05 内視鏡室の静けさ
院長室を出たあとの廊下は、いつも通り白かった。
いつも通りなのに、頭の中だけが散らかっている。
「来年度」「定期内視鏡」「大学の非常勤」――単語だけが机の上に並んで、順番が決まっていない。
順番が決まっていないものは、だいたい不安になる。
不安になると、医者は勝手に“正解”を探し始める。
一ノ瀬さんに言われたばかりだった。
だから今日は、正解探しじゃなくて情報集めにした。
病院が本気なら、病院の現実は現場に出ている。現場は嘘をつかない。つく余裕がない。
◇
内視鏡室は、救外とも病棟とも違う静けさがある。
機械の音が小さい。
物品が揃っているほど、音が減る。
音が減るほど、やることが見える。
扉を開けると、器械の洗浄の匂いがした。
清潔で、少し金属っぽい匂い。
「先生、どうしました」
中にいた看護師が顔を上げた。内視鏡担当の人だ。
名前は知っている。普段は緊急のときだけ会う。
「定期の内視鏡を再開する話が出てまして。現状、どこまで回せるか見たくて」
俺がそう言うと、看護師は一瞬だけ「来たか」という顔をして、すぐ現場の顔に戻った。
「院長から、もう聞きました」
「現場には早いですね」
「病院は口コミが速いです」
病棟と同じことを言う。どこも同じだ。
看護師は棚を指差した。
「先生、今って緊急だけなんで、物品の回転は最低限です。止血具も、使う頻度が上がると在庫管理から変えないといけません」
止血具、クリップ、注入針、ヘモスプレー…頭の中でリストが勝手に展開する。
こういうところだけ、医者は急に元気になる。
「スコープの台数は」
「胃カメラはなんとか。大腸は、正直ギリギリです。消毒機の回転もあるので、枠を増やすなら洗浄の導線を整理しないと」
導線。回転。枠。
どれも“手技の話”じゃなく、“システムの話”だ。
俺はうなずいて、メモを取った。久しぶりに紙に書くと落ち着く。
医者は結局、書くと落ち着く生き物だ。
「スタッフは」
「今の人数で、いきなり週に何枠も増やすのは無理です。教育も必要ですし。先生の言う『無理のない数』なら、まずは週1からです」
週1。
現実的で、ありがたい数字だった。勢いで暴走しない数字。
「鎮静は」
看護師が少しだけ言いにくそうに言った。
「先生、そこが一番…気を使います」
「わかります」
「救急のときは『命優先』で走れます。でも定期は、事故が起きると…話が変わります」
そうだ。
緊急の内視鏡は条件が悪い。悪いのに許される範囲がある。
定期は条件が整っているのに、許される範囲が狭い。
医療のいやらしいところだ。
「先生が来てくれて助かるのは本当です。でも、先生一人で全部背負う形にしたくないです」
その言い方に、少しだけ救われた。
現場が“医者を使い捨てにしない言葉”を選んでいる。
「ありがとうございます。俺も、背負う形は避けたいです」
言って、気づく。
こういう話ができるようになったのは、この病院に来てからだ。
大学にいた頃は、背負うのが当たり前みたいな空気があった。
背負って倒れて、倒れた人の名前はすぐ忘れられる。
病院ってそういうところがある。
看護師が棚から一枚の紙を取り出して渡してきた。
「先生、これ。今の内視鏡室の現状まとめです。機器と、洗浄と、物品の発注の流れ」
俺は受け取って、紙を見た。
文字は事務的なのに、行間が現場の疲労で詰まっている。
でも同時に、「やるならここから」と道筋が見えた。
「助かります」
看護師は頷いた。
「先生、まず“何をしないか”も決めてください」
「何をしないか」
「全部はできません。やると壊れます」
壊れる。
シンプルで、一番正しい言い方だ。
◇
内視鏡室を出ると、廊下の白さが少しやさしく見えた。
少なくとも、想像で怖がるフェーズは終わった。
怖いのは消えないけど、形になった怖さは対処できる。
医局に戻ろうとして、ふと足が止まる。
自販機の前に、一ノ瀬さんがいた。
さっきまで病棟の中にいたはずなのに、こういう時は出会う。病院は狭い。
「先生」
「…何でここに」
「先生が来ると思ったので」
言い切るのが平然としていて、少し可笑しい。
「内視鏡室、見てきました」
「どうでした」
「現実でした」
一ノ瀬さんが小さく頷く。
「いいですね。現実は嘘つかないです」
「つかない。つけない」
俺はさっきもらった紙を軽く振った。
「週1からなら現実的。でも洗浄と物品と鎮静の体制は整えないといけない。あと“大腸はギリギリ”」
一ノ瀬さんは紙を覗き込まない。覗き込まない距離で聞いて、淡々と言った。
「じゃあ、打ち合わせ更新ですね」
「更新です」
一ノ瀬さんは少しだけ目を細めた。
「先生、今、ちょっとだけ顔が明るいです」
「そうですか」
「消化器の顔です」
その言い方が、少しだけ嬉しかった。
嬉しいのに、すぐ喜ぶと調子に乗るのも知っている。
「でも、大学の面談もあります」
俺が言うと、一ノ瀬さんは、いつもの結論に逃げずに一拍置いた。
「ありますね」
「情報を取りに行く」
「はい。先生が勝手に怖がらないために」
勝手に怖がらない。
それを人に言われると、少しだけ自分を許せる。
◇
医局に戻る途中、スマホが震えた。
通知。医局秘書からの追加メール。
日時と簡単な注意書き。
淡々とした文章なのに、胃が重くなる。
俺が立ち止まると、一ノ瀬さんが横で言った。
「来ました?」
「来ました。確定です」
「確定で」
言い方が、もう病棟の人になっている。
俺はスマホを閉じて、息を吐いた。
「一ノ瀬さん」
「はい」
「優先順位、仮更新します」
一ノ瀬さんが頷く。
「議題:優先順位(仮)、継続」
俺は小さく笑ってしまった。
病院の中で、こんなふうに笑えるのは珍しい。
珍しいのに、悪くない。
白い廊下の先で、予定表の針は増えていく。
でも今日は、針の位置を“自分で確認できた日”だった。
それだけで、続けていける形に少し近づいた気がした。




