第81話 URって、そういう意味じゃないだろ
朝から、全員が少し落ち着かなかった。
誰も早く召喚しろとは言わない。
ファステはいつもどおり朝食を用意している。
リゼは土間で装備を確認している。
レイナは共用部屋に出したままだった布を片づけている。
千代は昨日までの記録を見直している。
ヴィオラは自分のカップを指先で回していた。
ただ、全員がときどき俺を見る。
「で?」
最初に口を開いたのは、やはりヴィオラだった。
「何が」
「引かないの?」
「引くよ」
「いつ?」
「……今から」
「やっと言った」
昨日、あれだけ我慢した。
夜になってからも、何度も表示を確認した。
今朝起きて、数字が減っていないことも確認した。
『所持《淫獄石》:10,000』
『通常《住民召喚》を実行可能です』
もう待つ理由はない。
いや、待つと決めたのは俺だ。
全員が落ち着いている時に、きちんと新しい住民を迎えるため。
だから今度こそ、本当に引く。
「その前に、準備を終わらせるぞ」
リゼが立ち上がった。
「まだあるの?」
「昨日決めただろう」
召喚場所の周囲は、すでに片づけてある。
壊れやすい器は壁際から移動させた。
水と簡単な食事も用意した。
負傷者が来た場合に備えて、横になれる場所も空けている。
混乱して逃げようとした場合の通路も塞いでいない。
縁は召喚場所から離れたところにいる。
何が始まるのか分かっていないようで、ファステの近くに座っていた。
「武器は持つ」
リゼが剣の位置を確かめる。
「最初から敵扱いはしないぞ」
「敵扱いではない。何が来るか分からないだけだ」
「今まで、いきなり襲ってきた人はいなかっただろ」
「今までいなかったことは、次もいない保証にならん」
「正しいけど、不安になる言い方だな」
リゼは俺より召喚地点へ近い位置に立った。
俺を守れる距離。
同時に、召喚された相手を刺激しすぎない距離だ。
千代は全員の退避経路を確認する。
レイナは縁が通れる場所から物をどけた。
ファステは縁を抱こうとはせず、声で少し離れた場所へ誘導する。
ヴィオラだけは、妙に楽しそうだった。
「今度は何が来ると思う?」
「人」
「それは分かってる」
「俺には何も選べないんだから、考えても仕方ないだろ」
「考えるだけなら無料だよ」
「ガチャの前に無料って言葉を使うな。一万個が重く感じる」
改めて召喚表示を見る。
『通常《住民召喚》』
『必要《淫獄石》:10,000』
『実行可能』
「……本当に全部なくなるんだよな」
「今さら?」
ヴィオラが呆れる。
「一万だぞ」
「使うために貯めておったのではないか」
千代まで冷たい。
「使う直前になると惜しくなるんだよ」
「なら、やめるか?」
リゼに聞かれ、表示を見る。
一万個。
長かった。
いろいろなことがあった。
戦った。
逃げた。
街へ行った。
地下へ入った。
汚れた装備を洗った。
水を運んだ。
紅茶を飲んだ。
縁が家の中を自由に歩くようになった。
誰かへ石を稼ぐための行動を要求したわけではない。
みんなで暮らした結果として、ここまで貯まった。
「やめない」
「では、覚悟を決めよ」
「ガチャを引く時に覚悟って必要か?」
「何が来ても、意思を持った者を迎えるのであろう?」
千代の言葉に、少しだけ姿勢を正す。
召喚されるのは景品ではない。
俺たちに都合よく働く人でもない。
ここに残るとも限らない。
そのことは、セリナから教わった。
「……引くぞ」
表示へ意識を向ける。
『通常《住民召喚》を実行しますか?』
ほんの一瞬だけ迷い、それから実行を選んだ。
『《淫獄石》10,000個を消費します』
『所持《淫獄石》:0』
「消えた」
「当たり前じゃ」
千代の声が聞こえた。
それ以外は、静かだった。
いつもなら、ここから召喚の光が現れる。
そう思った次の瞬間。
空気が沈んだ。
「――っ」
重い。
身体そのものが、上から押し潰されるような感覚。
床が細かく震える。
壁際へ移動させた器が、触れてもいないのに鳴り始めた。
室内の温度が一気に上がる。
「下がれ!」
リゼが叫んだ。
召喚地点の中心に、赤黒い光が生まれていた。
光というより、炎そのものが空間の奥から染み出している。
火の粉が舞う。
床へ落ちても燃え移らない。
それでも熱は本物だった。
顔を向けているだけで、皮膚がひりつく。
「今回、派手じゃない?」
「俺もそう思ってる!」
ヴィオラへ答える声が裏返った。
縁が突然立ち上がった。
全身の毛が逆立つ。
耳を伏せ、身体を低くする。
これまで、《淫獄》の微細な変化へ反応した時とも違う。
明確に、目の前の何かを警戒している。
「縁、こちらへ」
ファステが呼ぶ。
抱き上げようとはしない。
縁が自分で動けるよう、召喚地点から離れた道を空ける。
レイナも近くの物をさらに壁側へ寄せた。
縁は数歩下がった。
だが、逃げ切らない。
俺たちの近くに留まり、赤黒い光を睨んでいた。
そして。
召喚地点の空間が歪んだ。
「……何だ、これ」
壁までの距離がおかしい。
さっきまで数歩だったはずの場所が、急に遠く見える。
家が広がったわけではない。
床も壁も変わっていない。
なのに、召喚地点の周囲だけが、別の広さを持ち始めていた。
奥行きのない場所へ、無理やり巨大な空間を重ねたような歪み。
《淫獄》全体が広がったのではない。
召喚される何かを収めるために、その周囲だけが現実の大きさを無視している。
赤黒い光の奥に、巨大な影が浮かんだ。
角。
翼。
長い首。
分厚い脚。
鋭い尾。
火と煙の向こうに、焼けた大地が一瞬だけ見えた。
次の瞬間、影がこちらへ踏み込んだ。
床が鳴った。
いや、鳴ったように感じただけかもしれない。
召喚地点の歪みの中から、巨大な竜が姿を現した。
赤黒い鱗。
炎を内側に閉じ込めたような深い色。
頭部から伸びる大きな角。
翼を完全に広げれば、この家など一瞬で覆い尽くせそうな巨体。
爪は一本一本が武器だった。
身体のあちこちに傷がある。
鱗には煤がこびり付き、乾いた血が残っている。
戦いの途中。
それも、かなり激しい戦場から来たことだけは、一目で分かった。
「……人じゃないじゃん」
ヴィオラが呟いた。
「俺だって聞いてない!」
召喚の光が弱くなる。
だが、巨大な竜を囲む空間の歪みは消えなかった。
共用部屋が広がったわけではない。
俺たちの立っている床も、壁の位置も変わっていない。
竜の周囲だけに、別の大きさが重ねられたままになっている。
何に反応しているのか。
いつまで続くのか。
同じことをもう一度起こせるのか。
何も分からない。
少なくとも今は、その歪みが巨体を押し潰さずに収めていた。
竜の目が開いた。
金色に近い鋭い瞳。
まず俺を見たわけではない。
周囲全部を、一瞬で確認していた。
壁。
入口。
人数。
リゼの剣。
千代。
ファステ。
レイナ。
ヴィオラ。
縁。
そして最後に、俺。
巨大な瞳が止まる。
熱が跳ね上がった。
「伏せろ!」
リゼの声。
竜が息を吸う。
その動作だけで、空気が引かれた。
「待――」
言い切れなかった。
音より先に、熱が来た。
竜の口内で赤黒い光が爆発する。
次の瞬間。
世界が炎で埋まった。
避けられない。
そう思う時間すらない。
リゼが俺の前へ出ようとする。
間に合わない。
ファステも、レイナも、千代も、ヴィオラも動いている。
だが、人間の動きより炎の方が圧倒的に速い。
食らえば死ぬ。
それだけは理解できた。
なのに。
炎は届かなかった。
俺たちの手前で、空間そのものが歪んだ。
壁が出たわけではない。
盾が受け止めたわけでもない。
巨大な竜炎だけが、その場所から先へ進めなくなった。
一瞬。
炎が空中へ固定された。
次いで、赤黒い火が細かくほどける。
光の粒となり、消えていく。
熱風だけが残った。
布が激しく揺れる。
器が鳴る。
髪が吹き上がる。
それでも。
誰も焼けていない。
床も壁も燃えていない。
「……え?」
自分の声だけが妙にはっきり聞こえた。
「今、止めた?」
ヴィオラが言う。
「俺じゃない」
「全員無事か!」
リゼの声で、全員が互いを確認する。
ファステ。
レイナ。
千代。
ヴィオラ。
負傷なし。
縁も離れた場所で低い姿勢を取っているが、炎は届いていない。
俺は何もしていない。
防ごうと意識する時間さえなかった。
《淫獄》が勝手に拒絶したようにしか見えなかった。
だが、竜からは違って見えたらしい。
巨大な瞳が細くなる。
明らかな動揺。
「……貴様」
低い声が、部屋全体を震わせた。
「喋れるんだ」
「今そこか!」
リゼに怒鳴られた。
竜の視線は俺だけを捉えている。
俺は避けていない。
防御動作もしていない。
炎は俺の前で消えた。
竜から見れば、俺自身が何事もなく無効化したようにしか見えないのだろう。
「違うからな」
「何がだ」
「今の、俺がやったんじゃない」
言いながら、何を否定しているのか自分でも分からなくなった。
竜の喉奥が再び赤く光る。
第二撃。
「待て待て待て!」
リゼが俺の前へ立つ。
「刺激するな!」
千代の声が飛ぶ。
ファステとレイナは縁と生活用品側へ移動する。
ヴィオラは逃げずに、竜の視線と呼吸を観察していた。
「召喚しただけだ!」
「何を言っている」
「俺にも説明が必要なんだよ!」
巨大な頭がわずかに動く。
意味が分からない、という顔に見えた。
たぶん当然だ。
向こうからすれば、戦場の途中で突然知らない閉鎖空間へ引きずり込まれた。
周囲には複数人。
目の前には自分の炎を止めた男。
敵陣と考えてもおかしくない。
「俺たちは、あんたと戦いたいわけじゃない」
「ならば、なぜ我をここへ引きずり込んだ」
「ガチャで――」
「夜斗」
千代に止められた。
「その言葉から説明しても通じぬ」
「じゃあ何から説明すればいいんだよ」
「まず、敵意がないことじゃ」
俺は両手を上げた。
武器はない。
最初から持っていない。
竜の目が動く。
俺。
リゼの剣。
ファステたち。
食卓。
水。
六つのカップ。
布。
縁。
どう見ても戦場ではない。
ただし、警戒が消える様子はない。
「ここはどこだ」
「《淫獄》」
一瞬。
「……知らぬ」
「俺も最近まで知らなかった」
「説明として最低だね」
ヴィオラが小声で言った。
「分かってる」
竜の巨大な瞳が俺へ向く。
「貴様は何者だ」
「黒瀬夜斗」
「名を聞いているのではない」
「ああ、立場?」
大学生。
異世界転移者。
ガチャ好き。
どれも今求められている答えではない。
「……《淫獄の王》らしい」
竜の目つきが変わった。
「王」
「自分で名乗り始めたわけじゃないからな」
「我が炎を消した王が、何を企んでいる」
「だから俺じゃない!」
反射的に否定した。
「でも夜斗の家が止めたなら、だいたい夜斗の力じゃない?」
ヴィオラが余計なことを言った。
「そういうこと言うな!」
竜の警戒がさらに強くなった気がする。
「少なくとも、俺は今の炎を止めようとして何かしたわけじゃない」
「無意識に防いだと?」
「もっと悪い方向に解釈された!」
その時。
遅れて表示が浮かんだ。
『通常《住民召喚》完了』
『召喚結果:UR』
『《戦場を焼き尽くした竜》』
『ナーヴィナル・ドラゴ・クァトリオム・ナーヴァ』
「……UR?」
「今そこを見るのか?」
リゼが剣を構えたまま言う。
「だってURだぞ」
「それが何かは知らんが、目の前を見ろ」
「見てる。見てるけど、UR……」
「当たり?」
ヴィオラが尋ねる。
巨大な竜は、いまだにこちらを焼ける姿勢を崩していない。
「当たりって言っていい状況か、これ?」
「何の話だ」
竜――ナーヴィナル・ドラゴ・クァトリオム・ナーヴァが低い声で聞いた。
「いや、こっちの話」
表示をもう一度見る。
UR。
これまでで最も高いレアリティ。
そして、その下にある二つ名。
「《戦場を焼き尽くした竜》……」
「貴様、何を見ている」
「もっと怖くなった」
「答えろ」
「俺にだけ見える表示があるんだよ。たぶん」
「たぶんで説明するな」
「分かってることが少ないんだよ!」
縁が低い声を漏らした。
ナーヴァの視線が、初めて俺から外れる。
壁際の縁を見る。
縁は毛を逆立て、耳を伏せたまま動かない。
ナーヴァの目がわずかに細くなった。
何かを感じたのか。
ただ警戒している小さな生き物を見ただけなのか。
どちらかは分からない。
ナーヴァはすぐ俺へ視線を戻した。
「リゼ」
「何だ」
「勝てそう?」
「今聞くことか?」
「重要だろ!」
リゼは巨大な竜から一瞬も目を離さない。
「少なくとも、まともに正面からやり合いたくはない」
「それ、かなり駄目なやつだよな」
「だから刺激するな」
グール三体を前にしても、リゼは退路を作った。
そのリゼが、目の前の竜には最初から正面戦闘を避けたいと言っている。
強さの差を詳しく聞く必要はなかった。
「今すぐ戦う理由は、互いにない」
千代が一歩だけ前へ出た。
「我をここへ連れ込んだ時点である」
「それについては説明する」
「元へ戻せ」
短い要求だった。
俺は答えられなかった。
「戻し方は?」
「……知らない」
竜の喉奥が、再び赤く光った。
「何?」
「俺が呼んだ。でも、元の場所へ返す方法は知らない」
「ふざけているのか」
「ふざけてない。だから困ってる」
「召喚の直前、どこにいた?」
千代が尋ねる。
ナーヴァは警戒したまま短く答えた。
「戦場だ」
「戦闘中だったのか?」
「敵を焼いていた」
「……やっぱり」
焼け焦げた鱗。
血。
炎。
召喚の向こうに見えた焼けた大地。
全部つながった。
この竜にとっては、戦場が突然消え、次の瞬間には見知らぬ王の領域にいたのだ。
「俺たちは敵じゃない」
「それを我に信じろと?」
「すぐ信じなくていい。こっちも、召喚された瞬間に焼き殺そうとしてきた相手をすぐ信用できない」
ナーヴァの目元がわずかに動いた。
「我が一撃を退けておいて、被害者の顔をするか」
「退けたのは俺じゃないって言ってるだろ」
「貴様の領域なのだろう?」
「そうだけど、俺がどこまでできるかは俺にも分からない」
「己の領域すら把握していない王がいるものか」
「ここにいるんだよ」
ナーヴァは黙った。
呆れたのか。
嘘だと思ったのか。
少なくとも、すぐに二発目を放つ様子は少し薄れた。
俺は両手を上げたまま言う。
「一つずつ説明する」
巨大な瞳が俺を見る。
「俺たちが分かってることだけ。分からないことは、分からないって言う」
「一つでも嘘をつけば、次は焼く」
「さっき焼けなかっただろ」
一瞬。
完全な沈黙が落ちた。
「夜斗!」
「夜斗様!」
「そなたはなぜ余計なことを言う!」
全員から声が飛んできた。
「ごめん!」
ナーヴァの喉奥に、また赤い光が灯る。
熱が増えた。
気のせいであってほしい。
それでも、炎は放たれなかった。
俺は召喚結果をもう一度見た。
UR。
《戦場を焼き尽くした竜》。
ナーヴィナル・ドラゴ・クァトリオム・ナーヴァ。
一万個。
待って。
我慢して。
ようやく引いた第六回。
その結果が――
召喚された瞬間に、巨大なドラゴンの姿で俺を焼き殺そうとする相手だった。
……URって、そういう意味じゃないだろ。




