第87話 捨て方が分からない
シリーズ化されてもう一つの作品があります。そちらも読んでもらえると嬉しいです。
朝、共用部屋へ出ると、ファステが水の入った容器を抱えたまま立ち止まっていた。
「夜斗様、こちらを少し移動してもよろしいでしょうか」
「どれ?」
ファステが視線で示したのは、部屋の隅だった。
生活用品から離して作った隔離区画。そこには蓋をした容器がいくつかと、布で包んだ使用済みの布が置かれている。
地下から帰った後、装備や身体を洗った時に出た汚水だ。
「……まだあったな、これ」
「なくなる理由がないからの」
記録を広げていた千代が、顔も上げずに答えた。
「それはそうなんだけど」
地下攻略を保留してから増えてはいない。それでも容器は場所を取り続けていた。
「そろそろ、どうにかしないとな」
「汚れって気を遣ってくれないね」
床へ座っていたヴィオラが、欠伸交じりに言った。
その隣で、ナーヴァが隔離区画を眺める。
「捨てればよい」
全員の視線が集まった。
ナーヴァは少し眉を寄せる。
「何だ」
「いや。どこに捨てるのかと思って」
「外へ」
「それが分からないから残ってる」
ナーヴァが理解できないという顔で容器を見る。
「水であろう?」
「魔物の血や体液を洗った水じゃ」
千代がようやく顔を上げた。
「普通の水と同じに扱ってよいか分からぬ」
「土へ流せばよい」
「安全だと分からない」
今度はリゼが答えた。
ナーヴァは少し考えた後、別の案を出そうと口を開く。
「ならば川へ――」
「駄目」
声が重なった。
「まだ言い終わっておらぬ!」
「だいたい予想できた」
川へ流せば生活用の水へ混ざるかもしれない。影響が分からない以上、流す案は採れなかった。
「隔離したこと自体は間違っておらぬ」
千代が記録の一部を指で押さえた。
「正体が分からぬ。安全性も分からぬ。捨て方も分からぬ。ならば生活に用いる物から離し、触れぬよう保管する。応急の判断としては妥当じゃ」
「じゃあ、このままでいい?」
「容器を増やし続けることは、処理とは言わぬ」
「ですよね」
今ある容器は、もともと別の用途に使うつもりだった物も多い。
汚水を入れた時点で、簡単には戻せなくなった。
これからも同じことを続ければ、容器も場所も足りなくなる。
「いつか容器だらけになるな」
「汚水専用の家になりそう」
「嫌すぎる」
「外から見えないし、誰にも迷惑かけないよ?」
「俺たちが迷惑するんだよ」
ヴィオラは笑っているが、冗談だけの問題でもない。
ファステが抱えているのは生活用の水だ。置きたい場所へ汚水の容器がはみ出し始めている。
今はまだ少し位置を変えれば済む。
けれど、次も同じとは限らない。
「問題は水だけではありません」
ファステが容器をいったん床へ下ろした。
「あちらの布も、どう扱えばよいか分からないままです」
装備や床、身体を拭いた布。
一度洗った物もあるが、それで完全に汚れが落ちたとは言い切れない。洗えば、今度はその水が汚れる。
捨てるにしても、普通の布と同じでよいのか分からない。
「燃やせばよい」
ナーヴァが言った。
「燃やして、煙に何か混ざったら?」
「……」
ナーヴァが黙る。
「今度はこちらの指摘が通ったな」
「何を競っておる」
「別に競ってないけど、ちょっと嬉しい」
「ならば、そのくだらぬ喜びごと燃やしてやろう」
「それは煙にしても安全だと思う」
「夜斗、余計なことを言うな」
リゼに止められた。
ナーヴァが本当に燃やすとは思っていないが、最初に会った時は実際に焼かれかけている。
冗談として流していい相手なのかは、まだ少し迷う。
「布も水も、勝手には捨てない方がいいですわね」
レイナが隔離区画へ近づかない位置から、容器を眺めた。
「容器自体も確認が必要ですわ。長く入れておくことで傷んだり、中身が染み出したりしないとは限りませんもの」
「そこまであるのか」
「何を入れるために作られた容器か分かりませんから」
安い容器へ危険かもしれない物を入れ、長期間放置する。
言われてみれば、かなり不安な組み合わせだった。
「ナーヴァの狩りを続けるなら、また増えるぞ」
リゼが壁へ立てかけた武器を確認しながら言った。
「前回はほとんど現地で済ませたが、まったく汚れずに帰れるとは限らない。血も付く。正体の分からない体液を浴びる可能性もある」
「食料問題を解決しようとしたら、こっちが増えるのか」
「問題は独立しておらぬからな」
千代の言葉が重い。
ナーヴァが食べられそうな大型魔獣は見つかった。
ただし、ナーヴァ本人が少量を食べて、短い間に異常がなかっただけだ。継続して安全かは分からない。
その上、狩りをすれば痕跡が残る。
血や死骸だけではない。帰ってきたナーヴァやリゼが汚れていれば、洗う必要がある。
「ダンジョン内で洗えばよい」
ナーヴァが言った。
一瞬だけ、正しい案に聞こえた。
リゼが短く尋ねる。
「水は?」
「……」
「持っていく?」
俺が言うと、千代が首を横に振った。
「今度は洗浄用の水を運ぶことになる」
「そして、汚れた水をどこへ流すかという問題も残ります」
ファステが続けた。
「戻ったな」
「戻ったね」
ヴィオラが楽しそうに言う。
何をしても、最後には同じ場所へ戻ってくる。
捨て方が分からない。
それが全部だった。
「これ、俺たちだけで考えても答え出ないんじゃない?」
「ようやくそこへ至ったか」
「もっと早く言って」
「外へ相談するなら、話す内容を決める必要があった」
千代は当然のように言った。
外へ聞けばいい。
言葉にすれば簡単だ。
だが、誰へ聞けばいいのか分からない。
医者か。薬師か。探索者か。ダンジョンを管理している者か。清掃を仕事にしている者がいるのかもしれない。魔物素材を扱う店なら、体液や洗浄について知っている可能性もある。
「そもそも、この世界に汚水処理の専門家っているの?」
「街で聞けば?」
「結局それか」
ヴィオラの答えは単純だった。
分からない相手を探す方法も、知っていそうな人へ聞くしかない。
「まず必要なのは、処理方法の情報じゃ」
千代が紙の代わりに使っている記録物を手元へ寄せた。
「初めから、こちらの事情をすべて話す必要はない」
「《淫獄》のことも?」
「当然じゃ。『グール系魔物と接触した装備を洗った水がある』。まずは、その程度でよかろう」
「地下で出たって言わない方がいい?」
「聞かれておらぬことを、最初からすべて話す必要はない」
千代はそこで一度言葉を切った。
「だが、虚偽を申すな」
「隠すのと嘘は違うってことか」
「聞かれた時に答えられぬなら、勝手な説明を作らず持ち帰れ。こちらで改めて、どこまで話すか決めればよい」
その場を切り抜けるために嘘を重ねると、後で何を話したのか分からなくなる。
俺ならたぶん途中で間違える。
「実物があった方が、分かりやすいのではないでしょうか」
ファステが隔離容器へ目を向けた。
リゼがすぐに首を横へ振る。
「相談先も決まっていない街へ、正体不明の汚水を持ち込むのは危険だ」
「それはやめよう」
容器が割れたらどうするのか。
漏れた時の処理すら分からないのに、人のいる街へ持っていくべきではない。
最初は言葉だけだ。
「聞くことを整理するぞ」
千代が項目を書き始める。
「グール系魔物の血液や体液が付着した装備の洗い方。洗った後の水の処理。使用した布の扱い。身体へ触れた場合の処置。それから、専門的に相談できる相手じゃ」
「質問多くない?」
「すべてを一人へ聞く必要はない」
「あと、地下入口についても聞くべきだ」
リゼの言葉に、俺は止まった。
「あ」
「まだ調べておらぬのか」
ナーヴァが呆れた目を向けてくる。
「今それ言う?」
「知らぬまま我を送り込んだのは貴様であろう」
「否定できない言い方をするなよ」
入口へ入るのに許可がいるのか。
登録が必要なのか。
狩りをしてよいのか。
倒した獲物が誰の物になるのか。
死骸や血痕はどう処理するのか。
そもそも、誰が管理しているのか。
何も分かっていない。
以前から調べるべきだとは分かっていた。
それでも、自分たちだけで入口を見つけ、自分たちだけで入って帰れたことで、後回しになっていた。
「狩りはどうする」
ナーヴァが尋ねた。
「飢餓を避ける必要がある場合のみ、暫定利用じゃ」
千代が答える。
「入口のルールが分かるまで、できるだけ回数を減らしたい」
「我に飢えろと?」
「そこまでは言ってない。腹が持つなら急がないでほしいって話」
ナーヴァは不満そうに目を細めた。
少し前なら、自分の食事を他人の都合で制限されること自体を拒んでいたかもしれない。
だが今は、隔離された容器へもう一度目を向けた。
「……腹が持つ限りだ」
「助かる」
「礼を言うほどのことではない。我が飢えれば行く」
「その時はまた考える」
ナーヴァが容器の前で立ち止まる。
「我のせいで増える可能性があるのだな」
「ナーヴァだけのせいじゃない」
最初の汚水は、俺たちが地下へ入った時に出たものだ。
「でも、狩りを続ければ増えるかもしれない」
「ならば、我も処理方法を知る必要がある」
責任を感じて謝る、という言い方ではなかった。
ただ、自分が暮らす上で必要な情報として受け取ったらしい。
それでいいと思う。
「街へ行くのは、リゼとレイナとヴィオラでどうだ?」
三人がこちらを見る。
「リゼは護衛と安全判断。レイナは容器とか、処理に使う物の品質確認。ヴィオラは聞き込み」
「妥当だな」
リゼが頷いた。
「質問内容は事前に確認させていただきますわ」
「聞くだけなら任せて」
ヴィオラが軽く手を上げる。
「ただし、予定になかったことまで聞かれたら答えない。一度戻って、みんなで考える。それでいいか?」
「秘密に踏み込まれたら持ち帰る。嘘もつかない。分かってるよ」
「安全に関わることなら、私がその場で撤退を決める」
リゼの言葉に頷く。
「任せる」
今回は、俺は行かない。
汚水のことを最終的に判断するのは俺かもしれない。けれど、最初の相談先を探すだけなら、俺がついていかなければ成立しない仕事ではない。
俺は出発前に、話してよい範囲を一緒に決める。
《帰還石》の反応を待つ。
帰ってきた三人を受け入れ、持ち帰った情報から次を決める。
「私は、汚水と生活用品が混ざらないよう整理しておきます」
ファステが自分から言った。
「無理に動かさなくていいからな」
「はい。容器の状態を確認し、必要な物だけ置き直します」
「妾は質問項目をまとめよう。答えを書き足せる形にしておけば、聞いた相手が違っても比較できる」
千代もすでに手を動かしている。
縁は少し離れた場所を歩き、隔離区画へ近づく前に進路を変えた。
能力で危険を感じたわけではない。
近づけないよう物を配置し、俺たちも普段からそちらへ行かせないようにしている。その積み重ねで、縁も通らない場所として覚えただけだろう。
そのままナーヴァの近くを通る。
以前のように毛を逆立てることはなかったが、身体を寄せるほど近くもない。
ナーヴァは縁を目で追い、それ以上は何もしなかった。
「専門家に聞いたら、『どこで出た汚水だ』って、絶対聞かれない?」
俺が言うと、ヴィオラは即答した。
「聞かれると思う」
「どうする?」
「それを今、俺に聞く?」
「王でしょ?」
便利な時だけ王扱いされている気がする。
「正直に答えられる範囲だけ答える。それ以上は持ち帰る」
「了解」
正解を用意できたわけではない。
ただ、分からないことを誤魔化すための嘘はつかない。その線だけは決められた。
「何でも俺たちだけでやる必要ないよな」
口にすると、千代が呆れたように息を吐いた。
「今さらじゃな」
「今までだって外へ聞きに行ってたけどさ」
「それでも最後には、自分たちだけで抱えようとしておった」
否定できない。
食料も、水も、戦闘も、装備の補修も。
最初は外へ頼る場所そのものがなかった。
今は街がある。
そこで働き、物を買い、情報を得て帰ってきた経験もある。
知らないことを、知っている誰かへ聞く。
それも、自分たちで考えた結果の一つなのだと思う。
千代がまとめた質問は、最終的に六つになった。
グール系の血や体液が付いた装備の洗い方。
洗浄水の処理方法。
使用済み布の処理方法。
身体へ触れた時の処置。
専門的な相談先。
そして、ダンジョン入口の利用規則を確認できる場所。
「一日で全部分からなくてもいいからな」
「最初からそのつもりだ」
リゼが答える。
「相談先が分かれば、今回はそれで十分ですわ」
「ついでに相場も見てくる?」
「目的を増やしすぎるなよ」
「見るだけ」
「その言葉、信用していい?」
「半分くらいは」
やっぱりリゼを入れて正解だった。
夜になって、俺は隔離された容器をもう一度見た。
明日は、これを安全に減らす方法を知っている誰かを探しに行く。
「ついでに食える物も買ってこい」
横からナーヴァが言った。
「予算を見てからな」
「王のくせに細かい」
「貧しい王だからな」
ナーヴァが不満そうに鼻を鳴らす。
捨て方を聞きに行く前から、買う物だけは増えそうだった。




