第85話 ちゃんと帰ってきた
朝、共用部屋へ出ると、ナーヴァはすでに立っていた。
昨日と同じ人の姿。
赤黒い髪を後ろへ払い、腰には自分で選んだ《帰還石》を付けている。
準備というほどの荷物はない。
水も食料も持っていない。
今から食料を取りに行くのだから不要だ、というのが本人の主張だった。
「行くぞ」
俺の顔を見るなり、それだった。
「おはようより先に?」
「腹が減っている」
「理由が強い」
食卓には、ファステが用意した朝食が並んでいる。
ナーヴァの分は俺たちより多い。
それでも、本人にとっては空腹を少し紛らわせる程度だろう。
ナーヴァは席へ座り、黙って食べ始めた。
昨日までのように、少ないとは言わない。
今日、自分で狩るつもりだからだろう。
「食べながらでよい。最後の確認をするぞ」
千代が記録を広げた。
ナーヴァが露骨に嫌そうな顔をする。
「まだあるのか」
「当然じゃ。初めて入る場所で、初めて狩るのだからな」
「狩りなど何度もしている」
「この世界では初めてじゃろう」
ナーヴァは反論しようとして、やめた。
昨日から何度も指摘されている。
本人がどれほど強くても、この世界の魔物や土地の常識は知らない。
「目的は食用可能な獲物の確認じゃ。グール系は食わず、決めた範囲と時間を越えぬ。《帰還石》を失わず、必ず固定前室まで戻る」
千代は残りの注意を記録の上で示した。
「狩り一つに条件が多すぎる」
「初回だからな」
俺が答える。
「二度目からは減るのか」
「結果次第」
「面倒だ」
「それも聞き飽きた」
「ならば条件を減らせ」
「聞き飽きたのは文句の方だよ」
ナーヴァが目を細めた。
それでも炎は出ない。
少し前なら、それだけで身構えていた。
今も怖くないわけではないが、毎回焼かれると思うほどではなくなってきた。
たぶん。
「私も行く」
装備を整えていたリゼが言った。
ナーヴァが即座に睨む。
「不要だ」
「初回だ」
「我一人で十分だ」
「戦えるかどうかの話ではない」
また同じやり取りだ。
「食用にしてはいけない個体、決めた時間、帰還経路。この世界を知らないお前一人へ、最初から全部任せるつもりはない」
「我の邪魔をするなら置いていく」
「邪魔になる場所へは出ない」
「ならば好きにせよ」
昨日より諦めるのが早い。
納得したというより、ここで言い争っても出発が遅れるだけだと理解したのだろう。
それも十分な変化だった。
「俺は《淫獄》に残る」
口にすると、少しだけ胃の辺りが重くなった。
本当は固定前室まで行きたい。
直接見送れば、少しは安心できる気がする。
だが、俺まで出れば、向こうで何かあった時に入口を開く者がいなくなる。
今回は、待つのが俺の仕事だ。
「帰還は決めた手順どおりに」
俺が言うと、リゼが頷いた。
「入口が開くまでに敵が来れば?」
ナーヴァが尋ねた。
「リゼの判断で動く。前室を守れないなら、無理にその場へ残らなくていい」
「入口は?」
「一度閉じる。状況を見て、もう一度戻って反応を送ってくれ」
「使いにくい」
「安全が自動で分かる道具じゃないからな」
俺だって、もっと便利なら助かる。
けれど《帰還石》にできるのは、帰ってきたことを知らせるところまでだ。
その先は、俺たちが判断しなければならない。
「それと、食べられそうな獲物がいなかったら帰ってこいよ」
「我に命じるか」
「お願い」
ナーヴァが黙った。
やがて、わずかに顔をそらす。
「……面倒な男だ」
拒否はしなかった。
◇
これまでの記録を参考に、巡回者が来る可能性の低そうな時間を選んだ。
絶対に来ないとは言えない。
記録した回数が少なすぎる。
だから接続前にも気配を探り、短時間だけ入口を開く。
冷たい空気が《淫獄》へ流れ込んだ。
向こうに見えるのは石造りの固定前室。
人影はない。
物音もない。
リゼが先に入り、周囲を確認する。
続いてナーヴァが入口の前へ立った。
「帰還石」
俺が言う。
「持っている」
「見せて」
「子供扱いするな!」
怒りながらも、ナーヴァは腰元から赤黒い小石を取り出した。
昨日、本人が選んだ物。
確かに持っている。
「なくさないでくれよ」
「しつこいほど聞いた!」
「ならいい」
ナーヴァが石をしまい直す。
「食えそうなのがいなくても、時間になったら帰ってきてくれ」
「聞いた」
「グールは食べるなよ」
「聞いた!」
「変な物も持ち帰らない」
「夜斗」
低い声で名前を呼ばれた気がした。
だが、次の瞬間にはナーヴァが牙を見せる。
「これ以上言うなら、貴様をここへ引きずり出すぞ」
聞き間違いだったらしい。
たぶん「王」と言ったのだろう。
「なら……」
「……行ってらっしゃい」
ナーヴァは何も答えず、入口を越えた。
リゼと二人で奥の境界へ向かう。
背中が見えなくなる直前、リゼだけが振り返った。
「時間までには戻る」
「ああ」
俺は入口を閉じた。
石造りの前室が消える。
いつもの《淫獄》の壁が戻ってきた。
二人の姿も、地下の音も、何も届かない。
待つ時間が始まった。
◇
最初のうちは、普通に過ごせた。
ファステが朝食の片づけをする。
レイナは昨日洗った布の状態を確認している。
千代は出発時刻と予定帰還時刻を記録した。
ヴィオラは椅子へ座り、コインを指の間で転がしている。
縁は部屋の隅で丸くなっていた。
全員、普段どおりだ。
俺も何かしていた方がいい。
そう思って、共用棚の整理を始めた。
一段目。
生活用品。
二段目。
外出用品。
帰還石は、それぞれを見分けられるように置き方を変えた方がいいかもしれない。
作れる数に限りがないなら、外出する住民全員へ専用品を作ってもいい。
同時に反応した時の識別はまだ分からない。
壊れた時の挙動も不明。
試すことは多い。
考えている間はよかった。
それでも、予定時間が近づくにつれて、手が止まる。
表示は出ない。
「まだ時間前だよ」
ヴィオラがコインを弾きながら言った。
「分かってる」
「さっきから同じ棚を三回見てるけど」
「確認してるだけ」
「何を?」
「置き方」
「三回変えた?」
「……変えてない」
ヴィオラが笑った。
「心配なんだ」
「そりゃするだろ」
「ナーヴァが?」
「リゼも」
「ナーヴァも?」
「するよ」
答えると、自分でも少し変な気がした。
昨日まで敵だった。
今朝まで、休戦中の相手だった。
命令には従わない。
いつでも俺たちを置いていける。
それでも、送り出した以上は無事に帰ってきてほしい。
「任せたけど、心配するなとは言ってないからな」
「誰も言っておらぬ」
千代が記録から顔を上げる。
「ゆえに待て」
「簡単に言うなよ」
「簡単ではないから、そなたの役割なのじゃ」
前にも似たことを言われた。
リゼとヴィオラが街へ行った時。
ファステたちが水を汲みに出た時。
待って、帰還反応を受け、入口を開けた。
今度も同じだ。
違うのは、待っている相手が戦場を焼き尽くした竜だということくらい。
……違いが大きすぎる。
予定していた帰還時間に入った。
まだ反応はない。
「遅れているわけではありませんわ」
レイナが言った。
「帰還時間には幅を持たせていますもの」
「分かってる」
「顔が分かっていませんわ」
「どんな顔?」
「今すぐ入口を開けそうな顔です」
開けたい。
けれど、どこへ開いても二人を迎えられるわけではない。
前室まで戻ってこなければ意味がない。
俺が先に開いたところで、向こう側に巡回者がいれば、こちらの存在まで知られる。
待つしかない。
決めた時間を守る。
本人たちが戻ると決めたことを、信じる。
縁が起き上がり、俺の近くまで来た。
足へ身体を寄せ、そのまま座る。
「俺、そんなに落ち着きない?」
縁は答えない。
ただ、尻尾を足元へ丸めた。
「ございます」
ファステが代わりに答えた。
「縁に聞いたんだけど」
「失礼いたしました」
全然悪いと思っていない顔だった。
その時。
視界の端に、表示が浮かんだ。
『外界接続地点:一――帰還反応』
「来た!」
立ち上がる。
縁が少し驚いて離れた。
「あ、ごめん」
縁へ謝ってから、もう一度表示を見る。
反応元は、赤黒い小石。
ナーヴァ専用の《帰還石》。
間違いない。
「二人が前室へ戻った」
「すぐ開ける?」
ヴィオラが尋ねる。
俺は接続地点を選びかけた手を止めた。
「待つ」
帰還反応は安全の証明ではない。
決めた時間を置く。
向こうでは今、リゼが周囲を確認しているはずだ。
ナーヴァも、自分の身体や装備へ何が付いているか見ているはず。
少なくとも、そう決めた。
一つ。
二つ。
ゆっくり数える。
普段なら短い時間なのに、今は妙に長い。
「そろそろじゃ」
千代の声を聞き、俺は《淫獄》の入口を開いた。
◇
冷たい空気。
石造りの前室。
最初に見えたのは、リゼだった。
立っている。
負傷している様子はない。
その横に、ナーヴァがいた。
人型のまま。
赤黒い髪も、金色の目も変わらない。
ただし片腕と服の一部に、暗い血が付いている。
床には何も置かれていない。
死骸も、肉も、見慣れない物も持ち込んでいない。
「……おかえり」
俺が言う。
リゼが短くうなずいた。
「戻った」
ナーヴァも答えた。
それだけだった。
ただいまとは言わない。
笑いもしない。
それでも、確かに自分で戻ってきた。
「周囲は?」
「人の気配はない」
「追跡もない。奥から来る個体も、今は確認できぬ」
ナーヴァが付け加える。
言われたことを、ちゃんと確認している。
俺は二人を中へ入れ、すぐ入口を閉じた。
「怪我は?」
「ない」
リゼが答える。
「我にもない」
ナーヴァは不満そうに言った。
「その血は?」
「獲物の物だ」
「じゃあ土間へ」
「我は汚れてなど――」
「血が付いてる」
「この程度」
「家へ持ち込まないって決めたよな」
ナーヴァが言葉を止める。
少しだけ睨まれた。
だが、彼女は共用部屋へ進まず、自分から土間側へ向かった。
「洗えばよいのだろう」
「助かる」
「礼を言うほどのことか」
「言われたことを守って帰ってきたから」
「当然だ」
当然。
ナーヴァはそう言った。
昨日まで、俺の言葉など命令するなと跳ね返していた女が。
自分で決めた条件だから、守るのが当然だと言った。
◇
付着していたのは別の生物の血だけだった。決めた手順で洗浄し、使った水と布は生活用品から隔離した。
問題が、また少し増えた。
「それで、何があった?」
最低限の洗浄を終え、ナーヴァの体調確認を始めてから、俺は尋ねた。
説明したのは主にリゼだった。
「最初に見つけたのはグール系だ」
「何体?」
「一体」
「食っておらぬ」
ナーヴァが先に言った。
「聞く前に答えた」
「何度も言われたからな」
襲ってきた個体は、ナーヴァが人型のまま倒したらしい。
ブレスは使っていない。
周囲を焼いてもいない。
「どうやって?」
「腕を払っただけだ」
ナーヴァが答える。
俺はリゼを見る。
「本当だ。爪で頭部を断った」
「腕を払っただけで?」
「柔らかかった」
グールが弱いのか。
ナーヴァが規格外なのか。
たぶん後者だ。
「炎だけではない。速さも力も、私とは比べられない」
リゼが淡々と言う。
悔しそうには見えない。
むしろ相手の能力を正確に把握しようとしている顔だった。
「そのあと、ナーヴァは奥へ進もうとした」
「食える物がいなかったからだ」
「決めた範囲までは進んでいない」
「進もうとはした」
「進んでおらぬ」
「言い方の問題だろ、それ」
ともかく、リゼが止めると、ナーヴァは境界を越えなかった。
そのまま帰還する予定だった。
だが、戻る途中で、別の音を聞いた。
グールが足を引きずる音とは違う。
重い足音。
四本足。
大きな身体。
腐敗しておらず、明らかに肉体を持つ獣型の魔物。
正式な名前は分からない。
「角が二本。背は我の人型より高い。牙があり、皮は厚い」
ナーヴァが補足する。
「それ、向こうから襲ってきたの?」
「ああ」
「どうやって倒した?」
「首を折った」
「……それだけ?」
「他に何が要る」
リゼが説明を継ぐ。
獣型の魔物が突進してきた。
ナーヴァは避けず、片手で角をつかんだ。
勢いを止め、そのまま首をひねった。
壁も床も壊していない。
帰路も塞いでいない。
必要な相手だけを、必要な力で倒した。
「破壊神って呼ばれてた割に、加減できるんだな」
「我を何だと思っている」
「何でも焼く竜」
空気が少し熱くなる。
「昨日の誤解をいつまで引きずるつもりだ!」
「まだ二日しか経ってないんだよ!」
むしろ忘れる方が難しい。
「食べたのは?」
ファステが尋ねた。
「ほんの小片だ」
リゼが指で大きさを示す。
本当に一口にも満たない。
「肉に腐敗臭はなかった。血の色も、少なくともグールとは違う。ナーヴァが匂いを確認してから試した」
「我の身体なら、あの程度で死にはせぬ」
「死ななくても、体調を崩す可能性はあります」
ファステが真剣な顔で言う。
「しばらく様子を見させてください」
「腹が減っている以外に異常はない」
「その空腹が普段と違うかどうかも教えてください」
「空腹は空腹だ」
「痛みや吐き気は?」
「ない」
「熱は」
「我の身体は元から熱い」
確認しにくい。
レイナが少し離れたところからナーヴァを観察する。
「皮膚の色に変化はありませんわね」
「鱗も変色しておらぬ」
千代が記録へ書き込む。
ナーヴァは不満そうだったが、逃げはしなかった。
「それで、獲物の残りは?」
俺が尋ねる。
「置いてきた」
リゼが答えた。
「時間が近かった。ナーヴァは食べたがったが、試食だけで切り上げた」
全員の視線が、ナーヴァへ集まる。
「何だ」
「ちゃんと帰ったんだな」
「今ここにいるだろう」
「いや、そうだけど」
ナーヴァには、リゼを無視して狩りを続ける力がある。
もっと奥へ進めた。
《帰還石》を捨てることもできた。
戻らないという選択肢もあった。
目の前には、腹を満たせるかもしれない大量の肉があった。
それでも、決めた時間を優先した。
「時間だと言ったら、獲物を見て少し迷った」
リゼが言う。
「余計なことを言うな」
「それでも最後は、自分から『次にする』と言った」
「……当然の判断だ」
ナーヴァは顔をそらした。
「我は飢えて判断を失うほど弱くない」
その言葉は、たぶん本当だ。
ただ、昨日までの俺たちは、それすら知らなかった。
「一つ、問題がある」
千代が記録から顔を上げる。
「残した死骸じゃ」
「食べなかったのは正しかったんじゃないの?」
「食わぬことと、放置してよいことは別じゃ」
血の臭いでグールや別の魔物が集まるかもしれない。
巡回者が内部まで確認すれば、何者かが入った痕跡として見つかる可能性もある。
一撃で折られた首。
食いちぎられた小片。
人間の探索者が残す痕跡とは違って見えるかもしれない。
「食料を見つけても、痕跡の処理まで必要なのか」
「勝手に使ってよい場所か分からぬ以上はな」
「……また面倒が増えた」
「我がすべて食えば残らぬ」
ナーヴァが言う。
確かに。
食べられると確認できれば、次からは死骸が残らない可能性が高い。
ただし、骨や角まで全部食べるのかは知らない。
「何を見る」
「骨は?」
「食える」
「角は?」
「食えぬことはない」
「本当に何でも食うな」
「グールは食うなと言うから残したのだろう」
「それは助かった」
次回までナーヴァの体調に異常がなければ、あの大型魔獣を食用候補にできる。
だが、安全が確定したわけではない。
入口の利用規則も分からない。
巡回者に痕跡を見つけられる危険もある。
食料問題は、まだ解決していなかった。
ただ、解決できる可能性だけは見つかった。
◇
「そういえば」
一通りの報告が終わってから、俺は気づいた。
「休戦って、今日までだったよな」
部屋が静かになった。
召喚された直後。
ナーヴァは俺たちを敵だと思い、焼こうとした。
その後、一日だけ話をすると決めた。
食料問題と帰還手順の確認が終わるまで、休戦は延びていた。
初狩り。
帰還確認。
予定していたことは、今日で終わった。
ナーヴァが俺を見る。
「そうだな」
「……また焼く?」
ファステたちが身構える。
リゼの手も、すぐ届く位置にある武器へ動いた。
勝てるからではない。
何かあれば、少しでも時間を稼ぐためだ。
ナーヴァは、その全員を順番に見た。
最後に俺へ視線を戻す。
「今は、その必要がない」
「今は?」
「先のことまで我へ約束させる気か」
「いや」
それで十分だった。
休戦は終わった。
だからといって、敵対を再開する必要はない。
ナーヴァは俺へ従わない。
仲間になったとも言わない。
忠誠など、当然ない。
それでも、今すぐ殺し合う相手ではなくなった。
「なら、これからもよろしく」
「軽いな」
「じゃあ、何て言えばいいんだよ」
「知らぬ」
「ナーヴァにも分からないことあるんだな」
「焼くぞ」
「必要ないって言った直後!」
ヴィオラが笑い、張りつめていた空気が少し緩んだ。
ナーヴァは不機嫌そうに顔をそらす。
その拍子に、腰へ付けた赤黒い石が見えた。
ちゃんと持ち帰った。
それを捨てずに。
決めた時間を守って。
自分の意思で、ここへ戻ってきた。
「夜斗」
不意に呼ばれた。
俺はナーヴァを見る。
「何だ」
「いや。今、名前で呼んだ?」
「呼んではならぬのか」
「そうじゃないけど」
これまでずっと「王」か「貴様」だった。
初めて、普通に名前を呼ばれた。
「ならば黙れ。腹が減った」
「結局それか」
「小片しか食っておらぬ!」
胸の奥に、妙な熱が生まれた。
圧倒的に強く。
俺の命令など、いつでも無視できる女。
帰らない自由もあった。
狩りを続ける力もあった。
それでも、自分で決めた条件を守った。
俺のいる場所へ戻り。
初めて名前を呼んだ。
戦場を焼き尽くした竜が、誰かに従わされたのではなく、自分でここを選んだ。
その事実が、安心とは違う形で俺の欲望へ刺さった。
『《淫獄石》を480個獲得しました』
『所持《淫獄石》:480』
「……何だ、その表示は」
ナーヴァが目を細める。
「気にしないで」
「今、明らかに我を見て何か増えたぞ」
「気にした方がいいかもね」
ヴィオラが横から言う。
「言うな」
「説明せよ」
「できない」
「なぜだ」
「俺の尊厳のために」
「意味が分からぬ!」
できれば、そのまま分からないでいてほしい。
◇
その夜も、ナーヴァの腹は満たされなかった。
体調に異常が出る可能性を考え、追加の食事も普段の物だけにした。
ファステが用意できる範囲で少し増やしたが、足りるはずはない。
「明日までに異常がなければ、あの獲物を食用候補にできます」
ファステが説明する。
「候補ではなく食料だ」
「まだ候補です」
普段なら引き下がりそうなファステが、ここは譲らなかった。
「身体の変化や痛みがあれば、すぐに教えてください」
「何もない」
「今夜の間に出るかもしれません」
「我は竜だぞ」
「存じています」
「ならば」
「それでも、私たちはこの世界の魔物をよく知りません」
ファステが静かに言う。
ナーヴァはしばらく彼女を見たあと、小さく鼻を鳴らした。
「分かった。異常があれば言う」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「では、明日の朝にも確認します」
「……好きにせよ」
少しずつ。
本当に少しずつだが、話が通じるようになっている。
「次は全部食う」
ナーヴァが宣言する。
「体調に問題がなかったらな」
俺が付け加える。
「また貴様か」
「夜斗って呼んだだろ」
「一度呼んだから何だ」
「いや、別に」
「細かい男だ」
「はいはい」
今度は俺も軽く返した。
ナーヴァが目を細める。
それでも炎は出なかった。
狩りに成功した。
食料にできるかもしれない獲物を見つけた。
だが、それ以上に大きかったのは、ナーヴァが帰ってきたことだった。
帰れと強制したわけではない。
戻らなければ罰すると言ったわけでもない。
あの竜は、自分で狩りを切り上げた。
自分で前室まで戻った。
自分で《帰還石》を反応させた。
そして、俺が開いた入口を自分で越えた。
ちゃんと帰ってきた。
今は、それで十分だった。




