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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
続けていける形

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エピローグ


 教授に“方向性”を伝えに行く日が来た。


 朝、スーツの袖を通したとき、以前より呼吸が浅くならなかった。

 慣れたわけじゃない。

 たぶん、逃げなかった分だけ固さが変わった。


 鏡の前でネクタイを結び直す。

 結び目が一回目で決まらない。

 決まらないことに苛立つほど、今日は余裕がない。


 スマホを開くと、医局秘書からの短いリマインドが来ていた。

 丁寧な文面。丁寧なほど逃げ道がない。


 俺は画面を閉じて、鍵を持って家を出た。


 電車の中は、平日の午前の顔をしている。

 学生がいて、会社員がいて、病院の匂いのしない人たちがいる。

 その中に混じると、自分が“白衣の人”ではなくなる。


 それが落ち着かない。

 落ち着かないのに、少しだけ救われる。


 大学のキャンパスに入ると、空気が乾く。

 古い建物の匂い。紙の匂い。

 病院の湿り気がない。


 医学部棟の廊下は、病院より少し暗い。

 壁の白が、蛍光灯の光で黄ばんで見える。

 あの頃、ここを“当たり前”として歩いていた自分がいた。


 教授室の前で一度だけ立ち止まった。

 扉の向こうに、人がいる。

 人がいるのに、組織がいる。


 ノックする。


「どうぞ」


 声が返ってくる。

 それだけで、胃がほんの少しだけ重くなる。人間の欠陥だ。


 扉を開けると、教授が机の前に座っていた。

 目がこちらを捉える。

 微かな頷き。微かな歓迎。微かな評価。


「来たね」


「はい。方向性をお伝えしに来ました」


 教授はペンを机に置き、視線を上げた。


「聞かせて」


 机の前の椅子に座る。

 背中が少しだけ固くなる。

 それでも、以前のように息が止まるほどではない。


 言葉はもう、削ってある。

 余計な装飾を取って、言い訳を落として、事実と線だけにした言葉。


 俺は話し始めた。


 その中身を、俺は誰にも言わない。

 言った瞬間に、言葉が別のものに変わってしまう気がしたからだ。

 人は他人の言葉を、自分の都合の形に整えてしまう。

 教授も、病院も、医局も。俺自身も。


 だから俺は、ここで置いた言葉を、ここに置いておく。


 教授は途中で口を挟まなかった。

 相槌も少ない。

 少ないのに、全部聞いている顔をしている。そういう聞き方ができる人だ。


 話し終えると、教授は一度だけ頷いた。


「分かった」


 それだけで、十分だった。

 十分なのに、胸の奥がまだ落ち着かない。

 落ち着かないのは、決めたからだ。決めた行動をしたからだ。


 教授は少しだけ声を柔らかくした。


「高槻くん。君は臨床ができる。潰れるようなやり方だけはするな」


 この言葉、どこかで聞いた気がした。

 院長も、似たことを言った。

 違う場所から同じ種類の言葉が出るのは、珍しい。


 俺は頭を下げた。


「承知しました」


 立ち上がって扉の方へ向かうと、教授が最後に言った。


「連絡は待っている。期限の中で、君が動けるようにしておけ」


 動けるように。

 つまり、組織は動く。人も動く。

 だから君も動け、という意味だ。


「ありがとうございます」


 扉を閉めると、廊下の空気が薄く感じた。

 大学の廊下は、病院より酸素が少ない気がする。

 たぶん気のせいだ。でも、気のせいじゃない種類の息苦しさがある。


 建物を出て、キャンパスの端のベンチに座った。

 学生が笑って歩いていく。

 白衣じゃない人が笑っているのを見ると、少しだけ現実に戻る。


 スマホを取り出して、一ノ瀬さんにメッセージを打った。


「終わりました。」


 送ってから、雑すぎたかと思った。

 でも今の俺に書けるのは、この程度だ。


 すぐに返信が来る。


「それなら十分です。帰り道、気をつけて」


 生活の気をつけて。

 その一文が妙に胸に残った。


 

 ◇


 翌年度。


 病院の廊下に、少しだけ新しい匂いが混ざっていた。

 新年度の名札、新しい制服、新しい掲示物。

 病院は古いのに、年度だけは毎年新しくなる。


 内視鏡室の前に、予定表が貼られている。


「定期内視鏡 予約枠」


 その文字があるだけで、空気が違う。

 救急だけの“嵐の部屋”じゃない。生活のための部屋になっている。


 あのとき院長室で言った。

 “俺がいなくても回る形”を目指すべきだ、と。

 実際それは簡単じゃなかったはずだ。

 現場の導線、洗浄の回転、物品、鎮静、教育。

 全部が面倒で、全部が現実だった。


 内視鏡室の朝は静かだった。

 整った静けさ。チェックリストの紙の音だけがする。


 棚の物品は、以前より整然としている。

 発注の紙がクリアファイルにまとめられ、止血具の残数が見える化されている。

 誰かが、面倒を手順に変えた跡がある。


「先生、おはようございます」


 内視鏡室担当の看護師が言った。


「おはようございます。今日は一枠目からでしたね」


「はい。もう予約が埋まってます。地域、待ってたみたいです」


 待ってた。

 その言葉が妙に胸に残る。病院は、誰かに待たれて回る場所だ。


 扉が開いて、一ノ瀬さんが入ってきた。


 スクラブ姿。髪はきっちり。表情はいつも通り落ち着いている。

 でも、目だけが少し違う。何かを“続けてきた人の目”だ。


「……一ノ瀬さん」


「初日なので」


「また初日」


「新年度の初日です。先生、毎年あります」


 言い方が真面目で、少し可笑しい。

 可笑しいのに、笑いすぎると緊張が漏れる。


 内視鏡室の看護師が、一ノ瀬さんに資料を渡す。


「一ノ瀬さん、今日からこのチェックリストも運用お願いします。鎮静の確認、二重で」


「はい。確認します」


 二重。

 確認と再確認。

 この病院の“続けていく形”は、こういうところでできていく。


「タイムアウト、行きます」


 内視鏡室看護師の声。


「同意書、確認しました」


 一ノ瀬さんの声。


 確認の言葉が重なると、場が整う。

 整うと、人は落ち着く。患者も、スタッフも、医者も。


 一人目の患者さんが入ってくる。


 年配の男性。緊張している。

 緊急じゃないのに、手が少し震える。

 緊急じゃないからこそ、逃げ場がない怖さがある。


「先生、初めてで……怖いです」


「大丈夫です。無理はしません。必要なら薬も使います」


 言いながら、ふと思う。

 この「無理はしません」は、患者に向けた言葉で、同時に自分に向けた言葉でもある。


 一ノ瀬さんが、患者の肩に毛布をかけ直す。


「寒くないですか」


「大丈夫」


 患者が答える。


 その“大丈夫”が出るだけで、室内の空気が少し軽くなる。


 モニターを付け、酸素の準備、吸引。

 チェックリストを指差し確認する。

 “当たり前の手順”が、今日の安全を作る。


 スコープを入れる。


 喉を越える瞬間は、いつも少しだけ緊張する。

 その緊張があるから、雑にならない。

 雑になると事故る。事故ると、ここが続かない。


 画面の中に、いつもの胃が映る。

 いつもの胃なのに、今日は少しだけ意味が違う。


 “定期”として回っている。

 人が生活を続けるための検査として、ここにある。


「……所見、軽度の胃炎程度です。大きな異常は目立ちません」


 言葉が滑らかに出る。

 救急の止血の声とは違う。落ち着かせる声だ。


 検査が終わると、患者さんの肩が落ちる。


「先生、思ったより平気でした」


「よかったです」


 横で一ノ瀬さんが小さく頷いた。


「平気でしたね」


 “平気”という言葉は、続けられる証拠だ。


 片づけに入る。洗浄へ回す。物品を補充する。次の枠の確認。

 動きが手順になっている。手順があるから続く。


 内視鏡室看護師が、ちらっと俺を見て言った。


「先生、去年の救急のときみたいな顔、しなくなりましたね」


「……救急の顔ですか」


「はい。目が細くなるやつ」


 俺は苦笑いした。


「定期は、救急より難しいです」


 一ノ瀬さんが、手袋を外しながら淡々と言う。


「先生、定期は“続く”ので」


 続く。

 その一言が、今日の章題そのものだった。


 ふと、俺は一ノ瀬さんを見る。


 彼女は器械の位置を直して、無言で手袋を外している。

 完璧な看護師の背中。

 そして、あの夜「一緒にいてほしい」と言った人の背中でもある。


 俺は小さく息を吐いて、言った。


「……次、いきましょう」


 一ノ瀬さんが頷く。


「はい。次です」


 翌年度の定期内視鏡は、静かに始まっていた。

 静かに始まっているという事実が、いちばん雄弁だった。


一旦二人の物語はここで終了です。

ご愛読いただき誠にありがとうございました。




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ありがとうございました。

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感動しました。 執筆お疲れ様です。
2026/02/07 17:50 退会済み
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