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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
続けていける形

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06 面談の予行演習

 

 帰り道、駅前のクリーニング屋の前で足が止まった。


 ガラス越しに見えるスーツの列が、やけに整って見える。

 整っているものは、だいたい面倒の匂いがする。


 大学の教授室に行くのに、白衣で行くわけにもいかない。

 かといって、私服で行って「お前、舐めてんのか」みたいな空気になったら、それも困る。


 結局、俺は自分の部屋に戻って、クローゼットを開けた。


 奥の方に、スーツがあった。

 ある。ちゃんとある。けれど、明らかに“長いこと出番がなかった顔”をしている。


 袖を通してみると、何とか着られる。

 ただ、背中のあたりが少し固い。生地じゃなくて、記憶が固い。


 ネクタイは、どれも似たような色で、どれも微妙に古い。

 どれが正解か分からない。正解が分からないものに、急に胃が重くなる。


 俺はスーツをハンガーにかけ直して、スマホを握ったまま座った。


 画面には、医局秘書からのメールがある。

 日時と部屋番号。丁寧な文。丁寧すぎて逃げ道がない。


 考え始めると、勝手に過去が出てくる。


 カンファレンス。教授たちの前。

 上司の無言。患者の「先生もそう思いますか」。沈黙。

 そして、あの「私もそう思います」。


 思い出したくなくて思い出す。

 人間の脳は、わざわざ厄介な方を取りに行く。


 そこで、通知が一つ鳴った。


 一ノ瀬さんからの短いメッセージ。


「今日、少しだけ時間あります。打ち合わせします?」


 打ち合わせ。

 この言葉は、心のブレーキとして優秀だ。


「お願いします」と返して、俺はスーツをもう一度畳んだ。

 畳んだだけで、少し呼吸が戻るのが不思議だった。


 ◇


 病院の外、いつもの自販機の光じゃなくて、駅前の小さなファミレスの明かり。


 席に着くと、一ノ瀬さんはメニューを開かずに言った。


「先生、顔が固いです」


「自覚あります」


「固い顔のまま大学に行くと、固い話になります」


「大学に行った時点で固い話じゃないですか」


 一ノ瀬さんが一拍置いてから、淡々と返した。


「じゃあ、せめて表面だけでも柔らかくしましょう」


 表面だけ。

 言い方が妙に現実的で助かる。


 ドリンクバーのコーヒーを取って戻ると、一ノ瀬さんがスマホを机の上に置いた。


「メール、見せてください」


「……はい」


 俺は画面を見せた。

 日時、教授室、集合時間。全部が簡潔で、全部が圧だ。


 一ノ瀬さんは読み終えて、すぐ言った。


「先生、これは面談です」


「面談ですね」


「面談の目的は、先生の希望を聞くことです」


 希望。

 その言葉が出ると、急に不安になる。


「希望って言っても、俺の希望が通る気がしない」


 一ノ瀬さんは首を振った。


「通る通らないは後です。まず言語化です」


 言語化。

 医者が好きなやつ。診断と同じ手順。


 一ノ瀬さんは指を一本立てた。


「先生、最初の質問、たぶんこれです」


「何ですか」


 一ノ瀬さんは声のトーンを少しだけ変えた。

 妙に落ち着いた、偉い人の声。


「高槻くん。今後、どういうキャリアを考えていますか」


 ……腹が立つくらいリアルだ。


「やめてください」


「予行演習です」


「予行演習、精度高すぎません?」


「私は観察が仕事なので」


 看護師の強みを、こういうところで発揮するな。


 一ノ瀬さんは続ける。


「先生の答えは、三つの層に分けます」


「層」


「表面:礼儀。中身:本音。奥:譲れない条件」


 俺はコーヒーを一口飲んで、言った。


「表面から難しい」


「じゃあ、テンプレを渡します」


 一ノ瀬さんは淡々と言った。


「『お時間いただきありがとうございます。現職での役割も増えており、今後の方向性を整理しているところです。本日はお話を伺いたいです』」


「……一ノ瀬さん、事務長みたいですね」


「褒めてます?」


「褒めてません」


「では採用です」


 勝手に採用される。


 一ノ瀬さんは指を二本立てた。


「中身。先生の本音は何ですか」


 俺は少し黙った。


 本音を言うと、ぐらつく。

 ぐらつくのが怖いから、言葉にしないで済ませてきた。


 でも今日は、言葉にしないと前に進まない。


「……消化器をちゃんとやりたい」


「うん」


「ここで、ちゃんと必要とされてる感じがする」


 一ノ瀬さんは頷いた。頷き方が静かで、促さない。


「大学でもやれますよね」


「やれるけど、やり方が違う」


「何が違うんですか」


 俺は息を吐いた。


「正しさの形が、違う」


 言った瞬間、自分で自分の言い方が面倒だと思った。

 でも一ノ瀬さんは、面倒と言わなかった。


「先生、その言い方、いいです」


「いいんですか」


「いいです。教授は“医者の言葉”が好きです」


 急にやめてほしいリアルさ。


 一ノ瀬さんは指を三本立てた。


「奥。譲れない条件」


「条件……」


「先生が大学に戻るとしても、戻らないとしても、ここだけは守る、という線」


 線。

 その言い方で、少しだけ整理できる。


「……自分で決める時間が欲しい」


 一ノ瀬さんが頷いた。


「それは条件です。期限をもらう、ですね」


「あと、ここでの仕事を中途半端に終わらせたくない」


「それも条件です。引き継ぎ、体制、責任」


 俺は言葉を探して、最後に付け足した。


「……それと、生活」


 一ノ瀬さんの目が、ほんの少しだけ細くなる。驚きじゃない。確認の目。


「生活、の中身は」


 俺は、なるべく雑にならないように言った。


「病院の外で話す時間を、無くしたくない」


 一ノ瀬さんはすぐに突っ込まなかった。

 その“すぐに突っ込まない”が、笹川さんに似ていて、少しだけ胸が温かくなる。


「……先生。それは、条件にしていいです」


「いいんですか」


「いいです。条件にしないと、勝手に削られます」


 削られる。

 確かにそうだ。勝手に削られて、気づいたときには何も残ってない。そういうやつ。


 ◇


 一ノ瀬さんはコーヒーを一口飲んで、今度は逆に質問してきた。


「先生。教授が『大学に戻ってこい』と言ったら、どうしますか」


「……戻らない、って言うのは怖い」


「だから、戻らない、とは言わない」


「え」


「『今は判断できないので、期限をください』です」


「期限」


「はい。期限を取りに行く面談です」


 なるほど。

 急に面談が“戦”じゃなく“交渉”に見えてくる。


「先生、今日の結論は出さない。情報を取る。期限を取る。条件を置く」


 一ノ瀬さんが言うと、それが手順に落ちる。


「……それなら、できそうです」


 一ノ瀬さんが小さく頷いた。


「できそう、で十分です。できる、は後です」


 この人、たまに優しい言い方をする。


 俺はメニューを閉じて、話題を少しだけ逸らした。


「ところで一ノ瀬さん」


「はい」


「さっきの“教授の声”、どこで練習したんですか」


 一ノ瀬さんが真顔で言った。


「先生の脳内の教授を、観察しました」


「どうやって」


「先生、さっきから眉間のシワが教授の形なので」


 ひどい。けど、笑ってしまった。


 俺が笑うと、一ノ瀬さんもほんの少しだけ口角を上げた。


「先生、表面が柔らかくなりました」


「これが?」


「これです。これを持って行きましょう」


 笑いを持っていく。

 大学に。教授室に。


 それだけで、少しだけ現実味が増す。現実味は怖いけど、形がある怖さは扱える。


 ◇


 店を出ると、外はすっかり夜だった。


 一ノ瀬さんが歩きながら言った。


「先生」


「はい」


「面談が終わったら、連絡してください」


「……結果がどうでも?」


「どうでもです。結果より、先生の顔がどうだったかが大事です」


 顔。


 笹川さんが残した言葉みたいで、胸の奥が少しだけ動く。


「わかりました」


 一ノ瀬さんは頷いた。


「じゃあ、今日は解散です。先生、帰って寝てください」


「一ノ瀬さんも」


「私は、帰って寝ます。面倒が増えるので」


 最後にいつもの言葉で締める。

 でも今日は、その言葉がちゃんと生活の言葉に聞こえた。


 家に戻って、俺はクローゼットのスーツをもう一度見た。


 さっきより、少しだけ固さが減っている気がした。

 生地じゃなくて、自分の方が。


 予定表の針はまだ刺さっている。

 でも、刺さった針の周りに、余白ができた。


 その余白があるなら、続けていける形は作れるかもしれない。


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