第80話 あと800…
朝、目を覚まして最初に確認したのは、《淫獄石》の数だった。
『所持《淫獄石》:9,200』
あと八百。
昨夜から変わるはずがない。それでも、もう一度確認していた。
「また見てる」
すぐ近くから声がした。
「見てない。確認しただけ」
「同じじゃない?」
ヴィオラは呆れたように言いながら、俺の視線の先を覗き込んだ。
「あと八百だね」
「知ってる」
次の召喚まで、残り八百。今日届くかもしれないし、何日も増えないかもしれない。
「みんなに相談してみる?」
「何を?」
「どうしたら八百増えるか」
「しない」
即答した。
石を増やすために誰かへ何かをさせるつもりはない。
「ちゃんと我慢できるようになったね」
「我慢って言うな。最初から常識があったみたいに聞こえないだろ」
「最初からあった?」
「……今はある」
ヴィオラが笑った。
表示を閉じ、今度は開き直さなかった。
◇
朝食が終わる頃には、今日の水補充について話がまとまっていた。
第二接続地点の周辺は、これまでの利用では異常がない。
だからといって安全だと確定したわけではない。
今日はリゼとヴィオラが外へ出る。
前回とは別の組み合わせだ。
持っていく容器は少ない。
昨日確認した傷んだ容器は使わない。
帰還石はヴィオラが持つ。
「帰還前の手順は?」
俺が聞く。
「接続地点へ直接戻らず、周囲と尾行を確認」
リゼが答える。
「帰還石を持って反応範囲へ入る」
ヴィオラが続ける。
「反応が来ても、俺はすぐには開けない」
「向こうで待ちながら、もう一度周りを見る」
「入口を開けて異常があれば閉じる」
「追われていたら、接続地点へ近づかない」
一通り確認する。
俺が細かく命令しなくても、二人は手順を覚えている。
「では、今日の補充分はこちらへお願いします」
ファステが容器を渡した。
「無理に満杯へしなくて構いません。飲用と調理用を優先してください」
「洗浄用は?」
「今日の分は足ります。多く使う必要が出た場合は、明日また考えます」
一度で全部終わらせようとはしない。
その考え方が、もうファステ一人のものでもなくなっている。
「新しい痕跡があれば、水を汲まずに戻れ」
千代が言う。
「記録は私が取るよ」
ヴィオラが帰還石の入った袋を確かめた。
「できる範囲でな。見るために近づくな」
「分かってる」
リゼが先に第二接続地点へ出る。
入口越しに周囲を確認。
異常がないことを確かめてから、ヴィオラも続く。
「気をつけて」
「行ってくる」
「ちゃんと待っててね」
「それが俺の役割だからな」
二人が離れた後、入口を閉じた。
以前ほど、閉じた直後の静けさが気にならなかった。
不安がないわけではない。
ただ、今やるべきことが入口を開けたまま心配することではないと分かっている。
「夜斗様、こちらをお願いできますか?」
ファステに呼ばれた。
新しく持ち込んだ物を置くため、棚の一部を空けるらしい。
「何を動かす?」
「こちらの保存食です。千代さんが置き場所を分けた方がよいと」
「湿気の影響が出そうな物と、出にくい物を同じ場所へ置く必要はなかろう」
千代が記録を見ながら答える。
「分かった」
保存食を持ち上げる。
重すぎる物ではない。
ファステが置く場所を示し、レイナが容器同士の間隔を見る。
「もう少し離した方がよろしいですわ。蓋を開ける時に当たります」
「ここ?」
「はい。そちらなら大丈夫です」
指示されるまま動かす。
その間に、ファステは別の物を整理していた。
千代も次の記録へ移る。
レイナは補修した容器を確認する。
俺が全体へ指示を出さなくても、必要な作業は進んでいく。
昨日気づいたばかりのことが、今日はもう珍しくなくなり始めていた。
縁が棚の下へ鼻先を入れる。
「そこには何もないぞ」
声をかけると、一度こちらを見る。
それから、興味を失ったようにファステの近くへ移動した。
「縁、少し待ってくださいね」
ファステが言う。
縁は足元まで行かず、邪魔にならない場所へ座った。
家の中では、俺が把握していない小さなやり取りが増えている。
全部を知らなくても、一日は進む。
◇
昼前、共用部屋の決めた場所に置かれた帰還石が目に入った。
今はヴィオラが持っているので、そこには何もない。
「これ、セリナにも持たせられたら便利だったかもな」
何となく口にした。
ファステの手が少し止まる。
「セリナさんは、現在どちらにいらっしゃるのでしょう」
「分からない」
俺たちと再会した後、セリナはまた旅立った。
今も街に近い場所へいるのか。
もう別の方角へ向かったのか。
何も知らない。
「無事ならいい」
リゼのいない部屋で、代わりに千代が短く言った。
「前に会った時は元気そうだったけどな」
「旅を続けておれば、昨日無事であったことが今日の安全を保証せぬ」
それもそうだ。
「また来てくだされば、お食事をご用意できます」
ファステが言う。
「紅茶もあるしな」
「はい。セリナさんのお好みに合うかは分かりませんが」
「今ごろ、どこを歩いてるんだろうね」
布を選別しているレイナの隣にいた縁へ視線を落としながら、俺は考える。
帰還石は、登録住民が接続地点の近くで持っていなければ反応しない。
遠くにいるセリナの位置は分からない。
声も届けられない。
そもそも、旅立った時には帰還石自体がなかった。
「でも、持たせてたら戻ってきたってわけでもないか」
「戻る時に便利ではあったでしょうけれど」
レイナが言う。
「戻るかどうかは、セリナさんが決めることですわ」
「そうだな」
セリナは《淫獄》を嫌って出ていったわけではない。
旅をしたいから出ていった。
いつか帰ると約束したわけでもない。
戻りたくなった時に使える方法だけは伝えた。
既知の地下入口付近へ来て、俺たちと会えれば迎えられる可能性がある。
ただし、自動で《淫獄》へ入れるわけではない。
俺たちがいつでもそこにいるわけでもない。
帰還を保証する約束ではなかった。
「心配ではありませんの?」
レイナに聞かれる。
「心配はしてる」
「それでも、連れ戻したいとは思わないのですか?」
「俺が行っても、たぶん見つけられないし」
「そういう話ではありませんわ」
分かっている。
もし探し出せるとしても。
安全な場所へ戻した方がいいと考えたとしても。
セリナが旅を続けたいなら、俺が決めることではない。
「戻ってくるかどうかは、セリナが決めることだしな」
「はい」
ファステが穏やかに頷いた。
「戻ってこないと困るわけではないの?」
レイナが尋ねる。
「困るかどうかなら、少しは困る」
セリナが教えてくれたことは多い。
食べられる物の探し方。
痕跡の読み方。
人里へつながる方向。
街で得た情報。
今いてくれれば助かる場面もあるだろう。
だからといって、役に立つから戻れとは言いたくない。
「でも、困るから戻ってこい、にはしたくない」
誰もすぐには答えなかった。
縁が布の匂いを嗅ぎ、レイナに許された古い布の上へ丸くなる。
「ここにいることも、外にいることも、自分で決められる方がいい」
「夜斗様らしいと思います」
ファステが言った。
「褒めてる?」
「もちろんです」
すぐに答えられると、少しだけ照れる。
その時、また《淫獄石》の数を確認したくなった。
表示を開きかけて、やめる。
今の会話で増えたかどうかを見るためではない。
そう自分へ言い聞かせても、言い訳にしか聞こえなかったからだ。
◇
帰還反応が届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
『外界接続地点:二――帰還反応』
「来た」
反応を確認する。
すぐには入口を開けない。
決めた時間を置く。
その間に、ファステが水を置く場所を空ける。
千代が記録の準備をする。
レイナが濡れた容器を置くための布を広げる。
説明しなくても、全員が自分の作業へ移っていた。
「もうよいぞ」
千代の合図で入口を開く。
向こう側にはリゼがいる。
少し離れてヴィオラ。
人影はない。
武器も抜かれていない。
二人が水の入った容器を持って《淫獄》へ入る。
入口を閉じる。
「おかえり」
「ただいま」
リゼが答える。
「今日もちゃんと待てたね」
ヴィオラが帰還石を返してくる。
「子供扱いするな」
「途中で入口を開かなかった?」
「開いてない」
「偉い」
「だから子供扱いするな」
周辺に異常はなかったらしい。
新しい人の痕跡もない。
大型動物の姿も見なかった。
水は必要量だけ。
接続地点の安全が確定したわけではないが、今日も問題なく使えた。
「次回も同じ手順を維持する」
リゼの報告を、千代が記録する。
「担当は固定しない。行く者が変わっても手順を守れるか確認を続ける」
「次は私も行けますわ」
レイナが言う。
「容器の補修具合も、もう一度確認したいですもの」
「私も必要なら参ります」
ファステが続く。
「今日は俺が行くとは誰も言わないんだな」
「行きたいのか?」
リゼに聞かれる。
「いや」
「なら問題ない」
即座に終わった。
少しくらい迷ってくれてもいいと思う。
◇
午後は、それぞれ別のことをして過ごした。
ファステは持ち帰った水を分け、夕食の支度を始めた。
リゼは外出装備を確認し、傷んだ部分をレイナへ渡した。
レイナは補修できる物と、次に街で買い替えを検討する物を分ける。
千代は水の使用量と、第二接続地点の運用記録をまとめる。
ヴィオラは途中まで手伝い、集中が切れる前に別の作業へ移った。
縁は、その全員の間を自由に歩いている。
誰かの近くで休む。
別の音がすれば移動する。
最後には、また俺の足元へ戻ってくる。
俺は必要な時だけ呼ばれた。
入口に関係する確認。
棚を置く場所。
今後の外出方針。
俺にしか決められないことはある。
そうでないことは、それぞれが考えている。
今ここにいる五人は、自分の意思で役割を選び、この家に残っている。
セリナは、自分の意思で外へ出た。
それでいい。
この家は、全員を閉じ込めておくための場所ではない。
外へ出ない俺のために、ほかの全員まで外へ出られなくなる場所でもない。
残る自由がある。
出る自由もある。
戻る自由もある。
戻らない自由まで含めて、その人のものだ。
俺が望んでいるのは、全員を所有することではない。
誰かの人生を、俺の都合で決めることでもない。
それでも。
自由に動く五人が、今は自分の意思で俺と同じ家にいる。
外を旅するセリナとも、関係が消えたわけではない。
戻ることを命じていない。
戻らないことを責めてもいない。
いつか戻りたいと思ったなら、受け入れられる場所でいたい。
それを選ぶのは、俺ではなくセリナだ。
自由な女性たちが、それぞれ違う行き先を選びながら、俺との関係だけは自分の意思で持ち続けている。
縛ってそばへ置くのではない。
自由なのに、関係を選び続ける。
その構図を意識した瞬間、五人それぞれの姿と、ここにはいないセリナの笑顔が胸の中で重なった。
安心とは違う。
所有したいだけでもない。
自分の意思で俺と関わり続ける彼女たちを、もっと見ていたい。
どこへ行っても、どんな選択をしても、その関係が続いてほしい。
そんな欲望が、はっきりと熱を持った。
『《淫獄石》を800個獲得しました』
『所持《淫獄石》:10,000』
『《淫獄石》は現在の上限に達しています』
『通常《住民召喚》を実行可能です』
俺は固まった。
「……来た」
全員がこちらを見る。
「何がですの?」
「一万」
ヴィオラが真っ先に近づいた。
「本当に?」
「ほら」
「ちょうど一万だね」
「残りは?」
「ゼロ。貯める分は終わった」
召喚の表示へ意識を向ける。
『通常《住民召喚》』
『必要《淫獄石》:10,000』
『実行可能』
押せる。
今すぐ。
考えるより先に、意識が実行の文字へ引かれた。
「引く?」
ヴィオラが聞く。
「……引きたい」
「正直だね」
「一万だぞ。ここまで貯めたんだぞ」
「石を増やすために何かはしなかったのに、使うのはすぐなんだ」
「使うために貯めてたんだから当然だろ」
あと少し意識を向ければ、実行できる。
誰が来るかは分からない。
役に立つ人とは限らない。
ここへ残りたい人とも限らない。
セリナのように、すぐ外へ出るかもしれない。
それでも、一万個を使って何が来るのか見たい。
「夜斗様」
ファステに呼ばれ、実行から意識を外した。
「どうした?」
「召喚なさるのでしたら、少し準備をしてからではいかがでしょうか」
共用部屋を見る。
水の容器。
補修途中の装備。
広げられた布。
夕食の準備。
縁の寝床。
今日の生活が、そのまま残っている。
「新たな住民がどのような状態で現れるか分からぬ」
千代が言う。
「負傷している可能性も、混乱している可能性もある。受け入れる側が慌ただしいまま実行する理由はなかろう」
「逃げ出す可能性もある」
リゼが入口の位置を確認する。
「最初に周囲を空けた方がいい」
「事情を説明する役も決めるべきですわ」
レイナも加わる。
「私がやろうか?」
ヴィオラが手を挙げた。
「余計に混乱させそうだから駄目」
「信用がない」
「実績がある」
「実績って言わないでよ」
全員が、もう新しい住民を迎える前提で考え始めている。
俺だけがガチャの実行表示を見ていた。
押したい。だが召喚されるのは景品ではなく、意思を持った誰かだ。
「……明日でいい」
「本当に?」
ヴィオラが意外そうな顔をする。
「今日は普通に一日を終えたばかりだ。召喚するなら、全員が落ち着いてる時にする」
「成長したね」
「俺だって、それくらい待てる」
表示を閉じる。ヴィオラは笑ったが、今度は開き直さなかった。
その日の夕食は、いつもと大きく変わらなかった。
六人で食べる。
縁にも必要な分を用意する。
食後には紅茶を飲む。
誰も召喚を急かさなかった。
夜。
自分の空間へ戻る前に、もう一度だけ表示を開いた。
押せる。
今すぐ押したい。
でも、新しい住民を迎えるなら明日だ。
全員で準備してから。
「明日でいい」
口に出して、表示を閉じる。
少し間を置く。
「……たぶん」
もう一度開きそうになる前に、俺は目を閉じた。
あとがき
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