07 教授室の匂い
スーツを着ると、呼吸が少し浅くなる。
布が肺を押すわけじゃない。
記憶が、胸のあたりに張り付く。
ネクタイを結びながら、鏡の中の自分を見た。
白衣の自分は、まだ「仕事の顔」だ。
スーツの自分は、仕事じゃなくて「立場の顔」になる。
立場の顔は、苦手だ。
◇
大学に着くまでの電車は、妙に長く感じた。
吊り革、広告、車内放送。
どれも当たり前なのに、当たり前が落ち着かない。
病院の当たり前とは種類が違う。
改札を出て、キャンパスに入ると空気が変わった。
古い建物の匂い。乾いた紙の匂い。
医局の匂いというより、「組織」の匂い。
医学部棟の廊下は、病院より少し暗い。
蛍光灯の光が薄くて、壁の白が黄ばんで見える。
それが落ち着く、というのも腹が立つ。慣れって怖い。
教授室の前に、秘書さんがいた。
「高槻先生、お久しぶりです。お時間少し前倒しできますが、いかがですか」
前倒し。
断る理由がない。断ると面倒が増える。
「お願いします」
秘書さんはにこやかに頷いて、ドアをノックした。
「教授、高槻先生がお見えです」
「どうぞ」
声が聞こえた瞬間、胃が重くなる。
声だけで、空気が戻ってくる。
◇
教授室は、変わっていなかった。
机の位置。椅子の並び。窓の外の景色。
変わっていないのに、持ち主だけが「教授」になっている。
元上司――今の教授は、立っていた。
昔より少しだけ表情が柔らかい。柔らかいのに、隙がない。
「ご無沙汰しております」
俺が頭を下げると、教授は軽く頷いた。
「来てくれてありがとう。元気そうで安心しました」
安心しました、は便利な挨拶だ。
相手の状態を評価しつつ、踏み込んでいない顔ができる。
「…ありがとうございます」
「座って」
机の前の椅子に座る。
スーツの布が、椅子の座面で少しだけきしむ。病棟では聞かない音だ。
教授は机に肘をつかず、背筋を伸ばしたまま言った。
「さて、本題に入ります」
来た。
こういう言い方のとき、雑談は終わりだ。
「高槻くん、今後どういうキャリアを考えていますか」
予行演習、当たったな。
一ノ瀬さんの声が頭の隅で笑う。
俺は、表面の言葉から出した。
「お時間いただきありがとうございます。現職での役割も増えており、今後の方向性を整理しているところです。本日はお話を伺いたいです」
言っている間、声が少しだけ震えそうになった。
こういうとき、人は言葉の綺麗さに逃げたくなる。
教授は、否定も評価もせずに頷いた。
「うん。こちらも同じです。整理したい」
整理。
教授がその単語を使うと、だいたい人事の話になる。
教授は続けた。
「君は大学を出てから消化器でずっとやってきた。手技もある。判断も速い。現場で困っている場所に置けば、仕事はできる」
褒めているようで、配置の話だ。
評価じゃなく、運用。
教授は視線を少しだけ動かして言った。
「今の病院、君には物足りない部分もあるだろう」
俺はすぐに否定しなかった。
否定すると、嘘になる。
「…救急の内視鏡は増えました。やりがいはあります」
教授が頷く。
「そうだろうね。実はその話も絡む」
絡む。
嫌な予感の正しい言い方だ。
教授は淡々と言った。
「君のいる病院で、定期内視鏡を再開したいという話が出ていると聞きました」
情報が早い。
医局の口コミは病棟より速い。
「…はい。院長と事務長から相談がありました」
教授は表情を変えずに続ける。
「大学としても、地域の内視鏡の穴が空いているのは把握している。非常勤を出すことも検討できる。人の動かし方は、こちらで調整できる」
つまり、大学は“鍵”を握れると言っている。
「ただ」
教授が言葉を切る。
「非常勤を出すにも、窓口が要る。信頼関係が要る。君がそこにいるのは、大学にとっても病院にとっても、都合がいい」
都合がいい。
正直すぎて逆に清潔だ。嘘じゃない。
教授は少しだけ声を落とした。
「君にとっても、選択肢になると思って呼びました。大学に戻ってきませんか」
来た。核心。
俺は予行演習を思い出した。
戻らない、とは言わない。期限を取る。条件を置く。
ただ、その前に一つだけ確認したくなった。
確認したら面倒が増えるのは分かっている。でも、確認しないと呼吸が浅いままだ。
「…戻る、というのは、臨床医としてですか。それとも大学院ですか」
教授は一拍置いて、答えた。
「どちらも選べる」
簡単に言う。簡単に言える立場だから言える。
「臨床に集中したいなら、スタッフとして戻ってもいい。研究の軸を持ちたいなら大学院もある。今は大学院の枠も必要だ」
必要。
やっぱり運用の話だ。悪い意味ではなく。
教授は机の上のペンを指先で回さず、まっすぐ言った。
「君は、腕がある。だから戻ってきた方がいい、と単純に思う部分もある」
単純に、というのは珍しい言い方だった。
少しだけ本音が混じる。
「ただし」
また言葉が切れる。
「大学は、君の好きなようには動かない。君もそれは知っている」
知っている。
知っているから、胃が重い。
俺は、息を吐いてから言った。
「…すぐに判断できません」
教授は頷く。驚かない。
「もちろんだ」
「現職で、やるべきことが増えています。定期内視鏡の体制の話も出ています。中途半端に投げたくない」
教授は、そこには反論しなかった。
「それは正しい」
正しい。
教授の口から正しいが出ると、逆に怖い。
「ただ、いつまでも椅子があるわけではない」
来た。期限。
教授は淡々と言った。
「今月中に返事が欲しい。戻るにせよ戻らないにせよ、こちらも動きたい」
今月中。
短い。短いのに、現実的だ。
俺は、条件を置くことにした。
「…今月中に結論、というのは難しいです。ですが、方向性なら出します。戻る可能性があるかないか、程度なら」
教授は少しだけ目を細めた。
値切り交渉を受ける顔だ。
「方向性。いい。では、期限を二段階にしよう」
二段階。
その単語が出ると、急に話が現実になる。
「今月中に方向性。年末までに最終判断。どうだ」
年末。
病院側の「年内に方針」と同じタイミングだ。綺麗すぎる。整いすぎて、逆に怪しい。
でも、期限が伸びるのは事実だ。
伸びた分だけ、情報が取れる。
「…ありがとうございます。その形なら、現実的です」
教授は、そこで初めて少しだけ表情を緩めた。
「よかった」
そして、少しだけ声が柔らかくなる。
「高槻くん。昔のことは…今さら掘り返すつもりはない」
昔のこと。
掘り返す、という言い方。
掘り返さない、というだけで、掘り返せるものがあると示している。
俺は頷くだけにした。
ここで言い訳を始めると、面倒が爆発する。
教授は淡々と締めた。
「戻るなら、戻る形を一緒に作る。戻らないなら、君の今の病院への関わり方も含めて、大学として支援の形を考える。どちらにしても、連絡をください」
支援。
支援と言いながら、関係を握る手だ。
「承知しました」
立ち上がって頭を下げる。
教授が最後に言った。
「君は、臨床ができる。潰れるようなやり方だけは、しないでくれ」
その一言だけ、少しだけ個人的に聞こえた。
◇
教授室を出ると、廊下の空気が薄く感じた。
大学の廊下は、病院より酸素が少ない気がする。
たぶん気のせいだ。でも、気のせいじゃない種類の息苦しさがある。
外に出て、キャンパスの端のベンチに座った。
学生が笑って歩いていく。
白衣じゃない人が笑っているのを見ると、少しだけ現実に戻る。病院の外の現実。
スマホを取り出して、一ノ瀬さんにメッセージを打った。
「終わりました。生存。」
送ってから、雑すぎたかと思った。
でも、今の俺に書けるのはこの程度だ。
すぐに返信が来た。
「おめでとうございます。顔は固いままですか」
見てないのに当ててくるな。
俺は少しだけ迷ってから返した。
「固いけど、期限を取りました。二段階。」
「勝ちです」
勝ち、って言い方が腹立つのに助かる。
俺は、指を止めてからもう一つ送った。
「院長の話とも繋がりました。面倒が立体になりました。」
少しして返事。
「立体の方が手順を作れます。帰り道、気をつけて」
その最後の一文が、妙に胸に残った。
気をつけて。
病棟で言う気をつけてと違って、生活の気をつけてだ。
◇
帰りの電車の窓に映る自分は、まだ少し固い顔をしていた。
でも、朝にスーツを着たときの固さとは違う。
固いままでも、呼吸は少しだけ深い。
期限を取った。
情報を取った。
条件の線を引いた。
完璧じゃない。
それでも、続けていける形のための材料は、ちゃんと持って帰れている。
面倒は増えた。確定で。




