08 夜の呼吸
夜の病棟は、昼より正直だ。
昼は忙しさで誤魔化せる。笑いも、怒りも、疲れも、全部「やること」に埋まる。
夜は埋まらない。音が少ないぶん、息づかいと心拍がやけに大きい。
当直室の机に向かっていても、廊下の先の気配が分かる。
分かってしまうのが医者の悪いところだ。
PHSが鳴った。
「高槻です」
「病棟です。笹川さん、ちょっと呼吸が浅くて。SpO2は保ててますけど、本人が『息がしにくい』って」
「わかりました。今行きます」
通話を切って白衣を羽織り、廊下へ出る。
◇
病室に入ると、照明が落ちていた。
ベッドの上の笹川さんは、目を閉じたり開けたりしていた。
苦しいというより、落ち着かない顔。
ベッドサイドに一ノ瀬さんがいた。
椅子ではなく、立っている。立っているけど、動きが小さい。寝ている人の呼吸に合わせて、空気を邪魔しない立ち方。
「先生」
「状況どうですか」
「息苦しさの訴えが出ました。体位変えても落ち着かなくて。酸素は今つけてません」
酸素をつければ数字は上がるかもしれない。
でも終末期の息苦しさは、数字より先に“感覚”が来る。
笹川さんが目を開けた。
「先生」
「笹川さん。今、息がしにくい?」
笹川さんは小さく頷いた。
「うん。なんかね、胸が…落ち着かない」
痛みではない。圧迫でもない。
落ち着かない。そういう訴えの方が、正確なときがある。
「体を少し起こしましょう。あと、口の乾きはありますか」
「ある」
一ノ瀬さんがすぐに枕を追加して、背中を少し高くする。
その動きが静かで、余計な刺激がない。こういう動きがあると、夜は助かる。
俺は笹川さんに言った。
「息が苦しいとき、呼吸を楽にする薬があります。眠くなることもありますが、楽になることを優先できます」
笹川さんは、目を閉じたまま一回だけ頷いた。
「…それでいい」
急変時の対応の確認のときと同じ頷き方。
迷いがない。迷いがないのが、怖い。
俺は一ノ瀬さんを見る。
「少量で。まずは一回だけ」
「はい」
一ノ瀬さんの返事は短い。
短いのに、全部の手順が入っている。
薬を準備する間、俺はベッド柵の近くに手を置いた。
笹川さんが握りたくなったら握れる距離。握らないで済むなら、その方がいい距離。
「先生」
笹川さんが、薄い声で言った。
「私ね、こういうの…怖いの」
怖い、は正直な言葉だ。
医者は“怖くないですよ”と言いたくなる。でも怖いものは怖い。
「怖いのは普通です。だから、楽にします」
笹川さんは、それで少しだけ息を吐いた。
◇
薬が入ってしばらくすると、笹川さんの表情が変わった。
劇的に良くなるわけじゃない。
でも、眉間のしわが少しほどける。呼吸のリズムが少しだけ整う。
「…落ち着いた?」
俺が聞くと、笹川さんは目を閉じたまま頷いた。
「うん。ありがと」
その「ありがと」は、小さくて、短くて、重い。
一ノ瀬さんが、声を出さない程度の動きで毛布を整える。
毛布を整えるだけなのに、部屋の空気が少し柔らかくなる。
「笹川さん、今夜は寝ましょう」
一ノ瀬さんが言った。
笹川さんは、目を閉じたまま、ふっと笑った気配を出した。
「紗夜ちゃん…声が、柔らかくなった」
一ノ瀬さんは返事をしなかった。
でも、次に口腔ケアのスポンジを持つ手が、ほんの少しだけゆっくりになった。
俺は、それ以上を見ないことにした。
医者が見すぎると、余計が増える。
「先生、しばらく様子見ます」
一ノ瀬さんが小さく言った。
「お願いします。何かあったら呼んでください」
「はい」
看護師なので、の代わりみたいな「はい」だった。
◇
病室を出ると、廊下の白さがやけに冷たい。
ナースステーションまで戻る途中、一ノ瀬さんが病室から出てきて、俺を追いかけるように歩いてきた。
小走りではない。けれど、足音がいつもより少しだけ速い。
「先生」
「どうしました」
一ノ瀬さんは声を落として言った。
「笹川さん、落ち着きました。今は眠ってます」
「よかった」
それだけで十分なのに、一ノ瀬さんは少しだけ言い淀んだ。
「…それと」
「はい」
一ノ瀬さんは視線を合わせずに続けた。
「さっき、笹川さんが『先生に言わないで』って言って、私に預けたものがあります」
預けたもの。
俺の頭が、勝手に“身寄りなし”と“最後”を繋げようとする。
でも繋げるのは雑だ。雑は余計を増やす。
「わかりました」
俺はそれだけ言った。
一ノ瀬さんは、ほんの一瞬だけ驚いた顔をした。
説明を求めないのか、という顔。
俺は続ける。
「笹川さんがそう言ったなら、それでいいです。必要になったら、笹川さんか一ノ瀬さんが言う」
一ノ瀬さんは小さく息を吐いた。
「……先生、面倒を増やさないの上手いです」
「増やすのも得意ですけど」
「今日は、増やさない方が助かります」
その言い方が、病棟の声じゃなかった。
夜の声だった。
俺は頷いた。
「今夜は、眠れるように整えましょう」
一ノ瀬さんも頷く。
「はい」
その「はい」は、完璧な看護師の「はい」だった。
でも、完璧の奥に“紗夜ちゃん”が少し混ざっている気がした。
◇
当直室に戻っても、すぐには椅子に座れなかった。
さっきの笹川さんの「怖いの」の声が、耳の奥に残っている。
怖いのは、呼吸が止まることじゃない。
呼吸が止まるまでの時間を、どう過ごすかだ。
PHSが鳴らない夜を、俺は少しだけ祈ってしまった。
祈りは科学じゃない。だけど夜勤の現場では、祈りも手順の一部になる。
そのまま廊下をもう一度歩いて、笹川さんの病室の前まで行く。
扉は閉まっている。中から音はしない。
ただ、点滴の滴下音だけが、確かに続いていた。
止まらない呼吸より、止まらない滴下の方が先に終わる夜もある。
そういう夜を、俺は知っている。
そして、今夜は多分――
笹川文代の時間が、静かに次へ進む夜だ。




