第83話 食わせられないし、出すのも怖い
朝。
共用部屋へ入った瞬間、空気が重いことに気づいた。
原因は、部屋の中央に座っている女だ。
赤黒い髪。
金色の瞳。
額から伸びる角。
人の姿を取っていても、ナーヴァが人間ではないことは一目で分かる。
昨日、巨大な竜の姿で召喚され、俺たち全員を焼き殺しかけた女。
その本人が、今は食卓の前で腕を組んでいる。
そして、並べられた食事を睨んでいた。
「……少ない」
開口一番、それだった。
予想はしていた。
昨日の時点で、ナーヴァは大型の獣を数体、一度に食べると言っていた。
俺たちが普段食べている量で足りるはずがない。
分かってはいた。
分かってはいたが。
「これでも、昨日より多いんだけどな」
俺の言葉に、ファステが申し訳なさそうに頭を下げた。
「今ある食料の中で、可能な限り増やしました。ただ……」
ナーヴァの前には、俺たちの倍以上の量が置かれている。
肉と呼べる物は少ない。
採取した実や根。
焼いた物。
煮た物。
昨日までに確保していた携行食の一部まで並んでいる。
それでも、ナーヴァにとっては一口分なのかもしれない。
「これが可能な限りか」
「今日だけでしたら、もう少し増やせます」
ファステは答えた。
「ですが、それを続ければ、数日で皆様の分がなくなります」
ナーヴァの視線が、俺たちの前に並ぶ食事へ動いた。
その目が細くなる。
俺は反射的に身構えた。
昨日のブレスが頭をよぎる。
空気が引かれた直後、視界を埋め尽くした炎。
《淫獄》が防いでくれなければ、俺たちは誰一人残っていなかった。
もしナーヴァが、足りないなら奪うと考えたら。
今の俺たちに止められるのか。
「これを我へ寄越せば、どれほど増える」
ナーヴァが俺たちの食事を見たまま尋ねた。
「全員分を合わせても、ナーヴァが満足するほどにはならないと思う」
ファステが正直に答える。
「ならば要らぬ」
ナーヴァはあっさりと視線を戻した。
「え?」
思わず声が出た。
金色の瞳が俺を向く。
「何だ」
「いや。食べるって言うかと思った」
「足りぬ物を奪い合って、何になる」
ナーヴァは鼻を鳴らした。
「我の腹が満ちぬまま、貴様らまで動けなくなるだけだろう」
「意外とまともだね」
ヴィオラが言った。
「貴様は我を何だと思っている」
「昨日いきなり焼いてきた竜」
「敵陣だと思ったと言ったはずだ」
「敵だったら、食料を奪うの?」
「焼いた敵の食料が無事に残ると思うか?」
「それは確かに」
納得するところではない気がする。
だが少なくとも、空腹だから俺たちの分まで食べるつもりはないらしい。
ファステが、ナーヴァの前へ器を少し押した。
「十分ではありませんが、まずはこちらを」
「謝るな」
「……はい?」
「足りぬのは、貴様の責任ではなかろう」
ファステが目を瞬いた。
ナーヴァは不機嫌そうに食事を手に取る。
「我の分を増やすために、他の者の口へ入る物を減らす必要もない」
「ですが、ナーヴァ様は――」
「様は要らぬ」
「では、ナーヴァさん」
一瞬、ナーヴァの眉が動いた。
しかし訂正はしなかった。
ファステもそれ以上は食い下がらず、自分の席へ戻る。
俺はナーヴァを見た。
乱暴で。
偉そうで。
昨日は俺たちを焼こうとした。
けれど、何でも自分のものにする奴ではないらしい。
よく分からない。
「何を見ている」
「食べないのかなって」
「食う」
ナーヴァはそう言って、ようやく最初の一口を口へ運んだ。
◇
当然ながら、食事はすぐに終わった。
俺たちが半分も食べ終わらないうちに、ナーヴァの器は空になっている。
「……腹の足しにもならぬ」
「だよな」
分かっていた。
分かっていたが、実際に見ると絶望感が増す。
俺たち六人分の食料を揃えるだけでも、それなりに手間がかかっている。
採取。
保存。
調理。
街で稼いだ金も、まだ余裕があるわけではない。
そこへ大型の獣を数体、一度に食べる竜が追加された。
「URって、維持費も高いのか……」
「何の話だ」
「こっちの話」
ナーヴァが目を細める。
俺は視線をそらした。
ガチャで引いた以上、呼び出したのは俺だ。
けれど、引いた結果が空腹で倒れそうになっている。
さすがに笑えない。
「食料庫を見せて」
ナーヴァが言った。
「何で?」
「本当にないのか確かめる」
室内の空気が少し固くなる。
疑われている。
俺たちが食料を隠し、意図的にナーヴァを飢えさせている可能性を考えているのだろう。
腹は立たなかった。
昨日まで戦場にいたナーヴァからすれば、俺たちは正体の分からない連中だ。
俺だって逆の立場なら疑う。
「いいよ」
「夜斗」
リゼが俺を見る。
「見せても困らないだろ」
「それはそうだが」
「隠してると思われたままの方が面倒だ」
千代が小さくうなずいた。
「見せられる物だけ見せるのでは、かえって疑われよう。備蓄の場所と量を、そのまま確認させればよい」
「場所まで知られて大丈夫?」
ヴィオラが尋ねる。
「この家の中で隠しても仕方ないだろ」
昨日のブレスを考えれば、食料庫の扉くらい何の障害にもならない。
それに、ナーヴァが本気で奪うつもりなら、とっくに動いている。
「案内する」
俺が立ち上がると、ナーヴァも席を離れた。
食料庫と呼んでいる場所は、共用部屋の奥にある小さな保管区画だ。
棚には、乾燥させた実や根。
携行食。
わずかな塩。
街で購入した物。
水の入った容器。
どれも整理されているが、量は多くない。
ファステが普段使う分と、非常時に残す分を分けている。
ナーヴァは何も言わず、一つずつ見ていった。
棚の奥まで。
容器の中まで。
最後に、俺たちの顔を見る。
「……本当にないのだな」
「だから言っただろ」
「王の領域にしては、貧しすぎる」
「俺もそう思う」
否定できない。
ナーヴァはもう一度、棚へ目を向けた。
「兵糧もなく、蓄えもなく、よくこれだけの者を抱えたものだ」
「抱えたっていうか、来たというか」
「同じことだ」
「違うと思う」
少なくとも、俺の中では違う。
俺が養ってやっているわけではない。
全員で食料を集め、全員で生活を回している。
今では、俺が何もしなくても家が回る日すらある。
……それは少し情けない気もするが。
「これで我まで養えるとは思えぬ」
「うん」
「即答するな」
「できないものを、できるとは言えないだろ」
ナーヴァの目が険しくなる。
俺は続けた。
「だから、どうするかを考えてる」
「我を飢えさせたままか」
「それも嫌だ」
「では、どうする」
答えはまだない。
それでも、何も考えずに外へ出すわけにはいかなかった。
「まず、勝手に外へ行くのは待ってほしい」
低い音が、ナーヴァの喉から漏れた。
「我へ命令するか」
「命令じゃない」
「同じだ」
「違う。外がどうなってるか分からないまま出たら、困るのはナーヴァだけじゃない」
「我が、外の獣ごときに後れを取ると思うか」
「強いかどうかの話じゃない」
リゼが横から口を挟んだ。
ナーヴァの視線が移る。
「この辺りの地形を知っているか」
「知らぬ」
「毒を持つ生物は」
「知らぬ」
「人が管理している土地と、自由に狩っていい場所の区別は」
「知らぬ」
「近くに街がある。家畜や誰かの所有物を獲物と間違えれば、人間が動く」
「動けば焼く」
「それをするなと言っている」
リゼの声は静かだった。
ナーヴァの瞳に険が増す。
だが、リゼは目をそらさない。
「お前が強いことは疑っていない。だが、この世界を知らないことも事実だ」
「知らぬならば、見ればよい」
「その姿で?」
ヴィオラがナーヴァの角を指した。
「今は人に見えるけど、その角と目は目立つよ。それに、竜の姿になったらもっと目立つ」
「見た者を消せばよい」
「だから、それをされると困るんだって」
俺が言うと、ナーヴァがこちらを睨んだ。
「我を閉じ込めるつもりか」
「違う」
「ならば出せ」
「安全に出て、安全に戻れる準備ができたら」
「我は貴様に従っておらぬ」
「従ってるかどうかは関係ないだろ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
ナーヴァも黙る。
「俺が呼んだんだから、出すなら帰ってこられるようにするのは俺の仕事だ」
「……我は帰還を望んでおらぬ」
「元の世界に帰れるなら、その方法は探す。でも、外へ出たあと、この《淫獄》へ戻るかどうかは別の話だ」
「戻らぬと言えば?」
「それはナーヴァが決めればいい」
「ならば、なぜ帰路を用意する」
「戻りたくなった時に、戻れないのは困るだろ」
ナーヴァの眉間に皺が寄った。
理解できないものを見る顔だった。
「王とは、従える者に命じるものだ」
「俺はそういうの苦手なんだよ」
「苦手で済ませる話か」
「俺もそう思う」
千代がため息をついた。
「胸を張るところではないぞ」
「張ってない」
「だが」
千代はナーヴァへ向き直った。
「こやつがそなたを外へ出さぬのは、閉じ込めて支配するためではない。少なくとも、今のところはな」
「今のところ、を付けるのか」
「未来のすべてを断言する者など信用できぬ」
ナーヴァが千代を見た。
しばらく、二人の視線がぶつかる。
先に目をそらしたのは、どちらでもなかった。
ナーヴァが俺へ視線を戻しただけだ。
「……面倒だ」
「それは俺も思ってる」
「貴様が言うな」
◇
共用部屋へ戻り、外へ出す条件を整理することになった。
ただし、普通に森へ放つ案はすぐに消えた。
どこまで飛ぶか分からない。
何を獲物と判断するかも分からない。
人に見られる可能性も高い。
何より、ナーヴァ本人がこの世界の常識を知らない。
「では、地下はどうじゃ」
千代が簡易図を広げた。
街とは反対方向にある、管理された地下入口。
固定された石段と前室。
その先にある、接続先が変わる領域。
現在はグール系の個体がいるらしい。
「地下?」
ナーヴァが図を見る。
「外とは別の領域へつながってる場所がある」
俺が説明する。
「中には魔物がいる。今つながってる場所には、グールっていうのがいるらしい」
「食えるのか」
「食べるな」
全員の声が重なった。
ナーヴァが顔を上げる。
「なぜだ」
「汚いから」
ヴィオラが即答した。
「それだけではない」
レイナが嫌そうに眉を寄せる。
「どのような病気や毒を持っているか分かりませんの。倒した個体へ触れただけでも、後始末が大変でしたわ」
「腐肉を食う種なら、我は食ったことがある」
「腐ってるだけならまだいいんだけどな」
俺たちは、グールについて詳しく知らない。
人だったものなのか。
別の生物なのか。
体液に毒があるのか。
何かが感染するのか。
判断できない以上、ナーヴァの腹が減っていても食べさせるわけにはいかない。
「少なくとも、今確認している個体は食料にしない」
俺は念を押した。
「ならば狩り場にならぬではないか」
「今のところはな」
リゼが図の奥を指す。
「私たちが確認した範囲は狭い。それより奥に、別の生物がいる可能性はある」
「食用にできるかは、まだ分からないけどね」
ヴィオラが続ける。
「だから、すぐ狩る場所じゃない。狩れる物がいるか確かめる候補」
「ずいぶん頼りない候補だな」
ナーヴァの評価は正しい。
しかも、問題はそれだけではない。
「入口は誰かに管理されてる」
俺は言った。
「近くに標識があって、巡回者も来る。勝手に入っていいのかも分からない」
「では、使えぬ」
「今すぐはな」
「話が進まぬではないか」
「安全に進めるための話をしてるんだよ」
ナーヴァは苛立たしそうに指先で床を叩いた。
人の姿でも、その小さな動きだけで圧を感じる。
「貴様らは、何をするにも遅い」
「昨日まで一体も増やせなかった食料を、今日いきなり大型の獣数体分にする方が無理なんだ」
「ならば我が取ってくる」
「だから、戻る方法を確認してから」
同じところを回っている。
俺は共用棚から、小さな石を取り出した。
《帰還目印》。
今のところ、共用の一つしかない。
「何だ、それは」
「外へ出た住民が、接続地点の近くまで戻ったことを俺へ知らせる道具」
「石が?」
「持ってるだけじゃ駄目だ。登録された住民が持って、決めた範囲へ入ると、俺に反応が来る」
「それで我を連れ戻すのか」
「連れ戻さない。俺が《淫獄》の入口を開くか判断できるだけだ」
「我の場所は分かるのか」
「分からない」
「話せるのか」
「話せない」
「危険かどうかは」
「分からない」
「役に立たぬではないか」
「呼び鈴だからな。鍵じゃない」
ナーヴァは露骨に呆れた顔をした。
俺だって、最初に知った時は似たような感想を持った。
それでも、あるのとないのとでは全く違う。
「明日、ナーヴァが持っても反応するか試す」
「我も住民として登録されたのだろう」
「そう表示された。でも、実際に試してないことを前提にはしたくない」
「疑り深いのか、臆病なのか」
「両方」
「なぜ認める」
「否定しても安全にならないから」
ナーヴァが黙った。
次に、リゼが地下入口までの経路と、巡回者を避ける手順を確認する。
ナーヴァは入口周辺で竜の姿にならない。変動領域では《淫獄》を開けないため、奥へ入った場合は自力で固定前室まで戻る。
「前室まで戻れば、その石で知らせられるのか」
「たぶん。でも、それも試す必要がある」
「我が持って反応するか。前室で反応するか。二つか」
「あと、向こう側に誰かいた時は、すぐ開けられない」
「我を待たせるつもりか」
「人を連れて帰ってこられる方が困る」
「ならば焼けば――」
「焼かない」
「面倒だ」
「もう何回目だよ、それ」
ヴィオラが指を折る。
「今日だけで四回くらい?」
「数えるな」
「トラブルを数えるより少ないね」
「誰がトラブルだ」
「まだ言ってないよ」
ナーヴァの周囲の空気が熱を帯びた。
ヴィオラが素早く俺の後ろへ回る。
「俺を盾にするな」
「炎はそっちで消えるでしょ?」
「まだ一回しか確認してない!」
「騒ぐな」
リゼの一言で、ひとまず全員が黙った。
ナーヴァだけが不満そうだった。
◇
その日の外出はしなかった。
準備が足りない。
帰還目印がナーヴァに使えるかも分からない。
地下入口の利用規則も不明なまま。
食べられる獲物がいる保証すらない。
それでも、何もしないわけにはいかなかった。
ファステが残っている食料を確認し、夕食でナーヴァへ回せる量を計算した。
レイナは、ナーヴァの人型時の服装を見て、外へ出る際に目立ちすぎないよう何を隠せるかを考えた。
角は簡単には隠れない。
髪型だけでどうにかなる問題でもない。
リゼは、地下でナーヴァが前へ出た場合の距離を図へ書き込んでいる。
俺たちはナーヴァの戦い方を知らない。
ブレス以外に何ができるのか。
人型でどこまで戦えるのか。
周囲への被害をどこまで抑えられるのか。
何一つ確認できていない。
千代は、確認項目を増やしすぎる俺たちを見て、優先順位を付け直した。
「明日すべてを確かめる必要はない」
「でも、食料は待ってくれないぞ」
「ゆえに最初は、帰還目印が機能するか。それだけでよい」
「地下へも行かぬのか」
ナーヴァが不満そうに言う。
「使えぬ物を持たせて送り出すほど愚かではない」
千代は即答した。
「まず第二接続地点で確認する。そこで使えると分かってから、地下入口での運用を考える」
「明日も食えぬではないか」
「今日よりは少し増やせます」
ファステが言った。
手には、小さな器がある。
残していた携行食の一部だ。
「ですが、これ以上は続けられません。申し訳――」
「謝るなと言った」
ナーヴァの声が重なった。
ファステが言葉を止める。
ナーヴァは器を受け取った。
「ない物を出せとは言わぬ」
「……はい」
「明日、我が取る」
「明日は確認してから」
俺が訂正する。
ナーヴァがこちらを睨んだ。
「確認が済めば狩る」
「狩れる場所が見つかればな」
「見つける」
「食べられる相手かも確認する」
「我に毒など効かぬ」
「その言葉もまだ確認できてない」
「貴様は我を何だと思っている」
「昨日来たばかりの、よく知らない竜」
ナーヴァの目が細くなった。
やばい。
言い方を間違えたかもしれない。
けれど、炎は来なかった。
ナーヴァは小さく息を吐き、受け取った携行食を口へ運んだ。
「……面倒な王だ」
「それはもう聞いた」
「だが」
ナーヴァは俺ではなく、机の上の《帰還石》を見た。
それから、ファステが整理した食料の記録。
リゼが書き込んだ経路。
千代の確認項目。
レイナが用意しようとしている布。
最後に、もう一度俺を見る。
「理解不能ではなくなった」
褒められた気はしなかった。
それでも昨日よりは、少しだけましだった。
食わせられない。
外へ出すのも怖い。
狩り場の候補すら、本当に使えるか分からない。
問題は何一つ解決していない。
ただ。
明日、最初に確かめることだけは決まった。
この竜が自分で獲物を探しに行くために。
そして、戻りたいと思った時には戻れるように。
まずは、石一つ分の帰り道からだった。




