えます」


 ここで面倒が出てくるのが、この人らしい。


 俺は、少しだけ笑った。


「……面倒を使う余裕が出ましたね」


 一ノ瀬さんは真顔で言った。


「余裕じゃないです。手順です」


「手順」


「はい。先生を生かす手順」


 生かす。

 病院の言葉だ。だから余計に刺さる。


 俺は、そこで初めて、少しだけ深呼吸ができた。

 スーツの布じゃなく、胸の固さが少しほどける。


「先生」


 一ノ瀬さんが最後に言った。


「今日は、ここにいてくれてありがとうございます」


 俺は短く返した。


「……こちらこそ」


 言葉は短いのに、胸の奥の重さが少しだけ軽くなった。

 軽くなったから、明日また白い廊下を歩ける気がした。


 歩き出すと、足音がまた二つ重なる。

 歩幅が揃うことが、少しだけ怖くて、少しだけ嬉しかった。

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