09 預けもの
翌朝の病棟は、昨夜のことなど無かったみたいに白かった。
カーテンの隙間から差し込む薄い光。
廊下を転がるワゴンの音。検温の気配。
同じ白の中で、笹川文代さんの時間だけが、少し深いところへ沈んでいる感じがした。
病室に入ると、笹川さんは横になっていた。目は閉じている。
呼吸は浅いけれど、昨夜みたいに苦しそうではない。眉間のしわもない。
ベッドサイドに一ノ瀬さんがいた。
立っている。動いていない。
“看護師が立っている”というより、“そこにいる”という立ち方だった。
「おはようございます」
小声で言うと、一ノ瀬さんは視線だけこちらに向けて頷いた。
「夜は落ち着いてました。頓用が一回。今は寝てます」
「ありがとう」
俺はベッド柵の近くまで寄って、笹川さんの顔を見た。
眠りの顔だ。でも、普通の眠りと違う。起こしたら起きるかもしれないし、起きないかもしれない。境目の眠り。
「笹川さん。高槻です」
呼びかけると、まぶたが少しだけ動いた。
開く。細い目。開いたまま、こちらを探す。
「……先生」
声が出た。まだ、言葉がある。
「苦しくないですか」
笹川さんは、ほんの少し首を振った。
「……大丈夫。眠い」
「眠いのは、いいことです」
笹川さんは目を閉じた。
それだけで会話は終わった。終わったのに、終わっていない感じが残る。
医者の頭は、そこに意味を足したがる。
足しても仕方ない。足すと余計が増える。
俺は確認だけを済ませた。呼吸、循環、痛みの有無。
それから、声を落として一ノ瀬さんに言った。
「今日は採血はしない。点滴も、増やさない。苦しさが出たら、昨夜と同じで」
「はい」
短い返事。短いのに、全部通った返事。
◇
昼前、笹川さんが少しだけ目を開ける時間があった。
ベッドの上で、視線が天井から窓へ流れていく。
窓の向こうには病院の駐車場と、空がちょっとだけ見える。
「水、飲みますか」
俺が聞くと、笹川さんは小さく首を振った。
「……いらない。口だけ…」
「わかりました」
一ノ瀬さんがすぐにスポンジブラシを用意した。
湿らせて、口の中をそっとなでる。やり方が静かで、丁寧で、速くない。
笹川さんが、かすれた声で言った。
「紗夜ちゃん…」
一ノ瀬さんが手を止めずに、返事だけを落とす。
「はい」
「…あんた、ここで…ちゃんと生きてるね」
一ノ瀬さんの手が、ほんの一瞬止まった。
止まって、すぐ動き出す。止まったことを無かったことにする速度。
「生きてます」
返事は淡々としていた。淡々としているのに、少しだけ強い。
笹川さんはそれで満足したみたいに、目を閉じた。
俺はその会話に入り込まなかった。
入ると、余計な言葉が増える。増えた言葉は戻せない。
◇
午後、病棟の空気が少し変わった。
笹川さんの呼吸が、また浅くなってきた。
浅いというより、波が出てくる。一定じゃない。少し早くなって、少し遅くなる。
PHSが鳴る。病棟の看護師から。
「高槻です」
「先生、笹川さん、呼吸が少し苦しそうで。昨夜みたいに落ち着かない表情が出てきました」
「今行きます」
病室に入ると、笹川さんは目を閉じたまま、眉間だけが少し寄っていた。
数字は保てている。だからこそ、数字で誤魔化せない。
「笹川さん。息、しにくい?」
笹川さんは目を開けないまま、小さく頷いた。
「…ちょっと」
俺は一ノ瀬さんに目で合図した。
「少量で、もう一回。昨日と同じで」
「はい」
薬が入るのを待つ間、俺はベッド柵に手を置いた。
握りたくなったら握れる距離。
握らないで済むなら、それが一番いい距離。
数分して、笹川さんの眉間がほどけてきた。
呼吸のリズムが少し整う。目を閉じたまま、息が長く吐けるようになる。
「…落ち着いた?」
俺が聞くと、笹川さんは頷いた。
「うん」
その「うん」が、今日の最後のはっきりした返事になる気がした。
そういう予感は、当たってほしくないのに当たることがある。
一ノ瀬さんが毛布を整えた。
整え方が、さっきより少しだけゆっくりだった。
◇
夕方、笹川さんはほとんど目を開けなくなった。
それでも顔は穏やかだった。
苦しさのしわがない。それだけで、医療者は少し救われる。
ナースステーションへ戻る途中で、一ノ瀬さんが俺に並んだ。
半歩後ろじゃない。横だった。ほんの数歩だけ。
「先生」
「はい」
一ノ瀬さんは、いつもの調子で言おうとして、少しだけ言い直す。
「…さっきの薬、効いてます。表情が落ち着いてます」
「よかった」
それだけの会話のはずなのに、一ノ瀬さんは続けた。
「笹川さん、昼に私に言いました。『先生に言わないで』って」
昨夜と同じ言い方だ。
“預けもの”がまだ生きている。
俺はそれ以上、聞かなかった。
「わかりました」
一ノ瀬さんは、少しだけ肩の力を抜いた。
「…先生、聞かないんですね」
「笹川さんがそう言ったなら、そうします」
「面倒じゃないですか」
「面倒です。でも、今はその面倒の方が正しい気がする」
一ノ瀬さんが、ほんの少しだけ目を伏せた。
「…ありがとうございます」
礼を言う場面じゃないのに、礼が出る。
それだけで、何が起きているか分かってしまう。
俺はそこで話を切った。切らないと、余計が増える。
「今夜も、眠れるように整えましょう」
「はい」
その「はい」は、仕事の返事なのに、どこか個人的だった。
◇
深夜、PHSが鳴った。
短い音。切迫した音じゃない。
こういう音のとき、病棟はもう落ち着いている。
「高槻です」
「病棟です。笹川さん、呼吸が…止まりました。今、確認してます」
「今行きます」
廊下を歩く足音が、自分の耳にやけに大きく聞こえた。
夜の病棟は正直だ。足音も、心拍も、隠せない。
病室に入ると、照明は落ちたままだった。
ベッドの横に、一ノ瀬さんがいた。椅子に座っている。動いていない。
笹川さんは、静かだった。
顔は穏やかで、昨日の外出のときと同じような、少しだけ“片づいた”顔をしていた。
俺は呼吸と脈を確認して、時間を見て、必要な言葉を口にした。
「…笹川文代さん、ただいま亡くなられました」
その瞬間、部屋の空気が変わる。
終わった、という空気。
でも終わりは、終わり方で違う。
一ノ瀬さんは深く息を吐いて、小さく頷いた。
「…はい」
声が震えてはいなかった。
震えていないのが、この人らしい。
俺は、病棟の手順を進める。
「記録と、死亡診断書、準備します。」
「はい」
一ノ瀬さんは立ち上がり、静かにカーテンを整えた。
整えて、もう一度、笹川さんの顔を見る。
その視線は看護師の視線じゃない。
“紗夜ちゃん”の視線だった。
俺は、その時間に入らないことにした。
◇
病室を出るとき、背中で一ノ瀬さんの声がした。
「先生」
振り返ると、一ノ瀬さんは小さな封筒を胸のポケットに押し込むところだった。
動きが一瞬だけ雑で、だから逆に本当っぽい。
「…後で、少しだけ。話せますか」
俺は頷いた。
「はい。落ち着いたら」
一ノ瀬さんも頷いた。
「…ありがとうございます」
礼を言うのは、まだ早い。
でも、礼が出る夜もある。
廊下の白さの中で、俺は死亡診断書のために自分の字を整えながら思った。
終末期は、静かに終わることがある。
静かに終わると、残るのは音じゃなくて、預けものだ。
そして今夜、その預けものが、次の話の入口になっている。




