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飛ばされた内科医が夜勤中に見たのは、血液パックを飲む完璧な看護師でした  作者: 那由多
吸血人の日常

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05 一時外出

 

 翌朝、笹川文代さんの病室は、いつもより少しだけ整っていた。


 枕がきちんと真ん中。タオルが畳まれている。

 ベッドの柵に掛かったカーディガンも、まるで“外に出る服”の顔をしている。


 俺が入ると、笹川さんは目を開けた。


「先生」


「おはようございます」


「今日、行ける?」


 問い方が短い。

 短いのに、昨夜の“お願い”がそこに全部入っている。


「行けます。ただし、体調が崩れたらすぐ戻ります。無理はしない」


 笹川さんは、少しだけ口角を上げた。


「無理はしない。いい言葉ね」


 そこへ一ノ瀬さんが入ってきた。いつも通りの表情、いつも通りの動き。

 でも今日は、持っているものが少し違う。


 血圧計と体温計に加えて、小さなバッグ。

 救急外来で見る“最小限の外出セット”みたいなやつだ。


「笹川さん、おはようございます。行けそうですか」


「行けそう。……ねえ紗夜ちゃん、私、変?」


 笹川さんが自分のカーディガンの袖を見ながら言う。


「変じゃないです」


 即答。


「昔の私なら、もうちょっと口紅塗ってたのに」


「今日は塗らなくて大丈夫です」


「え、なんで」


 一ノ瀬さんは淡々と答えた。


「塗ると、落とすのが面倒です」


 笹川さんが声を出して笑った。


「紗夜ちゃん、そういうところよ」


 一ノ瀬さんは何も言わない。

 でも、笹川さんの笑いが続く間だけ、ほんの少しだけ目元が柔らかい。


 俺はその隙に、医者の仕事を済ませる。


 血圧、脈、SpO2。意識。呼吸。

 “出られる”条件を、静かに満たしている。


「よし。じゃあ行きましょう」


 笹川さんが小さく頷いた。


「先生、ちゃんと面倒見てね」


「面倒を見るのが仕事です」


 言い切ると、笹川さんは満足そうに目を閉じた。


 ◇


 病棟を出る前に、師長が廊下の角で待っていた。


「先生、行くんだね」


「はい。短時間で」


 師長は一ノ瀬さんのバッグを見て、少しだけ眉を上げた。


「一ノ瀬さん、荷物、増やしすぎないでよ」


 一ノ瀬さんは淡々と返す。


「増やしてません。減らしました」


「減らした、の基準が怖いのよ」


 師長はそう言いながら、笹川さんの膝掛けを直してくれた。

 口は厳しいのに、手が優しい。


「笹川さん。何かあったらすぐ戻ってきましょうね」


 笹川さんは頷く。


「分かってる。転んだら面倒だもの」


 師長が笑って、俺を見た。


「先生、ほら。感染してる」


「感染してますね」


 師長は短く言った。


「帰ってきたら、まずトイレ。あとはベッドで休ませて。外出って、楽しい顔してるほど疲れるから」


「了解です」


 師長が手を振って、俺たちはエレベーターへ向かった。


 ◇


 エレベーターが一階に着いて、自動ドアを抜けると、外の空気がふっと頬に当たった。


 笹川さんが、目を閉じて息を吸う。


「……外の匂いだねえ」


 病院の中の匂いは、清潔で、均一で、どこにも属さない。

 外の匂いは雑で、季節の粒が混ざっている。


「寒くないですか」


 俺が聞くと、笹川さんは首を振った。


「寒いのは、まだ生きてる感じがする」


 言い方が上手い。

 こういう言い方をされると、医者は簡単に黙ってしまう。


 駐車場の端に、病院の車が停まっていた。

 運転席から事務の人が降りてきて、会釈する。


「高槻先生、こちらです。場所、ナビ入れてあります」


「ありがとうございます」


 一ノ瀬さんが車椅子のブレーキを確認して、笹川さんに声をかける。


「揺れます。ゆっくり座ってください」


「はいはい。私、こういうのは慣れてるのよ」


 慣れている、という言葉が少し寂しい。

 でも笹川さんは寂しさを見せない。


 車に乗せて、シートベルトをかける。

 その間、一ノ瀬さんの指が一瞬だけ止まった。


 笹川さんの肩に触れる。

 触れて、すぐ離す。


 手順の中に、ほんの少しだけ“個人的な間”が混ざった。


 俺は見て見ぬふりをして、助手席に座った。


 ◇


 車が病院を出る。


 窓の外の景色が流れ始めると、笹川さんの目が、少しずつ“昔の速度”になる。


「ああ……ここの角、前は八百屋だったのよ」


「そうなんですか」


「今はコンビニね。便利でいいけど、八百屋のおじさんはね、声がでかかったの」


 笹川さんが笑う。

 笑いの中に、生活がある。


「紗夜ちゃん、覚えてる?」


 後部座席から声が飛ぶ。


 一ノ瀬さんは窓の外を見たまま、淡々と言った。


「覚えてます。いちごが安い日がありました」


「そうそう。いちごの日。いちごの日にね、紗夜ちゃん、いちごをそのまま一パック食べて怒られたのよ」


「怒られてません」


「怒られた」


「怒られてません」


 やり取りが短い。息が合ってる。

 俺は知らないはずなのに、なぜか光景が浮かぶ。


 学生の一ノ瀬さん。

 今より少しだけ言葉が尖っていて、今よりずっと一人で。


 そういう想像をしてしまう自分を、助手席で小さく戒めた。

 医者の頭は、余計な絵を描く。


 車はゆっくりと住宅街へ入っていく。


 笹川さんが指先で窓を軽く叩いた。


「……あそこ」


 運転の人がウインカーを出して、路肩に停める。

 俺は後ろを振り返る。


「見えますか」


 笹川さんは、じっと前を見たまま頷いた。


「見える。……あれが、うちだった」


 “うちだった”。


 過去形が、ちゃんと過去形として言える声だった。

 悲しさじゃなくて、整理の声。


 車椅子を降ろして、道路の向こう側へ少しだけ移動する。

 一ノ瀬さんがブレーキをかけて、笹川さんの膝掛けを直した。


 目の前の建物は、きれいだった。

 昔の写真のような古びたアパートじゃない。手入れされている。名前も変わっている。


 笹川さんが、看板を見上げた。


「名前、変わったのね」


「変わってますね」


「……でも、ちゃんと人が住んでる」


 その言い方が、少しだけ安堵に聞こえた。


 笹川さんはしばらく黙っていた。

 風が吹いて、髪が少し揺れる。


「先生」


「はい」


「中には入らないわ。外で十分」


 十分。今日は、良い十分だ。


「わかりました」


 俺は一ノ瀬さんを見る。

 一ノ瀬さんは、笹川さんの横で黙って立っている。言葉がないのに、そこにいる。


 笹川さんが、急に小さく笑った。


「ここね。あの玄関のあたりで、紗夜ちゃん、転びそうになったのよ」


 一ノ瀬さんが即答する。


「転んでません」


「転びそう、って言ったの」


「……転びそうにはなりました」


 認めた。珍しい。


 笹川さんが嬉しそうに言う。


「ほら。変わった」


 一ノ瀬さんは返さない。

 返さないけど、視線がほんの少しだけ柔らかくなっている。


 俺は少し距離を取った。

 二人の間に入らない距離。医者の距離。


 その間、笹川さんは建物を見ていた。

 見ている、というより、そこにある時間を確かめている。


 しばらくして、笹川さんが小さく言った。


「……ありがとう。これで、思い出すこともないわ」


 その言葉は、強がりじゃなくて、結論だった。


「戻りましょうか」


 俺が言うと、笹川さんは頷いた。


「うん。帰ろう」


 帰ろう、という言葉が、今日はちゃんと“帰る”の意味を持っていた。

 病棟に戻る、という意味だけじゃなく。


 ◇


 病院に着くと、笹川さんは思ったより疲れていた。


 表情は穏やかだけど、呼吸が少し浅い。

 楽しかった分だけ、体が正直になる。


 師長の言葉を思い出して、俺はすぐに言った。


「まずトイレ行きましょう。終わったらベッドで休みましょう」


「手順ね」


「手順です」


 笹川さんが小さく笑う。


「先生、そういうの、安心する」


 病室に戻って、ベッドへ移る。点滴をつなぐ。

 一ノ瀬さんが滴下を確認して、毛布をかけ直す。


 笹川さんが目を閉じて、少しだけ息を整える。


「……疲れた?」


 一ノ瀬さんが小さく聞いた。


 笹川さんは目を閉じたまま、頷いた。


「疲れた。でも、よかった」


 その“よかった”は、短いのに重かった。


 しばらくして、笹川さんが目を開け、俺を見た。


「先生」


「はい」


 笹川さんは、少しだけ言いにくそうに笑って言った。


「少しだけでいいから、紗夜ちゃんと二人で話してもいいかしら」


 病室の中の空気が、また静かに落ちた。


 一ノ瀬さんの表情は崩れない。

 でも、指先だけがほんの少しだけ動く。手袋の端を整えるみたいに。


 俺は一拍置いて、頷いた。


「……わかりました。ナースステーションにいます。何かあったら呼んでください」


 笹川さんは満足そうに目を閉じた。


「ありがとう、先生」


 俺は病室を出て、扉をそっと閉めた。


 廊下の白さの中で、俺は立ち止まる。


 今の外出は、危険をゼロにするためじゃなかった。

 危険と一緒に“その人の人生”を運ぶための手順だった。


 そして、次の手順は――

 医者が入らない手順だ。


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