06 少しだけ
病室の扉を閉めて、俺は廊下に立った。
「ナースステーションにいます。何かあったら呼んでください」
そう言って離れたのに、足はすぐには前に出なかった。
出ない理由を探すのは得意だ。人間はそういう生き物だし、医者はもっとそうだ。
結局、ナースステーションの端の椅子に腰を落ち着けた。
座ったというより、立ち尽くすのが不自然だから座った。
カルテを開く。笹川文代、86歳。
食思不振、低栄養、活動量低下。身寄りなし。
文字は整っている。整っているのに、現実を抱えきれない。
扉の向こうからは、点滴の滴下音が聞こえてくる。
それ以外は、あまり聞こえない。
……と思ったら、ふっと笑い声がした。
笹川さんの声だ。掠れているのに、よく通る。
一ノ瀬さんの声は聞こえない。聞こえないのに、そこにいる感じだけは伝わる。
それが妙に落ち着かない。
時間が、病棟の速度じゃなくなる。
病棟の十分は、体感では三十分だ。
俺は画面の文字を追うふりをしながら、扉の方を見ないようにして、結局見た。
◇
扉が静かに開いた。
出てきたのは、一ノ瀬さんだった。
いつもの完璧な表情。いつもの姿勢。
けれど目元だけ、ほんの少しだけ違う。泣いたと断言できるほどではない。乾いていない、くらい。
一ノ瀬さんは俺のところまで来て、小さく頭を下げた。
「先生。……すみません、待たせました」
「大丈夫です」
俺はそれ以上言わなかった。
言うと余計が増える。こういう時は特に。
一ノ瀬さんは視線を外したまま、短く言った。
「笹川さん、先生を呼んでほしいって」
「わかりました」
立ち上がりかけた俺に、一ノ瀬さんが付け足す。
「……体調は落ち着いてます。疲れてはいますけど」
「ありがとう」
一ノ瀬さんは小さく頷いた。
それだけで、十分だった。
◇
病室に入ると、笹川さんはベッドの上で少し上体を起こしていた。
さっきより穏やかな顔をしている。外出の疲れはあるが、呼吸は落ち着いている。
「先生」
「笹川さん、具合どうですか。苦しくない?」
「大丈夫。疲れただけ」
笹川さんは一度、毛布の端を指で撫でてから言った。
「先生、ありがとうね。今日は、よかった」
「よかったなら何よりです」
笹川さんが、少しだけ笑う。
「よかったって言えるうちに、言っておきたかったのよ」
言い方が静かで、だから余計に重い。
俺は深追いせずに、必要な確認を先に済ませた。
意識、呼吸、痛み、吐き気。大きな変化はない。
「……先生」
笹川さんが呼ぶ。今度は、病気の声じゃない。
「さっきね、紗夜ちゃんと少し話したの」
「はい」
「この子、昔からね。ちゃんと笑うのに、ちゃんと頼らないの。面倒よ」
“面倒”が、笹川さんの口から出ると悪口に聞こえない。
大事だから面倒、の種類だ。
笹川さんは俺を見た。
「先生も、面倒なこと考えてそうだけど、優しい人でしょう」
突然の評価に、俺は咳払いを一つした。
「……どうでしょう」
「どうでしょう、じゃないわよ」
笹川さんが笑って、それから真面目な目になる。
「先生。人ってね、最後の最後は、医者の正しさだけじゃ足りないのよ」
胸の奥が、静かに痛んだ。
痛むのは、当たっているからだ。
俺は簡単に「そうですね」とは言わなかった。
言うと、軽くなる。
「分かるようにします」
笹川さんは満足そうに頷いた。
「それでいいの」
それから笹川さんは、少しだけ意地悪そうに笑った。
「さっき紗夜ちゃんがね、『先生とはそういう関係じゃありません』って言うのよ」
俺の頭が一拍遅れて追いついた。
「……え」
笹川さんは楽しそうに続ける。
「私は先生とは言ってないのにねえ。言ってないのよ」
俺は返事に困って、結局、正直に言った。
「……笹川さん、そういうの言うと、余計な面倒が増えます」
笹川さんが声を出して笑った。
「増えていいのよ。だって、あなた面倒な先生でしょう」
返す言葉がない。
笹川さんは笑いを引っ込めて、少しだけ声を落とす。
「先生。人間って嫌なもんで歳をとると、知らなくていいことまでわかるようになるのよ。」
少し息を整えて続ける。
「あの子ね、人として生きるって決めたのよ。だから誰かと生きるを諦めさせないであげて」
その言い方は、祈りに近かった。
「……笹川さん」
「先生に頼むのはずるいけど、頼むわ。逃げ道になってあげて。囲うんじゃなくて、逃げ道」
逃げ道。
救急の言葉みたいで、妙に現実的だ。
俺は頷いた。
「……笹川さんがそう言うなら、考えます」
「考える人でいいのよ」
笹川さんは目を閉じた。
疲れが本当に来た顔だ。
「先生、今日はもう十分。帰って」
帰って、が病棟の中で出るのが不思議だった。
でも笹川さんの言う“帰って”は、ちゃんと優しさだった。
「はい。休んでください」
俺は病室を出た。
◇
廊下に出ると、一ノ瀬さんが少し離れたところに立っていた。
待っている、というより、そこにいる。
「先生」
「はい」
一ノ瀬さんは視線を合わせずに言った。
「……笹川さん、何か言ってました?」
聞きたいのに、聞きたくない声だった。
俺は答えを短くした。
「笹川さんらしいことを」
一ノ瀬さんが小さく息を吐く。
「面倒な人です」
「面倒な人ですね」
同意すると、一ノ瀬さんはほんの少しだけ口角を上げかけて、すぐ真顔に戻した。
「先生」
「はい」
「……今の話、真に受けないでください」
「真に受ける受けない以前に、笹川さんの希望が一つ叶った。今日はそれで十分です」
一ノ瀬さんが、少しだけ眉を寄せる。
「そういうの、ずるいです」
「医者なので」
言ってから、自分でも可笑しくなった。
看護師なので、に対抗してしまった。言葉は感染する。
一ノ瀬さんは、ほんの少しだけ息を吐いて言った。
「じゃあ私は看護師なので。笹川さん、今夜眠れるように整えます」
「お願いします」
一ノ瀬さんは頷いて、ナースステーションへ戻っていった。
背筋は伸びたまま。完璧なまま。
でも今日だけは、その背中にほんの少しだけ“紗夜ちゃん”が混ざって見えた。
病棟は白い。
白いのに、今日はちゃんと色があった。




