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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
吸血人の日常

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07 眠れるように

 翌朝、笹川文代さんの病室は静かだった。


 昨日の外出のあと、あの人は「疲れた」と言っていた。

 疲れた、の中には体力だけじゃなくて、片づけたものの重さも混ざっている気がした。


 ノックして入ると、笹川さんは横になっていた。目は閉じている。

 眠っているのか、眠れていないのか。高齢者のまぶたは、その境目が分かりにくい。


 ベッドの横で、一ノ瀬さんが点滴の滴下を確認していた。

 声を出さずに、指先だけで世界を整えている。


「おはようございます」


 俺の声に、一ノ瀬さんが軽く会釈した。


「笹川さん、朝は少しだけ目を開けました。痛みはなし。息苦しさも強くないです」


「食事は?」


「一口二口です。水分は、少し」


 一口二口。

 数字にすると小さいが、本人にとっては頑張りの最大値だったりする。


 俺はベッドの近くまで寄って、小声で呼んだ。


「笹川さん。高槻です。起きられますか」


 笹川さんのまぶたが少しだけ動いた。

 開いて、すぐ閉じる。開けるだけで疲れる、という動き。


「……先生」


 声は出た。まだ会話ができる。


「苦しくないですか」


「苦しくはない。疲れてるだけ」


「痛みは」


「ない」


「吐き気は」


「ない」


 昨日と同じ答えなのに、今日は少し違って聞こえる。

 症状がないことが、安心じゃなくて、終わりに近い静けさみたいに感じる。


 笹川さんが目を開けたまま、ぽつりと言った。


「先生、昨日はよかった」


「よかったなら何よりです」


 笹川さんは、少しだけ笑おうとして、笑いきれなかった。


「……よかったから、今日はもう、あんまり頑張らなくていい気がする」


 その言葉が、やけに自然だった。


 俺は一拍置いて、聞いた。


「笹川さん。今日、何を一番楽にしたいですか」


 笹川さんは少し考えてから言った。


「トイレが面倒」


 答えが生活に降りてくる。

 こういう時、人は哲学じゃなく生活を言う。むしろ、生活が哲学になる。


「分かりました。無理に歩かないでいいです。ベッド上でできることに変えましょう。恥ずかしいとかは、後回しで」


 笹川さんが、わずかに頷いた。


「……先生、言い方が上手いね」


「そういうのが仕事なんです」


 一ノ瀬さんが、横で小さく息を吐いた。

 頷いたのかもしれない。俺は見なかった。


 ◇


 病室を出て、廊下で一ノ瀬さんが先に口を開いた。


「先生、採血どうしますか」


 昨日までなら、惰性で「今日もフォローで」と言っていたかもしれない。

 でも今日は違う。


 笹川さんのまぶたの重さが、答えを知っていた。


「今日はやめましょう」


 一ノ瀬さんが、ほんの少しだけ眉を動かした。


「いいんですか」


「数字を追っても、本人のしんどさが減る方向に繋がりにくい。針を刺す方が、余計に疲れる」


 一ノ瀬さんが頷いた。


「分かりました」


 それだけで十分だった。

 医療って、結局こういう合意で進む。


「点滴も、量は増やしすぎないで。昨日も言ったけど、トイレが増える」


「はい。滴下、少し落とします」


 落とします、の言い方が現場の言葉だ。

 医学の言葉じゃなく、生活の言葉。


 俺は言った。


「笹川さん、心肺蘇生は望んでないって話でしたよね」


 一ノ瀬さんが頷く。


「本人からも言ってました」


「確認して、記録に残します。急変時に迷うのが一番しんどい」


 一ノ瀬さんは、少しだけ声を落とした。


「……迷うと、周りが走ります」


「走ると、笹川さんが疲れる」


「はい」


 短い会話。短いのに、病棟の未来を変える会話。


 ◇


 夕方、笹川さんの病室にもう一度行った。


 ベッドの上の笹川さんは、昼よりさらに静かだった。

 眠っている時間が増えている。


 それでも、声をかけると目を開けた。

 少しだけ。ほんとうに少しだけ。


「先生」


「笹川さん。確認したいことが一つあります。もし急に心臓が止まったり、呼吸が止まったりしたとき、胸を押したり管を入れたりする処置は、しない方がいい、で合ってますか」


 笹川さんは目を閉じたまま、ゆっくり頷いた。


「……しなくていい」


「分かりました。楽にすることを優先します」


 笹川さんが、息を吐いた。


「それで、いい」


 その「いい」が、昨日より軽かった。

 軽いから、怖い。


 俺は話題を変えるように言った。


「口の乾き、気になりますか」


「少し」


「じゃあ、口を湿らせましょう。無理に飲まなくていいです」


 一ノ瀬さんが、すぐに口腔ケアの準備をした。

 スポンジブラシ、水、タオル。動きが静かで、だから安心する。


 笹川さんが目を閉じたまま、ぽつりと言った。


「紗夜ちゃん、上手になったねえ」


 一ノ瀬さんは淡々と返した。


「上手になりました」


 即答で肯定するのは珍しい。


 笹川さんが、少しだけ笑った気配を出す。


「そういうとこ」


 一ノ瀬さんは返事をしなかった。

 でも、口の中を湿らせる手は、さっきより少しだけゆっくりだった。


 ◇


 病室を出ると、廊下の白さがやけに眩しかった。


 ナースステーションに戻る途中、一ノ瀬さんが小さく言った。


「先生」


「はい」


「……笹川さん、今日、さっきの時間に私に言いました。『先生に迷わせないであげて』って」


 俺は足を止めた。


「俺に、って?」


「先生、に。直接言うと面倒だから、私に言ったんだと思います」


 面倒、という言葉で包むのは彼女の癖だ。

 でも、その包みの中に本音がある。


 俺は頷いた。


「分かりました。迷わないように手順を揃えます」


 一ノ瀬さんが小さく息を吐いた。


「……ありがとうございます」


 礼を言う場面じゃないのに、礼が出る。

 その一言が、胸の奥に引っかかった。


「一ノ瀬さん」


「はい」


 俺は迷って、結局こう言った。


「今日は帰ったら、ちゃんと温かいもの食べてください」


 一ノ瀬さんが一瞬だけ固まって、すぐにいつもの顔に戻した。


「先生もです。面倒が増えるので」


 最後まで面倒で締める。

 でも今日は、その面倒が少しだけ優しかった。


 ◇


 消灯前、笹川さんの病室の前を通ると、一ノ瀬さんが中にいた。


 カーテンの隙間から、ベッドの脇に椅子を置いて座っているのが見えた。

 仕事の姿勢じゃない。看護師の姿勢でもない。


 ただ、そこにいる姿勢だった。


 俺は足を止めて、結局そのまま通り過ぎた。

 医者が入らない方がいい時間もある。


 病棟の白い廊下を歩きながら、思った。


 笹川文代さんは、もう“治す”の場所にいない。

 “整えて、眠れるようにする”場所にいる。


 そしてそれは、俺がずっと避けてきた種類の仕事だった。


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