08 二段階の返事
大学からの帰り道、電車の窓に映る自分が、まだスーツを着ていた。
白衣じゃない自分は、病院の外側の人間みたいで落ち着かない。
落ち着かないのに、妙に懐かしい。嫌な懐かしさだ。
教授室で「二段階の期限」をもらった。
今月中に方向性。年末までに最終判断。
期限を伸ばせたのは、たぶん勝ちだ。
でも、勝ったところで面倒が減るわけじゃない。面倒が整理されただけだ。
スマホを見ると、一ノ瀬さんから短い返信が来ていた。
「立体の方が手順を作れます。帰り道、気をつけて」
気をつけて。
それだけの言葉なのに、病棟の「気をつけて」と違って、生活の温度がある。
俺は小さく息を吐いて、画面を閉じた。
◇
翌日。
病院の白い廊下に戻ると、スーツの固さがやっと剥がれていく。
白衣はやっぱり楽だ。楽すぎて怖い。白衣は人を逃がしてくれる。
午前の外来を何とか終わらせて医局へ戻ったところで、PHSが鳴った。電話として鳴る。
「高槻です」
「事務長です。先生、昨日お話した“定期内視鏡再開”の件で、院長も同席しますので、今日この後お時間いただけますか」
早い。
病院の“この後”は、だいたい断れない。
「分かりました。何時ですか」
「15分後で」
断れないスピードのやつだ。
◇
院長室は、昨日より少しだけ空気が柔らかかった。
柔らかいのに、話は硬い。
病院ってそういう場所だ。柔らかく硬い。
院長と事務長が並ぶ。机の上には資料。数字。予定表。
予定表は、いつ見ても胃に来る。
「高槻先生、昨日はすみませんでした。急に」
院長がそう言った。
「いえ」
事務長が早速、本題に入る。
「先生、定期内視鏡の再開ですが、現場の負担を考えると、まずは週1枠から、という案でいかがでしょう」
俺は頷いた。
「現実的だと思います。ただし、条件があります」
院長が頷く。
「聞かせてください」
俺は、内視鏡室でもらった現状まとめを机に置いた。
「大腸スコープがギリギリです。洗浄の回転も含めて、枠を増やすなら導線整理と人員が必要です。あと、鎮静の体制は必須です」
事務長がメモを取る。
院長は、こちらを見ている。目が「具体で助かる」になっている。
「それと、“何をしないか”を決めないと壊れます」
院長が小さく笑った。
「壊れる、は確かに困りますね」
「困ります。内視鏡室も、スタッフも」
事務長が言う。
「スタッフ教育については、段階的に計画を立てます。看護部とも調整します」
俺は頷いて、少しだけ言いにくいところへ進めた。
「もう一つ。非常勤の医師の応援が必要です。僕一人で定期枠を回しながら救急対応まで増えると、長期的に事故ります」
事故ります、まで言うと、場が少し静かになる。
でも静かになったほうがいい。ここは静かになってほしい話だ。
院長が頷いた。
「先生の言う通りです。非常勤については、大学から来てもらう案を考えています」
事務長が続ける。
「先生の医局にお願いできるなら、病院としても動きやすいです」
来た。ここが繋がるところ。
俺は、教授との面談を思い出してから、言葉を選んだ。
「大学とは、話をしてきました」
院長が少しだけ目を開く。
「おお、もう」
「はい。ただ、大学側も条件があると思います。こちらとしては“週1開始”の現実的な体制案を先に作って、医局にお願いする形が一番スムーズです」
事務長が頷く。
「話が早い。助かります」
院長が、少しだけ前のめりになった。
「高槻先生、大学は、先生に戻ってきてほしいと言ってきましたか」
直球だ。
院長は逃げ道をくれない。くれないけど、変に詮索してるわけでもない。病院のトップとして、現実を知りたいだけだ。
俺は正直に言った。
「言われました」
事務長の手が止まる。
院長は表情を変えない。変えないまま、頷いた。
「そうですか」
院長は少し間を置いてから言った。
「先生、ここで続けてほしい気持ちはあります。ただ、それを“縛り”にしたくはありません」
縛りにしたくはない。
その言葉は優しい。優しいけれど、現実は縛りに寄ってくる。
「だから、先生がどうしたいかを聞かせてください」
どうしたいか。
俺は一拍置いて答えた。
「今すぐ決めません。…決められません」
院長が頷く。
「分かります」
俺は続けた。
「大学とは、二段階で期限をもらいました。今月中に方向性、年末までに最終判断」
院長が小さく息を吐いた。
「年末まで。なら、病院側の“年内に方針”と合いますね」
合ってしまう。
合うのは便利だ。便利なのに、胃が重い。
俺は言った。
「年末までに僕がどうなるにせよ、定期内視鏡を再開するなら、“僕がいなくても回る形”を目指すべきです。僕が残るなら、なおさら」
院長が頷いた。
「その通りです」
事務長が言う。
「では、先生。こうしましょう。定期内視鏡再開の準備は進める。非常勤の調整は大学と相談する。ただし、先生の最終判断は年末まで待つ。病院はそれに合わせて体制を組む」
俺は頷いた。
「…お願いします」
院長が最後に言った。
「先生、無理だけはしないでください。うちで潰れる必要はありません」
教授が言ったのと同じ種類の言葉が、別の場所から出た。
不思議な感じがした。
◇
院長室を出ると、廊下の白さが少しだけ薄まって見えた。
情報が揃うと、怖さは形になる。
形になれば、手順にできる。たぶんそれは本当だ。
自販機の前まで歩くと、一ノ瀬さんがいた。
いる。
最近、この人は“いてほしい場所”にいる。偶然の顔をして。
「先生」
「……見てました?」
「見てません。先生の顔が“会議の後”だったので」
「それ、病院の超能力ですか」
「病院の超能力です。確定で」
俺は缶コーヒーを買って、落ちてくるのを待ちながら言った。
「院長と事務長と話しました。定期内視鏡、週1で再開する方向で準備。大学の非常勤も相談する」
一ノ瀬さんが頷く。
「先生がいなくても回る形、って言いました?」
「言いました」
「偉いです」
「偉いって言われると、面倒です」
「でも必要です。先生がいなくなる可能性があるなら、病棟は先に不安になります」
不安。
その言葉をこの人が使うのは、やっぱり珍しい。
俺は少しだけ声を落とした。
「…大学は、戻ってこいって言ってきました」
一ノ瀬さんは頷いた。驚かない。驚かないのに、指先だけが小さく動いた。
「期限は?」
「二段階。今月中に方向性、年末までに最終判断」
一ノ瀬さんが小さく息を吐いた。
「二段階、好きですね。人間社会」
「好きじゃないけど、そうなる」
一ノ瀬さんが、少しだけ口角を上げた。
「看護も二段階です。確認と、再確認」
「……それは否定できない」
一ノ瀬さんは、笑いを引っ込めて言った。
「先生、じゃあ次の打ち合わせの議題は決まりです」
「何ですか」
「議題:先生が“方向性”として何を出すか」
方向性。
俺は缶のプルタブに指をかけて、開ける音を聞いた。
その音がやけに大きい。
「方向性、って」
俺が言うと、一ノ瀬さんが淡々と言った。
「仮の優先順位の、仮更新です」
仮更新。
この人の言葉は、怖さを手順に落とす。
俺は一口飲んで、言った。
「今日のところは、生存。期限確保。情報増えた。面倒立体化」
一ノ瀬さんが頷く。
「記録します」
「……記録するんだ」
「はい。忘れると面倒が増えるので」
最後は、いつもの言葉。
でも今日は、その“面倒”がちゃんと地面になっている。
俺たちは白い廊下を歩き出す。
決めるのはまだ先だ。先だけど、先延ばしとは違う。
二段階の期限は、逃げ道じゃなくて、続けていくための余白だ。




